第39話 エピローグ





 気持ちのいい晴れやかな蒼空を、輪郭のあいまいな白い雲がゆっくりと泳いでいた。爽やかな朝の、一日の中で一番いい風が吹く時間。土手の斜面には青草が生い茂り、五月の優しい陽光が目の前を流れる川の水面に反射して、やわらかく、きらきらと輝いている。

 大型連休とあって、土手に沿ったマラソンコースや公園には、若い人からお年寄り、親子連れや部活中の中高生まで、様々な人たちで賑わっていた。

「案外、真人と会ったりして」

 弟は今はフリースクールに通っている。弟と同じように、いじめられていた子たちが多いらしく、友達も何人か出来たようで、今日も友達と遊びに行くと早くから家を出たのだった。

 少しずつではあるけれど、真人も前に進んでいることが僕には嬉しかった。

 僕は周囲を見回しながら、待ち合わせをしていた彼女の姿を探すと、不意に後ろから「草壁君」と懐かしい声が聞こえて、振り返った。

「久しぶりだね。元気してた?」

 そう言ってにこやかに微笑む小鳥遊さんの姿に、僕は一瞬別人かと目を疑った。

 いかにも女子大生らしい、薄いピンクのカーディガンと、膝から下を大胆に、しかし品良くあらわにするデザインスカート。重たいおかっぱだった髪は明るい茶色に染められ、毛先がゆるく巻かれている。どちらかといえば細かった目元は、アイラインと付けまつ毛でぱっちりと大きな瞳になり、元々白い肌だった頬に、ほんのりと赤いチークがとてもよく映えている。

「ごめんね。遅くなっちゃって。お父さんがなかなか離してくれなくて。『久しぶりに帰って来たのに、ゆっくりする間もなく遊びに出かけるとは!』なんて言っちゃってさ。まだ家を出てから一ヶ月しか経っていないのに。ねぇ? ……どうかした?」

「いや、随分あか抜けて可愛くなったものだから、ちょっと驚いて」

 本当に。最後に会ったのは卒業式の三月だったから、まだ二ヶ月しか経っていないにもかかわらず、この変わり様には本当に驚いた。女の子は少し見ない間に大きく変わるというけれど、まさにそのとおりだと思った。

「そうかな? ふふっ。ありがとう。草壁君も少し大人っぽくなったんじゃない?」

 以前の小鳥遊さんなら照れて俯いているだろう。こういったセリフを余裕を持って言えるようになったのも、彼女が成長した証なのかもしれない。

「そんなことないよ。もう、ついていくのに必死でさ。怒られてばっかだし」

「運送業だっけ?」

「うん。入社する前にある程度は聞かされていたけれど、まさかこんなに時間に追われる仕事だとは思ってなかったよ。なんていうか、考えが甘かったって感じ」

「何か、大変そうだね」

「まあね。だけど──おかげで霧絵ミルイのことを考えなくて済むから」

 霧絵ミルイの名前を出した瞬間、それまでやわらかに会話を交わしていた小鳥遊さんの表情からサッと微笑が消えて、彼女はいたたまれないような面持ちで俯きがちに呟いた。

「……もう少しで、一年になるんだね……」


 あの夏の日、霧絵ミルイはいなくなった。

 駆け落ちまがいの家出──不本意ながら世間ではそう思われているらしい──から戻ってきた直後、しかも彼女の母親が危篤状態ということもあって、そのときはちょっとした事件となった。

 僕は霧絵ミルイと最後に話した人間ということで、警察から何度も事情を聞かれた。それらの質問に僕は率直に答えていったけれど、彼女の“チカラ”のことは黙っていた。「霧絵ミルイには“物語を現実にさせる能力”があって、彼女は自身が現実から消失する“物語”を書き、それが現実となって行方不明になったのです」などと言ったところで、一体誰が信じてくれるというのだろう。

 学校側もチラシを作ったり、ボランティアの人たちと協力して彼女を捜してくれたけれど、その程度で見付かるはずがないことは、僕には最初から明らかだった。また僕自身も就職活動や車の免許を取ることなどに忙しく、結局霧絵ミルイを見付けられないまま、何をしていても、どこへ行っても、彼女の影を求めて“物語”と現実の狭間を捜して彷徨さまよううちに、いつも一日が終わってしまって、卒業までの日々を、僕はただ虚ろに過ごしていった。

 それでも得たものはあった。随分遠回りをしてようやくたどり着いた、ひとつの答え。


「私ね。時々思うんだ」

 長い沈黙のあとで、小鳥遊さんは顔を上げた。

「ミルイがいなくなってから、彼女は現実に存在していた人間じゃなくて、物語フィクションの登場人物だったんじゃないかって。……もちろん、馬鹿げた考えだって分かってる。でもミルイなら、そういうこともあり得るように思えない?」

 小鳥遊さんは少し寂しそうな微笑みを浮かべて僕に問いかける。

「小鳥遊さん。君は……、君は、霧絵ミルイがこうなることを予期していたんじゃないか?」

「まさか。私は予言者じゃないし、ミルイのように特別なチカラもないよ。どうしてそう思うの?」

 彼女は表情を変えず、風に流される髪を押さえて小さく首を横に振る。本当に彼女は大きく変わったと思う。本心を上手に隠す彼女の方が、僕よりもよっぽど大人びて見える。

「……今日、小鳥遊さんを呼んだのは、僕自身にをつけるためなんだ」

「けじめ?」

「別の言い方をすれば、彼女の“物語”に終止符ピリオドを打つために、ここへ来たってことだよ」

「ごめんなさい。私にはよく分からないけれど、どうすれば終止符を打つことになるの?」

「彼女が最後に残した謎──霧絵ミルイの能力チカラとは何だったのかを解く、ということさ」

 僕がそう答えると、小鳥遊さんは一瞬──それはほんの瞬きほどの一瞬であったけれど──顔から一切の表情を消して、しかしすぐにごまかすように「すっごい! ミルイのチカラの謎が解けたの!?」と驚いてみせた。

「まあね」

「ふふっ。何だか草壁君、ミステリー小説に出てくる探偵みたいだね。

 物語の最初から事件に遭遇し、最後にすべての謎を解いて、犯人を糾弾するの。──あれ? とすると、犯人役は私になるのかな? あ、さっき言ってた予期していたんじゃないかっていう言葉は、ここに懸かってくるんだね」

 小鳥遊さんは微笑みながら、心持ち首を傾げて、からかうように僕を覗き込んでくる。その瞳も、その口も、その首も、怖いくらい完璧にきちんといて、うっかりしていれば本当に微笑っているように思えてしまうけれど、視線のちょっとした角度や、背中を向けたときの佇まい、髪の毛の先端から伝わる態度などを注意深く観察すれば、その挑むような、刺すような冷たい雰囲気がわずかに滲み出ているのが分かる。

「それじゃ、聞かせてくれる? 名探偵の推理を」

 彼女はあくまで楽しそうに聞いてくる。その優しい脅しに屈しないよう、僕は姿勢を正して「ああ。分かってる」と続けた。



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