第35話




 走りながら携帯電話を耳に当てる。呼び出し音は鳴っているが、霧絵ミルイが出る気配はない。

「くそっ! どこにいるんだ……!」

 寄る人波をかき分けながら悪態をつくと、すれ違う人たちが怪訝な目で僕を見る。通りにはやたらと人があふれ、浴衣姿の男女が多いと思ったら、そういえば今日は祭りだったことを思い出した。

 もしかしたら祭りに来ているのかもしれないと──それが低い可能性だとは分かっていながら──何度も周囲を見回し、通りを行ったり来たりしながらそれらしき人物がいないかと探してみるも、やはり彼女は見当たらない。

 何度目かのため息が苛立ちと共に吐き出されたとき、不意に一定のリズムを保っていた電話の呼び出し音が途切れた。

「もしもし!? 霧絵か?」

 呼吸を整えながら通話口へ問いかけるけれど、かすかな雑音の他には返答はなく、しかし留守番電話ではない。

 僕は口を閉じて、すべての意識を相手に集中させた。どんな音も、どんな気配も聞き逃さないよう強く耳を押し当てて、彼女の言葉を待った。

「やあ。驚かせてしまったかい」

 その声はまぎれもなく僕のよく知っている霧絵ミルイの声だった。初めて出逢ったときを思わせる、少しボーイッシュで、感情の分からない声。

「お前……大丈夫なのか? 今どこにいるんだ」

「身体のことなら心配いらないよ。むしろ目覚める前よりも冴えてるくらいさ」

 まるで何事もなかったかのように、彼女は淡々とした声音で話す。その変化のない、いつもの霧絵ミルイの様子に僕はかえって不安を覚えた。

「今日はお祭りだったんだね。すっかり忘れていたよ。ところでキミは知ってたかい? このお祭りの由来を」

「さあ。知らないね。神社にいるのか?」

「昔々、この辺りに住んでいた小さな少年が神社で友達とかくれんぼをしていたとき、狐の嫁入りを見たそうなんだ。狐にとって婚姻の儀式は不浄の目にさらしてはいけない、とても神聖な儀式で、その少年は狐に囚われてしまった。事態を把握した村の人たちは、狐を使役している宇迦之御霊神──いわゆるお稲荷さまだね──に頼み込んでようやく返してもらったそうだよ。それ以来、お稲荷さまへの感謝を忘れないようにお祭りを始めたんだってさ」

 口調はあくまでしとやかに楽しそうで、しかし肝心なことは答えない。彼女の意図が分からないまま、嫌な予感だけはどんどん膨らんでゆく。

「……今、どこにいる」

 三度目の問いかけにも、やはり霧絵ミルイは口を閉ざしたまま、僕たちの間にわずかな沈黙が横たわる。通りを行き交う人々のざわめきと、テキ屋の屋台から漂う食べ物のにおいが、ひどく場違いに思われた。

「……すべて、分かったんだ。思い出したよ。何もかも」

 電話口のわずかなノイズにかき消されそうなほど弱く、小さな彼女の声には、先ほどまでの楽しそうな様子は微塵もなく、ただすべてを悟ったような、諦めたような、乾いた響きがあった。それは以前の、僕と出逢ったばかりのころの彼女の態度と変わらないように思われて、僕は無意識に奥歯を強く噛んでいた。あのとき霧絵ミルイとひとつになって、彼女の心の奥に触れられたと思っていたのに、彼女は再び僕から離れて、自分ひとりで悩み、苦しみ、答えを見付けてしまう。それがとても悔しくて、かなしかった。

「とにかく会って話そう」

 おそらく霧絵ミルイは神社にいるのだろうと当てをつけて、僕は足早に歩きながら言った。

「私は間違っていた。二人が離婚したのも、父さんが戻ってこないのも、みんな母さんのせいだと思っていたけれど、それは誤解だったんだ」

 僕の言葉が耳に入っていないかのように、霧絵ミルイは続ける。

「考えてみればおかしなことだったんだ。二人が離婚した原因もはっきりと思い出さないまま、私は一方的に母さんが悪いと思い込み、決め付けていた」

 彼女の言ったことは、僕も気にはなっていたことだった。だからこそファミレスで小鳥遊さんに会ったとき、霧絵ミルイと父親との関係を聞いてみたのだけれど、小鳥遊さんも詳しくは知らないとのことで、また他人の家庭の事情にどこまで踏み込んでいいのかという迷いもあり、結局うやむやなまま、何となく霧絵ミルイの言うとおり、母親に責任があるのだろうと、いつしか僕も思い込んでいた。

