道化師(3)
「この世界は本当に、『我が永遠の闘争』の世界なのでしょうか」
道化師が案内したサーカスは今晩、日がとっぷりと暮れた頃に始まるとチラシに書いてあった。石畳の所々剥げた通りを歩く人の数は少なく、顔も一様に暗い。生気の抜けた人形のような姿で歩く老女など、まさに「終わった」街であることの証左にセレスティーヌには思えたほどだ。
四隅にガタが来はじめている広場の掲示板に、サーカスのチラシは貼ってあった。無彩色ばかりの世界に絵の具をぽとりと落としたように、派手なピンク色のチラシだった。道化師のまとっていたピエロスーツの色と同じかもしれない。
「何か心当たりでもあるの?」
「明確なものではないのですが」
サミュエルの問いにアルベールは言葉を濁した。普段からはきはきと喋る男であるだけに珍しい。
「私たちが潜っているのは『エナメル・シュー全集』なのです。『我が永遠の闘争』ではない」
「つまり?」
「私にはこのまま、サーカスを見るだけで終わるとは思えないのです」
「それはまあ、原因があるからここにいるんだしね」
適当な返しをするサミュエルもしかし、何か思うことがあるようだ。サーカス会場へ歩みを進める間も、アルベールに可能性を提示する。
「エナメル・シューの他の作品も絡んでくるってこと?」
「複数作品の概念が混ざって生まれた歪み。そういったこともあるやもしれません」
「では、その場合は何を受け止めれば……?」
セレスティーヌの問いに、アルベールは神妙な面持ちで答えた。
「そこです。『エナメル・シュー全集』だからこそ、この本は侵食されてしまった。その原因をサーカスで見つけられると良いのですが」
ふう、と息をひとつ吐くアルベール。その横顔はどことなく影があるようにセレスティーヌには感じられた。結局、胸の徽章は居心地悪そうに晒されている。ナイフの切っ先が触れた箇所が、表面に浅く爪痕を残していた。
躊躇したが、セレスティーヌは踏み込んだ。
「……貴族であることは、怖くありませんか?」
「はい?」
その問いの意味を理解できなかったのか、アルベールは毒のない純朴な顔で問い返す。これにはセレスティーヌも動揺した。上手い言葉が思い付かず、視線も泳いでしまう。
「いえその……さっきの道化師は、貴族を憎んでいました。平民にとって貴族は支配階級の象徴であり、悪意ある目で見られることもあると思います」
柔らかい羽毛の敷かれた箱庭で育てられたセレスティーヌには届かなかった声だ。舞踏会や社交場、レッスンホールではシャットアウトされる中流・下流層の人間の嫉妬や憎悪。先程の道化師は、その一端であろう。本来であればセレスティーヌも浴びていたはずの眼差しだ。
「ふむ。なるほどマドモワゼル、あなたは貴族というものが怖いのですね」
「……怖い?」
「ええ。本来ならばその問いは、貴族であることが嫌にならないかとあるべきです。そう聞かないのは、あなた自身がそう見られることを恐れているから出た問いだと思うのですが」
何かを見透かされたような気がした。セレスティーヌの肌が恐怖に粟立つ。貴族と見られることを恐れている――アルベールを理解しようとして投げ掛けた問いは、反対にセレスティーヌの核心をつくものになった。
青ざめたセレスティーヌを知ってか知らずか、アルベールは深く頷いて続ける。
「さて。貴族であることが怖いか、でしたね。それは違うというものですマドモワゼル。私は貴族という立場を誇りこそすれ、恐れることはないのですよ」
アルベールは胸を反らして答えた。
「貴族とは、誇りで成立するものです。国から功績を認められ、上流階級として生きていく権利であり義務を賜った存在です。であれば当然、他者に恥じる生き方など誰が出来ましょうか。この胸の徽章をあの道化師はお飾りだと笑いましたが、これは私の武器でもあるのです」
サーカスのテントが見えてきた。ピンクとイエローが半分ずつの、夜になりつつある景色でもはっきり見える色合いだ。アルベールは強い眼光を放った両目で、そのテントを見据えている。
「徽章は、私が貴族である証です。それは貴族として、どんな賛辞も受け入れ、どんな批判とも戦うということです。私は貴族であることから逃げません。それが貴族として生まれた私の責任というものでしょう」
「……ッ」
セレスティーヌは心臓をきつく掴まれたような心地になった。アルベール・ラファイエットという貴族を今この瞬間、初めて見た気がする。
我が身を恥じ入るばかりだった。セレスティーヌは貴族である生まれを隠し、アルバイトとして生活しているけれど。貴族は惰眠を貪るように欲にまみれた生き物だという嘆きも理解していたつもりだったけど。家にある権力に固執する空気が嫌で飛び出して来たけれど。
アルベール・ラファイエットは己の生まれから逃げることは決してしない。
「次に道化師に会ったときは、そう伝えてやるつもりですよ」
白い歯を見せて屈託なく微笑むアルベールを、セレスティーヌは直視することができなかった。
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