百万年のゆりかご(2)

「いやー、きみが来たのはいいタイミングだったよ。ぼく、修復以外微塵も興味ないし」

「言葉に一切の誇張がないのが悲しいですが、そうですね」

 

 軟弱な笑みを浮かべるサミュエルに対し、セレスティーヌはこめかみあたりがズキズキと痛むのを感じた。彼……本の修復士サミュエルと出会ってからというもの、セレスティーヌは偏頭痛がどうにも癖になってしまったらしい。

 サミュエルはこの図書館のなかでも数人しかいない、修復士という仕事をしている。その名の通り壊れたり破れたりした本を「治す」ことが仕事なのだが、修復士と呼ばれるにはある高等な技術を要する。修復云々については後程、彼の仕事ぶりを見せたほうが早いだろう。

 その高等な技術を扱う対価なのか、サミュエルは周囲が心配するほどの自堕落な人間である。正確には、本の修復以外のことにてんで興味を持たない。図書館に勤める人間として、修復以外の仕事は一切しないし、修復を始めると寝食を忘れて作業に没頭することもしばしば。「このままではおかしくなる」と、サミュエルが図書館職員としてマシな仕事をするように補佐をすることになったのが、アルバイトのセレスティーヌである。


「えっと、あとやらなきゃいけない本は……どれだっけ」

付箋ふせんを貼って山をわけておいたはずですが?」

 

 セレスティーヌはサミュエルの机に平積みされた本の塔を指差す。

 

「ああ、お昼前に整頓しておいたのに……! また山が崩れかけているじゃないですか」

「寝るときに腕が当たってさ。邪魔だったんだよね」

「お昼寝なさるなら仕事道具は離れた場所に置いてください。よだれが本に垂れたらどうするんですか」

「大丈夫、ぼくよだれ出さないから」

 

 信用ならない理由をこねられ、セレスティーヌは口をつぐんだ。これ以上のお咎めは無意味だと判断したためだ。本の修復にすべてを注ぐサミュエルにとって、感性など他のファクターは犠牲にされていると考えていい。彼には修復士以外になれる仕事はないな、と時折セレスティーヌはしみじみと感じ入る。

 頬についていた寝惚ねぼけた跡は薄くなってきていた。サミュエルは一度身体を反らせ、大きく伸びをする。目を覚まして仕事をする気になったらしい。

 

「ひーふーみー……十冊あるかないかだよね。これ、今日中?」

「優先度順に付箋の色も変えたのですけれど。赤い付箋が本日中の指示つきです」

 

 セレスティーヌは付箋のついた本の塔から、上四冊を手に取る。それをサミュエルの手元に並べた。

 

「ふうん。じゃあ今日は四冊だね」

「四冊って、できるんですか? 一冊を修復するのに丸一日かける修復士もいるのに」

「今日中って言うけど、引き取りに来るのは明日の営業開始……九時でしょ?」

 

 しれっとした様子でサミュエルは言う。

 

「今が午後一時だから、ほら。あと二十時間は確保できるよ。一冊五時間かければ治せないスケジュールじゃない」

「睡眠時間が入ってません!」

 

  セレスティーヌは切り裂くような悲鳴をあげた。

 

「あなたという人は……ご自身の身体のことも考えてください。不老不死の魔術師でもあるまいし、無理は身体に障ります」

「優しいんだね、セレスは」

「そんなことは」


 当たり前のリスクの話をしただけです、とセレスティーヌは視線を逸らす。あまり真正面から言葉にしてほしくないこと――感謝とか賛辞とか、自分の気性に関わることとか、パーソナルな言葉がセレスティーヌは苦手だった。間延びした穏やかな声と、陽だまりにいる猫みたいに心地よさそうな表情がまたペースを狂わせる。端的に言うと、セレスティーヌは褒められなれていない。


「からかうのも大概にしてくださいな」

「ぼくの所感を言ってみただけなのに」

「もう、いいですから。無理のないスケジュールで、計画的にやりましょう。私も可能な限りサポートします」

「寝ないために昼寝したんだけど……まあいっか」

 

 寝起きの運動を終えたサミュエルが、肩にかけた毛布を取り払った。綿毛みたいにふわふわした銀髪を整えることもせず、代わりに引き出しから眼鏡を取り出す。サミュエルの仕事道具のひとつ、黒縁の眼鏡だ。

 買ってきた液体のりを白い皿に流し、マスキングテープを細かく千切って混ぜる。このメーカーののりとテープがよく「なじむ」と、サミュエルのお気に入りだ。セレスティーヌの好みでピンクと水色が混在したマスキングテープのりは、華やかな色合いを皿に生み出した。

 さあ、とサミュエルが深呼吸する。


「本の修復、しようか。セレス、きみも来るよね」

「お供します」

 

 セレスティーヌは迷うことなく首肯した。サミュエルによる本の修復……セレスティーヌはその腕に、魅せられたのだから。

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