第31話
陽炎の沸き立つ音、セミの叫び声、林を抜ける風のささめき、蒼空を泳ぐ飛行機のこだま、遠雷の轟き。
耳を傾ければ辺りは音で溢れているのに、こんなにも夏が静かなものだと、僕は今まで気が付かなかった。
水溜まりのように透明な空の下を、僕たちを乗せた自転車は進んでゆく。時おり小休止を取る合間も言葉少なく、僕たちと世界の間は、ある種の静謐さに満たされていた。
やがて道は終わり、高架道が大きく迫る。土手に沿った坂道を上り、強い日射しを手で覆いながら、たどり着いた終着点で──。
──僕たちは、現実を知らされた。
そこは片側だけで何車線もある大きな道路だった。すぐ右手にはいくつもの料金所とETCゲートが立ち並んでいて、そこからさらにバイパスを上っていったその先に、ようやく高架道との繋ぎ目が遠くからわずかに見えた。自転車では決してたどり着くことの出来ない、高速道路への道が。
僕と霧絵ミルイはしばらく無言のまま、行き交う何台もの車を眺めていた。
さっきまで僕たちを包んでいた静けさと清らかさは、みるみるうちに騒音と排煙に汚されて、その圧倒的な現実の力を前に、僕たちは悔しさも憤りも感じる余裕さえなく、ただただ呆然と崩されてゆくまぼろしを目の当たりにするのみだった。
お互いに言葉はなく、どのくらいそうしていたのか。どちらからともなく、僕たちは来た道を下りていった。拍子抜けしたというよりは、夢の途中で起こされたような気分で、この感覚はどこかで感じたことがあるなと思ったら、不意に幼いころの記憶が甦ってきた。
まだ僕が小学生になったばかりのとき、どうしても欲しいおもちゃがあった。確か当時放映されていたロボットアニメの主役メカだったと思う。
まだ六つか七つになったばかりであったけれど、家が経済的に苦しく、僕と弟を食べさせるために母がかなり無理をして働きに出ていたことを幼心に何となく察していたので、それまで僕もあまりおねだりをしたことはなかった。
それでもどうしてもそのおもちゃが欲しかった僕は、誕生日に無理を言って母にそれを買ってもらったのだった。おもちゃといえど、それなりに高価で馬鹿に出来ない値段だったが、母は微笑って買ってくれた。
ところがそのおもちゃは自分が期待したほどのものではなかった。高価な値段の割りに可動する箇所が少なく、思ったようにポーズがとれなかったり、部品がすぐ外れたり、造型も雑な部分があった。
期待をしていたほどのものではなかったという失望よりも、母に対する申し訳なさがどんどん膨らんでいった僕は“ずっとこれが欲しかったんだ。だから今すごく嬉しいんだ”と自分に言い聞かせて、やるせない気持ちをごまかしていた。
〈今の気持ちはあのときの気持ちと少し似ている〉
気持ちの行き場を失ったまま、ただたださびしいような、かなしいような、空虚感と喪失感が心をからっぽにしている。
誰が悪い訳でもない。期待に裏切られた訳でもない。ただ──。
〈自分自身が理想に追い付かなかっただけ〉
気付けば元来た交差点を越え、僕たちは長いだらだらの上り坂を上っていた。どちらも何も言わなかった。ただ、何の木か分からないけれど、濃い緑の葉をつけた木が両脇に並んで植えられていて、その木漏れ日色に染められた道を見ていると、心の奥の一番無防備な場所を突かれるようで、気を抜くと何かが壊れてしまいそうになる。
ゆるやかな上り坂の終わりが近付き、木陰になった細い道を涼風が通り抜けてゆく。頬を撫でたその風に、潮の薫りがするなと思ったら、急に視界が開けて、目の前に穏やかな凪の海が広がっていた。
「海、だね……」
隣にいた霧絵ミルイが小さく感嘆の息を吐くのが分かった。寄せては消える渚の音が、どこかさびしく響く。
自転車を脇に置き、短い階段を下りて浜辺まで歩くと、僕たちの足跡が点々と波打ち際まで続いてゆく。平日の昼間ということもあって、僕たち以外には小さな子供を連れた若い母親が遠くにいるのみで、少しだけ静寂が戻ったことに、僕はほっとした。
「海ってこんなに小さかったっけ」
霧絵ミルイはどこか昔を懐かしむようにため息をひとつつくと、裸足になって打ち寄せる小波へ向かっていった。淑女の挨拶のようにスカートを指先で持ち上げ、くるぶしまで浸った足先をぱちゃぱちゃと無邪気に跳ねさせている彼女は、幼子のような笑顔で、どこか危うい。
その姿をぼんやりと眺めていたら、僕は急に何かを悟ったような気がした。しかしそれが何かは分からず、答えを求めるように辺りを見回すと、僕たちの後ろにあの高架道が変わらず立っていて、霞に煙る海の、そのずっと先まで続いている姿が、ふっと、静かに心へ着地した。
──ああ、そうか。
「ねえ、キミもこっちへ来なよ」
僕はそれには応えず「霧絵」と彼女に呼びかけた。
「……ごめん。“向こう側”へは、行けなかった」
彼女は穏やかに首を横に振る。
「ちゃんと連れていってくれたよ」
──そうだ。それはある意味正解だ。でもだからこそ、その先は言わないでほしい。
「確かに高架道を越えることは出来なかった……。だけど──」
──やめてくれ! その言葉を口にしたら、僕たちの“物語”は──!
