第37話



 夏の太陽が沈む蒸し暑さと、大勢の人々が行き交うざわめきや、徐々に上がってゆく祭りの熱気が混ざり合う中にありながら、僕はあたかも異界に放り込まれたような心細さを感じずにはいられなかった。

「霧絵!」

 大声で彼女の名前を呼ぶと、周囲の人たちが驚いた顔でこちらを見る。中には緊張を含んだ僕の声に不安げな視線を投げかける人もいたけれど、なりふり構っていられなかった。

「霧絵! どこだ!?」

 境内には様々なテキ屋が所狭しと並んでいて、その極彩色の段幕が、妙に毒々しく映える。

 僕は舌打ちして人だかりをかき分けながら、彼女が隠れそうな場所を必死で捜し回った。境内の隅、社務所の影、林の間。あまり広くないこの神社に、およそ人気のない場所はそう多くなく、しかしそれらの場所をすべて回ってみても霧絵ミルイの姿はなかった。

「あと捜していないのは社殿の中くらいのものだけれど……」

 さすがにその可能性は低いと思う。大抵鍵がかけられているだろうし、仮に開いていたとしても、これだけ大勢の衆人環視の中でそんな不自然な行動をしていれば、誰かが通報しているはずだ。

 ただそれでも、夕闇が迫る薄暗い社殿の中で、膝を抱えながら憂えた瞳を伏せて孤独に堪えている霧絵ミルイの姿を想像すると、そのセピア写真のようなイメージがあまりにも彼女に似合っていて、思わず足が止まりそうになってしまう。

「……いけない。早く彼女を捜さないと」

 意識を現実に引き戻して、僕は再び境内を捜してみたけれど、やはり霧絵ミルイは見当たらない。

「せめて何かヒントがあれば──」

 そう独り言を呟いたとき、僕はあることに気が付いた。

 街灯に照らされて溢れかえる大勢の人たち。祭り囃子の太鼓が響く音。屋台から漂う香ばしいにおい。

 どこをとっても目に見えるのは“現実”ばかりで、周囲を見回しても、世界が裏返っていくような、“物語”が現実に染み込んでくるあの独特な感覚が、まったく感じられない。

 考えてみれば、霧絵ミルイの“物語”が世界を浸食してゆくとき、彼女は常に僕の傍にいた。路地裏のときも。あの夜も。そして彼女の母親の件もまた、彼女と同じ場所にいたときに起きたことだった。

 現実と“物語”の境界が曖昧になり、その狭間の世界に入るためには、もしかすると霧絵ミルイと一緒にいることが条件なのかもしれない。しかしだとすれば──。

「──霧絵は、ここにはいない……?」

 その可能性に思い至ったとき、僕は全身に鳥肌が立った。

〈いや、待て。落ち着くんだ〉

 自分に言い聞かせながら、僕は改めて考えた。霧絵ミルイは確かに「神社でかくれんぼをする」と明確に言葉にしていた。この辺りに神社はここしかなく、したがって必ずどこかこの近くに隠れているはずだ。

〈それなのにどうして見付からないんだ!〉

 焦りが苛立ちになり、意味もなく早足で周囲を回っては引き返し、何の手がかりも痕跡も見付けられず、またあてもなく捜し回ることを繰り返していると、不意に後ろから「草壁?」と馴れた声が聞こえた。

「やっぱ草壁だったか」

 振り返ると、そこには杉原や半井、他にもクラスメイトが何人か立っていた。

「あー……、なんていうか──」

「霧絵を見なかったか」

 気まずそうに何か言おうとした杉原の言葉を遮って僕が問うと、微妙に複雑な顔をしていた皆は、虚を突かれたように瞬いた。

「霧絵? 一緒に帰ったんじゃないのか?」

 問いかけの意図が分からず困惑している皆に、どうしたら今の絡まった状況を理解してもらえるか、僕は頭をフル回転させて、ただ端的に「またいなくなったんだ」と言って続けた。

