第38話



 空は見事な薄紫で、沈みかかった夕陽の残照が、宵闇に呑まれそうな影をかろうじて残している。神社の前の道は緩やかな下り坂になっていて、僕は上ってくる人たちにぶつからないように気を付けながら、しかし加速するスピードを落とすことなく全速力で坂を下って行った。

 遠くからは祭り囃子がかすかに聞こえ、いつもとは違う風が吹いている。じれったい赤信号をもどかしく待ち、再び駆け出すと、かき氷を持った女性連れとぶつかりそうになって、僕はギリギリでかわしながら危うい姿勢のまま曲がり角を折れた。

 細い道を抜け、汗で湿ったシャツで額をぬぐう。やがて人の数が減り、徐々に目的地が近付いてくると、休館日を示す札がかけられた図書館脇を抜けて、僕は薄暗いトンネルの前にようやくたどり着いた。

「霧絵……」

 肩で息をしながら呼吸を整えると、僕の心の奥底で、深く重たい鼓動が胸を強く打ち始める。異界への入口を見定めるように、僕は五感の気配を鋭敏に立てながら足を踏み入れた。

 夢と現、彼岸と此岸、物語と現実──。それらの狭間に接するこの通廊に、非現実めいた濁りのない足音が木霊する。時計の秒針のように、一歩、一歩と足を進め、いよいよトンネルを越えたに踏み込んだ瞬間──。


 突風が、僕の身体を、心を、余すところなく通り抜けた。


 一瞬閉じた瞳をゆっくりと開くと、世界は一面、あかね色に染められていた。

 稜線のきわにほとんどその身を隠していた夕陽から、一体どれだけの灯りを集めたのだろうと思うほどに、見事に鮮やかな燈色が、路地を、木々を、家々を、宵の口から遠ざけていた。空には雲ひとつなく、どこから来るのか分からない時雨がしとしとと降っていて、あたかも雨粒の触れた箇所から、色彩が溶けて流れ落ちているかのようだった。


 ──さあ、かくれんぼだよ。

 少女はそう言って微笑んだ。まだ大人にはなりきれない、かといって子供のままでいることも許されない、曖昧な時間。傾いた陽射しを受けながら、自分はまるで夕暮れのようだと、少女は誰にともなく呟いた。


 霧絵ミルイの物語に刻まれた言葉が、境界からそそぐ夕陽に照らされて、朧気に浮かび上がる。目の端には、低い石垣に腰掛けた少女が狐の面越しに微笑う姿があって、しかし焦点を合わせた途端、少女は姿を隠し、後には薄桃色の浴衣の残像だけが尾を引いた。

 僕はゆっくりと駆け出した。少しだけ涼しくなった夕風に湿った土のにおいが運ばれてくると、霧絵ミルイと二人で少年/少女を追いかけたあの瞬間が、脳裏に思い起こされる。


 ──最後まで見付からなければ、願い事はきっと叶う。

 誰から教えてもらったのかも思い出せない物語に、それでも少女は祈る。閉ざしていた記憶の中の真実に気付き、もはや希望は残されていないと知りながら、最後に残された“守りたい”という想いだけを胸にして。


 淡い陽射しと薄く伸びた影の上を、焦る気持ちとは真反対の、緩やかにしか動けない身体で、僕は必死に駆け走る。炉端には黄色い百合に似た花が群生していて、その甘い香りに誘われるように、路地の奥へ奥へと入り込んでゆく。

 やがて少し広まった場所へ出ると、不意にどこからか甲高い笛の音が近付いてくることに気が付いた。ぼんやりと煙る夕霧の中、音色はしだいに鈴や太鼓の音と混ざり合い、大きくなりながら、徐々に現れ出たその光景に、僕は思わず息を呑んだ。

 白無垢の花嫁を中心に据えて、羽織袴で正装した二十人ほどの狐の嫁入り行列が、仰々しい足取りで、しめやかに列をなして歩いていた。提灯を先頭に、篠笛、神楽鈴と続き、最後尾に締太鼓が並ぶ楽士たちの調べが、神事にも似た格調高さを場に与える。