「今私たちのいる“ここ”が、“向こう側”なんだよ」
かなしくなるくらい蒼い空の下、彼女が微笑いながら残酷に告げる。
そう。その通り。僕たちが目指した場所は決して“ここ”ではなかったけれど、彼女の言う通りこの場所が、この狭い海岸と行き着く先のない海が、僕たちが行くことの出来る最後の場所であり、そして──。
──僕の、僕たちの、限界なのだった。
他ならぬ霧絵ミルイの口からだけは、それを知らされたくなかった。特異な能力を持つ彼女。現実を変えることが出来るかもしれないチカラを持った彼女だけには。
「……そうだね」
少し遅れて彼女に応えると、さっきまで微笑っていた霧絵ミルイが、突然ハッとした顔つきになった。みるみるうちに表情を崩し、今にも泣き出しそうな顔で小走りに僕へ駆け寄って、彼女はそのまま強く僕を抱き締めた。
「……どうしたの? 急に」
そう言った自分の声が鼻声になっていたことに、言ったあとで気が付いた。視界が歪み、真っ白な入道雲から顔を覗けた太陽の光が虹色に霞んで、とてもきれいだった。
「あれ──?」
僕は、泣いていた。
自分でも気付かないくらいささやかに、自然に涙がこぼれていた。
「おかしいな。どうしたんだろう」
不思議と心は穏やかだった。にもかかわらず涙は止まることなく、目の前の凪いだ海のように、わずかな感傷の漣だけが、心を小さく揺らしている。
「ごめんね……」
僕を抱き締める腕に力を込めながら、霧絵ミルイは何度もごめんねと謝る。その声はわずかに震えていて、もしかしたら彼女も泣いているのかもしれない。
「霧絵……」
僕も彼女を抱き締め返した。いまだ静かに流れる涙をそのままに。どちらがどちらを慰めているのか、それさえ分からないままに。
そうして二人のぬくもりを分け合ううちに、僕たちのこの最後の場所で、今まで気付かない振りをしてきたたくさんの色々なかなしみが、お互いの心へと少しずつ染み入っていった。
「──うまくいかないなぁ」
何もかも、と堪えきれず漏れた一言は、何故か乾いた笑いとともに出た。
僕も、霧絵ミルイも、母も、弟も、ただ幸せになろうと一生懸命頑張っているだけなのに。
「本当に……」
彼女は何も言わず、ただ黙って頷いてくれた。
「行きたかったなぁ……“向こう側”へ」
これが見納めのつもりでもう一度高架道を見ると、彼女も同じように遠い目をそこへ向けた。もう届かないと知ってしまった夢への道を流れる無粋な車の音を、僕たちは恨みを込めて、ただじっと眺めていた。
「……帰ろうか。私たちの“現実”へ」
その一言は、何の前置きもなく彼女から発せられた。
蒼い空と真っ白な入道雲の間を、銀色の飛行機が飛んでいた。
世界の片隅の、ちっぽけな僕たちの物語は、ここで終わった。
僕は大きく深呼吸すると、腕の中の彼女を離して、ポケットの中から小鳥遊さんに預かったペンダントを取り出した。
「ずっと言えなかったんだけど、小鳥遊さんに頼まれていたんだ。お前にこれを渡してくれって」
あんなに躊躇っていたことが嘘のように、何も考えず、何も思わず、ごく自然にペンダントを霧絵ミルイに差し出せたことに少し苦笑してしまう。
「これ、もしかして……」
驚きと期待の入り交じった表情を見せる彼女に、僕は頷いて答えた。
「子供のころお前にもらったものだって、小鳥遊さんは言ってた。お守りだけど、今これが必要なのはきっとミルイの方だからって」
「汐莉が、そんなことを……」