「お母さんがあんなことになったのは自分のせいだと、彼女はかなり精神的に追い詰められてる。正直、何をしでかすか分からないくらいヤバい状況なんだ。だから頼む。みんなも霧絵を捜してくれないか」

 僕の言葉に皆はお互いの顔を見やっていたが、すぐに「分かった」と頷き返してくれた。

「よし。手分けして捜そう。一時間後にこの場所に集合で」

 何かあったらすぐに連絡することと、杉原が手早く皆をまとめて散開する。

 僕は皆に感謝しつつ、しかしおそらく霧絵は見付からないだろうという気がしていた。それでも皆の行動は嬉しかったし、何より視野狭窄に陥っていた僕に、誰かを頼るという発想を思い起こさせてくれたのは大きな収穫だった。

 僕はポケットから携帯電話を取り出して、小鳥遊さんの番号にかけた。

「もしもし、草壁君?」

 数度のコールのあと、小鳥遊さんの声が電話口越しに聞こえてきて、僕は内心ホッとした。もし出てくれなかったら、本当にこれ以上打つ手がなかったところだった。

「小鳥遊さん、君に聞きたいことがあるんだ」

「どうしたの? 改まって」

 少し落ち着いた心を騒がしくさせないよう、僕は注意深く言葉を選んでいった。

「僕と霧絵が家出していたのは知ってる?」

「え、ええ……。先生から連絡があって……。でも、帰って来たんだよね?」

「ああ。だけど、霧絵がまたいなくなったんだ。家出をしていたときに、霧絵のお母さんが倒れてしまって、霧絵はそれを自分のせいだと思い込んでるんだ。……お母さんが倒れたのは、自分を捜し回って身体に負担をかけさせてしまったからだとね」

「そんな……」

 小鳥遊さんが息を呑む。

「だから、彼女が行きそうな場所に心当たりがあったら教えて欲しい。今、杉原や半井たちにも捜してもらっているけれど、霧絵はきっと僕以外の人の前に姿を現さないような気がするんだ」

「……それは、ミルイの“物語”と関係することなの……?」

 驚きと戸惑いから、トーンを下げた低い声で、小鳥遊さんは言った。僕は一瞬考えて「ああ。おそらくは」と答えた。

 僕の返答に何か思うところがあったのか、あるいは単に考えていただけなのか、小鳥遊さんは少しの間押し黙ると、独り言のように小さな声で「ひとつだけ、思い当たる場所があります」と呟いた。

「どこ!?」

 思わず大声になって聞き返す僕に、小鳥遊さんは落ち着いた声音で告げる。

「それは──」

 その場所を聞いた瞬間、僕の中で「何故?」という疑問が拡散していって、しかしほとんど同時に理屈も理由も判然としないまま、奇妙に納得している自分がいた。

「ミルイは、よくお父さんにその場所へ連れていってもらったそうです。家の近所には子供が遊べるような公園や広場がなくて、思い切りはしゃぐことの出来る場所がそこしかなかったからって。

 雑草が生え放題で、遊具ひとつない侘しい荒れ地だったけれど、自分にとっては暖かくて懐かしい、安心出来る場所なんだって、そう言ってました」

 間違いない。霧絵はきっとそこにいる。

「……ありがとう。すぐ行ってみるよ」

「私も行きます」

「大丈夫。ここは僕に任せて」

「でも──」

「必ず霧絵を連れて帰るから。約束する」

 そう言って小鳥遊さんの返事を待たず、僕は電話を切った。他の誰にも霧絵ミルイの所へ行かせたくなかった。彼女を見付け出すのは、僕しかいないと思ったから。

 僕は一度深呼吸をして、来たときと同じように二段飛ばしで階段を駆け下りて行った。走れば十分くらいで着くだろうか。雑踏を縫うように抜けながら、僕は小鳥遊さんに教えてもらった場所を目指した。

 図書館に程近い、幼いころの僕と霧絵ミルイを追いかけた、あの路地裏を。


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