 ──現れた狐の花嫁行列を目の当たりにして、少女は列を塞ぐように立ちはだかる。不意に現れた闖入者に行列は歩みを止め、両者の間に不穏な風が吹き始める。


 おごそかに、粛然と、綺麗な姿勢を保ったまま、一歩ずつ確かめるように列は進んでゆく。

 気付けば周囲の家々や細道からたくさんの人たちが列を眺めていて、誰もが皆白い狐の面を着けていた。彼らはただの観光客なのか、それとも狐の一族なのか、あるいは神隠しにあってこの世から消された人たちなのか、判然としないまま、空から落ちる小雨だけが、僕には無関心に花嫁を祝福している。


 ──咎めるような視線を全身に浴びながら、少女はそれでも臆さない。列からは幼い少年が歩いてきて、少女の腕を掴む。きっとこの少年が自分をこの世ともあの世ともつかない場所へ連れてゆくのだろう。しかしそれでかまわない。誰にも見付からなければ、願いは叶うはずだから。


 列は僕の前で静止し、その目が一斉に僕に向けられる。


 逃げるように顔をそらすと、周囲の人々もまた、狐の面越しに僕を見つめていて、僕はまるで視線に縫い付けられたかのように、その場から動けなくなった。

 その固まった僕の袖を引く者がいる。先ほど僕の目の端に現れて消えた、あの少女だった。



 ──幼い少女/少年に手を引かれ、僕は/私はおぼつかない足取りで路地を走る。どこか懐かしい風。湿った土のにおい。少し怖いような夕暮れの影。

 歌うように/踊るように前を行く少女/少年に、導かれているのか、惑わされているのか、それさえ不確かなまま、物語の中の彼女/現実世界の彼が、僕/私と重なり合い、物語/現実の境界が曖昧になってゆく──


「だめだ!」

 意識を何とか現実に引き戻そうと、僕は自身に向けて必死に叫ぶ。このまま霧絵ミルイの“物語”に引きずられてしまえば、彼女を連れ戻すことが出来なくなってしまう。

 道は直線を残すのみとなり、朱に彩られた空地の入口へ向けて先導していた少女が、僕の手を離して微笑いながら走り出す。楽しそうに、からかうように、僕の前で舞い遊ぶ少女は、空地から射し込む夕陽に溶け込み、静かに消えていった。

 その様は、まるで──。


 ──僕は必死に自制しながら/私は未練を隠しながら、思わずにはいられなかった──


「だめだ! やめろ! くそっ! 考えるんじゃない!」

 意識の中で、物語の中で、霧絵ミルイはいつもの少し寂しそうな、憂いを秘めた瞳で儚げに微笑む。黄昏の空には一番星が瞬き、夕闇になる一歩手前の、泣きそうな灯りが彼女を逆光に照らし出すと、淡い燐光に包まれた霧絵ミルイの姿が、徐々にその存在感を希薄にしてゆく──。


 ──物語と現実が同じ地平に重なったこの瞬間、そのどちらにも属さないまま消えてしまうということ。それはなんて、なんて──


「霧絵っ!!」


 ──彼女らしい──

 ──美しい──


 ──最期なのだろうと──



 路地の終点、誰からも忘れられた空地は以前来たときと変わらず、侘しい風が吹いていた。いつの間にか“物語”は消え、後にはあの放置された高架橋の一部が

、夢の痕跡のように、夕陽を浴びて紅に染まっていた。

「霧絵……」

 名前を呼ぶ声が、思わずかすれてしまう。

 危うい足取りで鳥居のような高架橋の下まで歩いて行くと、そこには彼女の“物語”を綴ったあのノートが落ちていて、しかし彼女の姿はどこにもなかった。


 霧絵ミルイは、現実世界の“向こう側”へと行ってしまった。


 彼女の創り出した“物語”とともに──。




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