霧絵ミルイはペンダントを受け取ると、それを両手で包み込み、愛遠しそうに胸へ抱いた。ファンシーな鍵の形をした、いかにも安っぽいプラスチック製の、子供っぽいおもちゃに過ぎなかったけれど、彼女はずっと昔になくしてしまった宝物を見つけたときのように、暖かな微笑みを向けていた。
僕は反対側のポケットへもう一度手を入れて、ずっと電源を切ったままだった携帯を取り出した。恐る恐る電源を入れると、母や友人たちや、他にも知らない番号からの着信が洪水のように溢れてきて、僕は今さらながら色んな人に迷惑をかけたことに、後ろめたさと罪悪感でいっぱいになった。
僕は画面をスクロールして杉原の番号へリダイヤルした。母へかけるのは、何となくためらわれたから。
『草壁か!?』
数秒のコールのあと、杉原が驚いた声で出た。
「ああ」
『お前今どこにいるんだよ! みんな心配して探し回ってるんだぞ!?』
「……ごめん」
『俺らや先生もそうだし、おふくろさんやお前の弟も、近所の人や警察まで』
どうやら僕が思っていた以上に大事になっていたらしい。杉原だけに謝っても仕方ないとは分かっていたけれど、僕はもう一度ごめんと謝った。
杉原はため息をひとつ吐いて、幾分落ち着いた声音で続けた。
『……それで、今どこにいるんだよ』
「どこかは分からない。自転車で適当に走ってきたから。ただすぐ近くに海があって、その海峡の向こうへとずっと続く長い高架道が見える場所に、今僕たちは立っている」
『僕たち……? もしかして霧絵も一緒なのか?』
僕は控えめに「ああ」とだけ答えた。
二人同時に家出をして、しかも一緒にいるとなると嫌でも関係を疑われてしまう。そこはもう、否定のしようがないので敢えて簡潔に答えたのだけれど、続く杉原の沈黙は、戸惑いや困惑だけではない、ある種の不穏な重みを持っているように思われた。
「……霧絵がどうかしたのか?」
『それなんだけどよ──』
杉原の話を聞いて、僕は愕然とした。これも彼女の──霧絵ミルイの物語が起こしたことなのだろうか。だとすれば──。
僕は反射的に霧絵ミルイを見た。そこで初めて彼女の異変に気が付いた。
さっきまで微笑みを浮かべていた彼女の顔は凍り付いたように蒼白になり、まるで恐ろしいものでも見るかのように、渡されたペンダントをジッと凝視している。
『とにかく一刻も早く戻ってくるよう、霧絵に伝えて──』
彼女は頭を抱え、身体をくの字に折り曲げながら苦悶の声をあげていた。ペンダントを持った手はワナワナと震え、危ないと思った瞬間、彼女は膝からくずおれた。
「霧絵っ!?」
僕は駆け寄って彼女の身体を抱き止めた。長い黒髪を乱れたままにさせている様は、まるで気がふれてしまったかのようだった。
「霧絵! しっかりしろ! どうしたんだ!? 大丈夫か!?」
『おい! どうした! 何があった!?』
突然のことに訳が分からず混乱している合間にも、僕の腕の中で霧絵ミルイはうわ言のように呟き続けている。
「帰、らないと……」
「帰る?」
「確かめ……」
彼女はそこで気を失った。
「霧絵っ!」
携帯からは杉原の声がスピーカーから割れんばかりに響いている。
『おい! 霧絵は大丈夫か!?』
「彼女が……突然気を失って……」
霧絵ミルイを片腕に抱えて、動揺する心を何とか落ち着かせながら答えると、杉原は幾分ホッとしたような、小さなため息をして言った。
『……無理もない。自分が家出している間に──』
「違うんだ」
杉原の言葉をさえぎって、僕は言った。
「彼女には、まだ伝えてなかったんだ」
そう。彼女の母親が、倒れたということを──。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます