第36話
「そ──」
そんなはずはなかった。救急車の中で、霧絵ミルイの母親が死んだり怪我を負ったりするような“物語”はノートに書かれていないことを確認している。
にもかかわらず、彼女の言ったことを否定する言葉が喉の奥で詰まってしまうのは、どうしてなのだろうか。
「キミは覚えているかい? あの廃屋で身体を重ねたとき、私たちが何を願ったか──どんな“物語”を想像/創造したか」
──ね、このまま本当にどこかへ行っちゃおうか──
──痛みも、かなしみも、苦しみも、怒りも失望も泣きたい気持ちも全部置き去りにして──
──誰にも、何にも、どんな夢にも希望にも縛られることなく──
──私たちを妨げる障害はすべて消え去り──
──自転車に乗って、どこまでも──
「まさか──」
「そのまさかさ。重要なのは“私たちを妨げる障害はすべて消え去る”というところだよ。……私は、このかなしみから逃れ、キミとどこまでも生きたいと願った。かなしみの原因はすべて母にあり、同時に私の幸せを妨げる存在こそが母だと思ってしまった。だから“物語”は“現実”の母を排除しようとしたんだ」
彼女は再び感情の読めない声音で、その抑揚のない落ち着き払った態度が、逆に不安を加速させる。
「そんな……! そんなバカな!? お前は言ってたじゃないか! 私には特別なチカラなんかなかったって! いや、仮にお前にそういった能力があったとしても、今回はただの偶然だ! 重なり合う部分が少な過ぎるし、第一ノートにも書かれていないじゃないか!? 自分の創った“物語”で母親が死ぬかもしれないなんて、そんなの──」
霧絵ミルイの言っていることを否定したくて、僕は焦りと恐れに駆られるまま捲し立てた。ついさっきまで自分は彼女のチカラを信じたいと思っていたくせに、矛盾することを言っているという自覚はありながら、それでも今だけは、彼女の考えを「違う」と言ってやりたかった。
「ノートは関係ないよ。言っただろう? すべてわかったって」
その声は、まるで事件の真相にたどり着いた探偵のようで、その含んだ言葉の意味するところに思い至ると、僕は現状を一瞬忘れて、我知らず驚愕と興奮に心が震えた。
「もしかして、分かったのか……? “物語”が現実になる、その法則が!?」
霧絵ミルイはそれには答えず、電話の奥で小さく微笑う。
辺りは徐々に黄昏に覆われ、此岸と彼岸の境界線があいまいになってゆく。
人間と
「かくれんぼしようよ」
そんな、場違いなことを。幼子のように純粋な声で。
「かくれん、ぼ……だって?」
あまりの唐突さに、ついオウム返しに聞いてしまう。
「そうさ。私が隠れるから、キミが鬼の役だよ」
「ふざけてる場合か! お前のお母さんは今も病院で──」
「ふざけてなんかないよ」
霧絵ミルイは静かに、それでいてしっかりとした声で、僕の言葉を冷たく断ち切る。
「……母さんがあんなことになって、私はどうにかして“物語”のチカラで母さんを救えないかずっと考えていた。そうして道行く人たちの姿から、今日はお祭りだと知って、ふと昔どこかで聞いたことがある話を思い出したんだ。神社でかくれんぼをすると神隠しに逢う、けれど最後まで見つからなければ、願い事が叶う──という話を。
私はその話を私の“物語”として再構築した。だけど、かくれんぼはひとりじゃ出来ない。だからキミに手伝ってほしいんだ」
やってくれるよね? と、変わらず平淡な声で言う彼女に、しかし僕は未だ嫌な予感を払拭出来ずにいた。
霧絵ミルイの言うことは理解出来る。彼女が隠れ、鬼になった僕が捜すふりをして彼女を見つけなければいい。そうすれば“物語”によって彼女の願い──母親を治すこと──が現実となり、めでたしめでたし。
……しかし果たしてそんな簡単な話なのだろうか。大事な何かを見落としているような、漠然とした不安感がまとわりついて離れない。
「母さんは、必ず私が救ってみせる。……私の“物語”で。だから、頼んだよ」
「おい、待て──」
僕が返事をしあぐねていると、霧絵ミルイは強い決意を秘めた声でそう言って、電話は切れてしまった。
僕は腑に落ちない気持ちを抱いたまま、あてどなく神社への道を歩いた。人通りは徐々に増え始め、真っ直ぐ歩くのも難しくなる。考え事をしているときは特に。
──神社でかくれんぼをすると神隠しに逢う、けれど最後まで見つからなければ、願い事が叶う──
人の流れを避けて脇道を歩きながら、僕は霧絵ミルイが言っていたことの意味を考えていた。
引っ掛かったのは“最後まで見つからなければ”という部分だ。“最後まで”とは、いつ、どのタイミングを指しているのだろうか。
