四冊目『怪盗ルナールと宵闇の真珠』
怪盗ルナール(1)
「怪盗ルナールが逃げたぞ! 追えッ!」
緊迫した警官の声が夜の静寂を切り裂いていく。焚かれる非常灯、駆け回る警官の革靴が荒々しく鳴っている。セレスティーヌはその光景を、目を大きく見開いて眺めていた。
心ここにあらず。非日常な本の世界は何度も見てきたけれど、怪盗と警官の緊迫の大捕物なんて見るのは初めてだ。
「本当に……怪盗ルナールの手腕は鮮やかなのですね……!」
声がやや上擦ってしまったのは興奮の表れだろう。セレスティーヌは静かに感激していた。
いかにここが傷ついてしまった本のなかとは言え、繰り広げられているのはドラマチックな逃走劇。エンターテイメント性の高いショーを見ているような心地のセレスティーヌには、抑えられない感動だ。
「泥棒ならもっとコソコソやればいいのにって、ぼくは思うんだけど」
「サミュさんは怪盗のかっこよさというものをわかっておられません!」
黒縁メガネを外し、気だるげな瞳を擦りながら一連の騒動を見ていたサミュエルは案の定眠そうだ。セレスティーヌはそんなやる気の感じられない修復士に対して力説する。
「本来、盗みとはコッソリと行われる悪事。ですが怪盗ルナールはあえて自らが目立つことで盗人の存在を知らしめようとしているのです!」
「なんで?」
「長くなりますが構いませんか?」
「じゃあいいや」
あくびを噛み殺すことさえせず、サミュエルは大きく口を開けた。セレスティーヌは怪盗に興味をなくしたサミュエルに不服を申し立てたかったが、断腸の思いで堪える。
怪盗ルナールの美学は語っても語り尽くせない。それもあるが、ルナールがどうして目立とうとするのか――それはシリーズのネタバレになるので言わないでおこう、という読者心理が働いたのもある。彼女は弁えた読者だった。
『怪盗ルナール』シリーズ。リュミエール皇国の若者に人気のエンターテイメント小説である。正体不明の大怪盗ルナールの鮮やかな手腕と、そんなルナールを追う警官たちの追走劇が描かれている。
娯楽小説としてライトな語り口で綴られるのもあり、若年層に読みやすい本として人気だ。早いうちから「怪盗ルナール」に憧れて、ごっこ遊びをするちびっこも珍しくない。
「でもわかりません。こんなに華やかな物語なのに……この本は、一体何故傷ついているのでしょう」
今回入った本の世界『怪盗ルナールと
宝石を狙った盗みというのはこの「宵闇の真珠」が初めてで、シリーズでも屈指の人気キャラ、宝石泥棒専門の警官・バスティエ警部の初登場巻でもある。
「人気シリーズで読まれていないわけでもありません。むしろバスティエ警部の登場で好評な一冊なのに」
「心の傷だからね。その本にしかわからない悩みがあるんじゃない」
どこ吹く風のサミュエルは、ライトが煌々と輝く夜を目の当たりにしても大きな表情の変化を見せない。やる気がないように誤解されかねない振る舞いはよろしくないと、セレスティーヌは時折釘をさしているのだが。
今、二人が目の当たりにした光景は「宵闇の真珠」が盗まれる場面……その第一ラウンドである。
バスティエ警部の罠で、「宵闇の真珠」の偽物を展示しておき、それをルナールは鮮やかに盗み出していく。後に偽物だと知ったルナールは改めて予告状を叩きつけ、バスティエ警部との二度目の戦いに赴く。そんなあらすじだった。
「ルナールは!?」
「窓を割って逃げた模様です」
「すぐに全ゲートを閉じるように伝えろ。蟻一匹通すな!」
バスティエ警部の力強い指示が飛ぶ。鼻の下のちょび髭がトレードマークの警部は、唾が飛ぶのもお構いなしに続けた。
「ルナールは抜け道を見つける天才だ。たとえ針穴ひとつでも通ってみせる。いいか、絶対に穴を作るな! これは命令だ!」
魔術師のような怪盗だ。セレスティーヌが怪盗ルナールの第一巻を読んだときの感想が、鮮明に蘇る。そう、ルナールはたとえどんなに小さい穴でも……それが穴であれば予想外の手段ですり抜けてみせる。たとえば猫のように関節を外して通ったり、たとえば高火力の爆弾を放り投げて壁ごと破壊したり。後者は最早穴がなくても力業で押し通った結果だが、面白かったのでそれでいい。
確か一回目の逃走は、ゲートを超人的な跳躍で飛び越えて見せたのであった。茂みにスプリングのきいたジャンプ台を仕込んでいたという、魔法でもなんでもない泥臭い方法で、逆にセレスティーヌは目から鱗が落ちる思いだった。
のだが。
「捕縛! 怪盗ルナール、正面ゲートにて捕縛しました!」
「なんですって!」
原作と違う。セレスティーヌはこのときようやく、ここが歪んだ本の世界であることを思い出した。
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