 けれどもそういった思い込みを取り除き、改めて事実を客観的に見直してみると、ごく自然に、ひとつの可能性が浮かび上がる。すなわち──。

家族わたしたちを棄てたのは、父さんの方だったんだ」

 その一言を、彼女はどんな気持ちで口にしたのだろう。あんなにも父親の帰りを求めていたにもかかわらず、他でもない父親自身が家族の不仲の原因だと知って。

「父さんは不倫していた女と一緒に消えた。父さんにとっては、私たちよりもその女の方が大切だったんだ。

 幼かった私はその事実に堪えられなかった。だから“物語”の中に記憶を封印して、都合の悪いことはすべて母さんのせいにした。何故なら──」

 彼女はそこで一瞬言葉を途切れさせた。息を飲むようなわずかな間があって、しかし変わらぬ乾いた声で告げた。

「──母さんと私は、血が繋がっていないから」

「血が繋がっていない……だって?」

「そうさ。連れ子だったんだ。私は。父さんの」

 重い事実を、まるで何でもないことのように平然と言う霧絵ミルイに、僕は何と返していいか分からず、言葉を詰まらせてしまう。

「それを知ったのは、いつものように二人が喧嘩をして言い争いになっているのを偶然聞いたときさ。“あなた! あの子に対して恥ずかしくないの!? ミルイにとって血の繋がった肉親はあなただけなのよ!? 私と結婚したのは、邪魔なあの子を私に押し付けるためだったの!?”ってね。

 ……私は愕然として、まるで胸のあたりから空気が抜けて、身体がしぼんでゆくみたいに息が出来なくなった。ショックで、信じられなくて、信じたくなくて……。だから私は、母さんの言葉の前半──ミルイにとって血の繋がった肉親はあなただけなのよ──という部分を意識の内側に閉じ込めて、代わりに後半に言っていた──私と結婚したのは、邪魔なあの子を私に押し付けるためだったの!?──ことを強く、記憶の入口のすぐ近くに表出させることに努めたんだ。私は父さんから愛されていないというかなしみを、への憎しみに転嫁することで、現実から逃げたのさ」

 僕は何と言っていいか分からないまま、ただ幼い霧絵ミルイがその小さな心を守るために必死でとった行動を、痛ましい気持ちになりながらも、咎める気にはなれなかった。彼女の言っていることが本当なら、霧絵ミルイの父親は血の繋がった実の娘を再婚相手に押し付けて、不倫相手と蒸発したことになるのだ。


 ──少女は考えた。残酷な真実を、秘密の箱に鍵をかけて記憶から封印してしまおうと──


「それが、ノートに書かれていた“残酷な真実”か」

 救急車の中で見た“物語”を思い返しながら彼女に問うと、霧絵ミルイは僕がノートを見たことを気にすることもなく、「そうさ」とあっさり答えた。

「本当の母さんのことは、あまり覚えていない。私が幼すぎることもあってか、父さんも何も言わなかったしね。

 ただそれでも、朧気な記憶の中に見慣れない病室と消毒液のにおいがかすかに残っているから、多分、病気か何かで亡くなったんだと思う。もしかしたら、潮干狩りに行った思い出も、こっちの母さんだったのかもしれない。……今となってはもう分からないことだけれど」

 彼女は再び声を落として続ける。

「毎日つらくて、かなしくて……。だけどあるとき、自分のチカラを使って記憶を閉じ込めることを思いついた私は、ノートへ綴ったその“物語”を、小物入れにしまって、鍵をかけて忘れてしまうことにしたんだ。

 実際それはある程度上手くいった。父さんがいないのは変わらず辛いことだったけれど、本当に辛いことからは目を反らすことが出来ていたからね。でも……」

 ずっと他人事のように話していた霧絵ミルイの声から、ひび割れた壁のように、小さな感情の欠片が零れ落ちた。

「……母さんはね、私に強くなって欲しくて、あえて私にきつい態度で接していたんだ。

 女手ひとつで私を育ててくれて……。慣れない水商売しごとに身をやつしながら、それでも弱音や泣き言を言うこともなく、誰かの力を頼らなくても生きていけるだけの力強さを私にも持って欲しいと、そう願って。

 ……それなのに私は、そんな母さんの想いに気付くこともなく、知ろうとさえしなかったばかりか、ずっと母さんを憎み続けていたんだ!

 私は──、私はっ……!」

 彼女は震える声で何かを伝えようとして、しかし言葉にすることが出来ず、深呼吸とも、ため息ともつかない彼女の想いが、電話口から漏れ聞こえてくる。

 堰を超えて流れ出る彼女の想いに、僕は何も言えなかった。軽々しく“気持ちは分かるよ”とか“きっとお母さんも分かってくれるよ”などと返すことなど、出来ようはずもなかった。心の壁でも抑えきれず、あふれ出た感情の雫は、たとえそれがどんなに小さなものであっても、真摯に、誠実に、大切に扱わなくてはならない。

 だから僕は、霧絵ミルイの慟哭に安っぽい同情や慰めの言葉を使わず、ただ急ぎ伝えるべきことだけを言おうと思った。

「……霧絵、一緒に病院へ戻ろう。言うのが遅れたけれど、今お前のお母さんは大変なことになっているんだ」

「……知っているよ」

 先ほどよりも、いくぶん落ち着いた声で彼女は言った。

「眠っているときに──もしかしたら起きたあとだったのかもしれないけれど──夢を見たんだ。母さんが私を捜し回って、見付けられずに倒れてしまう夢を。

 意識が戻ってから、すぐにただの夢じゃないことが分かった。私は急いで家に帰ったけれど、誰もいなくて……」

「お前のお母さんは、お前が目を覚ました病院にいるよ。……正直、あまりよくない状態らしいんだ。だから急ごう。さあ早く!」

「それは出来ない」

「どうして!?」

「母さんがあんな状態になってしまったのは、私の“物語”が原因なんだ」



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