例えば、「何時まで」とか「何分間」という風に時間を区切ってするのであれば、そういう言い方も出来るだろう。しかしかくれんぼは基本的にはそういった遊び方はしない。「遅くなってきたからそろそろやめよう」と切り上げることはあっても、時間制限を設けることはあまりない。
では何をもって“最後まで見つからない”とみなすのだろうか。あるいはどのような状況が“最後まで見付からなかった”といえるのだろうか。
「最後まで見付からなかったら、願いが叶う……」
探し物をするときのように声に出して呟いてみると、そこであることに気が付いた。
“最後まで”という言葉は「最後まで〇〇だった」というふうに、過去形で用いられるのが普通ではないだろうか。少なくとも言葉や会話の中で“最後まで”という言葉が使われるとき、最後は過去になっている。
すなわち、僕が霧絵を見付けられずにかくれんぼを終えたとき、かくれんぼは過去のこととなり、したがって霧絵は“最後まで見付からなかった”とみなされ、願い事が叶うということになる。
「はぁ……」
僕は盛大にため息をついた。随分理屈っぽく遠回しに考えてみたけれど、結局思考が一巡しただけで、つまるところ、僕が捜す振りをして見つけなければいいという最初の結論に戻ってしまう。
「そんな漠然としたやり方で、本当にうまくいくのか……?」
僕が霧絵を見付けられなかった、と“物語”が判断するきっかけなり出来事なりが何か必要なのではないかと考えるも、元々が抽象的で雲を掴むような話なのだ。
訳の分からないことを掛けて二乗にしたようで、僕は深呼吸して立ち止まった。気が付けば神社の下まで来ていて、僕は石段に腰掛けながら、ぼんやりと通りを眺めた。
小さな子供と手を繋ぐ親子連れや、華やかで涼しげな浴衣姿の女性たち、浮かれて騒ぐ同年代のグループと、静かに祭りを楽しむ恋人同士。
霧絵ミルイには知らないと言ったけれど、実は幼いころから毎年この祭りに僕は来ていた。
この町の祭りには祭りの由来にあやかった独特の風習があって、それは黄昏刻の夕闇の中、白無垢と羽織袴を着て狐に扮装した人たちが、花嫁道中として町を練り歩くというもので、幼いころの僕は弟と一緒になって行列の間をはしゃぎ回っては「あんまり走り回っていると、お狐様にさらわれちゃうわよ」と、母によく注意されたものだった。
「懐かしいな……」
様々な人たちが皆、思い思いに祭にとけ込んでいるその中で、狐のお面を着けて嬉しそうにはしゃぎ回る子供たちの姿が、微笑ましくもどこか幻想的に目の端へ映る。
〈狐に囚われた少年も、あんな子供だったのかな〉
子供たちの背中を目で追いながら、ふと僕はそんなことを考えた。
〈助かるまでの間、どんな気持ちで待っていたんだろう。最後まで誰にも見付けられずに、どんなに心細──〉
──最後まで見付けられなかった……?
何かが、心をざわめかせた。あたかも曇り空の下の湖に雨粒がひとつ落ちたように、小さく、しかし確かな波紋を拡げてゆく。
気持ちを落ち着かせるように自分に言い聞かせながら、僕は目を閉じて思考を集中させる。病院にいたときからずっと感じている不穏な気配の端を捉えたような、かすかなインスピレーションが目の前を横切った。
──そうだ。僕はずっと隠れる側の立場でばかり考えていて、鬼の立場から考えていなかった。つまり最後まで見付けられないということの意味を。
頭に少年の物語がフラッシュバックする。なぜ少年は最後まで見付からなかったのか。
なぜ村人たちは最後まで少年を見付けられなかったのか。
僕は立ち上がって頭上を仰いだ。薄闇に融かされてなお紅い鳥居が不気味に仁王立ちしていて、社からもれる霞んだ灯りが、向かい合った狐の石像を妖しい燈色に染めている。
「まさか──」
その光景を目にしたとき、僕はにわかに理解した。霧絵ミルイの本当の狙いを。
──神社でかくれんぼをすると神隠しに逢う、けれど最後まで見つからなければ、願い事が叶う──
最後まで霧絵ミルイを見付けられない理由、それは──。
「──神隠しに逢うからだ……!」
僕は石段を二段飛ばしで駆け上がった。
「くそっ! どうしてもっと早く気付けなかったんだ!」
自身が引き起こした「母親が現実から排除される」という“物語”をなかったことにするために、彼女は再び“物語”を利用して、自らの存在を現実から消そうとしているのだった。
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