第34話



 窓から入る紅い日射しで、僕は目が覚めた。家に帰り着いてから「お風呂に入ってさっぱりしてきたら」という母の助言に従ってシャワーを浴びると、これまでの疲れが一気に出たらしく、僕は泥のように眠ってしまっていた。

 のびをひとつして居間へ入ると、弟がテレビをつけながら手持ちぶさたに漫画を読んでいた。弟は僕の顔を見ると、一瞬ぎょっとしたような顔をして、しかしすぐに何でもない風を装って漫画に視線を戻した。

「母さんは?」

「ちょっと今出かけてる」

 時計の針は六時を過ぎていて、夕食の買い出しにしては少し遅い。僕がいなくなって色んな人に迷惑をかけたから、僕が帰って来たという報告と挨拶回りに行っているのかもしれない。

 夕暮れ時の曖昧な時間のせいか、何となく中途半端な気持ちで身が引き締まらない。ぼんやりした頭で窓から夕雲を眺めていると、ふと「霧絵は、どうしたかな……」という一人言が無意識に口をついて出た。

「どうしたの?」

「いや……ちょっと、僕も出かけてくる」

 そう言った途端、弟が心配そうな顔付きでジッと見つめてきたので、僕は微笑いながら「心配いらないよ。すぐ戻るから」と答えた。

 それでも弟はまだ何か言いたそうに玄関までついてくると、おずおずとためらいがちに口を開いた。

「兄ちゃん、僕──」

「真人」

 弟の言葉を遮って僕は真人に向き直った。弟の瞳には不安と戸惑いがいまだゆらめいていて、だからこそゆらぎのない答えを、僕は口にした。

「お前は何も悪くない。これはあくまで僕自身の問題だから」



 最寄りの停車場でバスを降りて病院に着くと、僕は受付で入院病棟の場所を聞いて、そこまで歩いていった。看護士の集まる詰所には花が活けてあって、僕も花を買ってくればよかったかなと少し後悔した。

「すみません」

 僕が声をかけると、忙しそうに立ち回る看護士の中で、四十代くらいの親しみやすそうな女性が「はい」とカウンターまでやって来た。

「あの、僕はさっき救急車で運ばれてきた霧絵ミルイの友人なんですが、彼女の病室はどこにありますか?」

「ああ、霧絵さんね。ちょうどこれから様子を見に行こうと思っていたところだから、一緒に行きましょうか」

連れ立って廊下を歩きながら、僕は看護士さんに訊ねた。

「霧絵の具合はどんな様子ですか?」

「まだ眠ったままだけど、そう心配することはないわ。もう少ししたら目を覚ますと思うから」

「そうですか……」

 どうやら霧絵ミルイの様子は運ばれたときと変わらないらしい。バス停で待っているときに携帯電話にかけて繋がらなかったので、薄々は分かっていたけれど、そもそも彼女はどうして意識を失ったのだろう。何が彼女にそこまでの傷を与えたのだろう。やはり小鳥遊さんから渡されたあのペンダントに秘密があるのだろうか。あるいは彼女の母親との関係に──?

 にこやかに微笑を向ける看護士さんに、霧絵ミルイの母親について、僕は少し聞いてみることにした。

「……霧絵のお母さんの具合は、どうですか」

「あなたは──」

「僕は草壁ケイジといいます。霧絵ミルイは僕の恋人です」

 実際は恋人とは違うけれど、そう言った方が話が早いし、教えてもらいやすいと思った。

「そう……だったら教えておこうかしら。娘さんもあんな状態だし……。

 霧絵さん──お母さんの方ね──は、正直あまり良くないの。今は小康状態を保っているけれど、過度の疲労とストレスで心臓が大分弱っていたみたい。そこへ来て娘さんが家出したっていう話が相当堪えたんでしょうね。

 心も身体も限界だったところへ、さらに無理を重ねてあちこち捜し回っていたらしいから、とうとう倒れてしまって──。

 ……娘さんのことがよっぽど心配だったのね」

 それきり僕たちは黙ったままで、夕陽のあたる廊下に二人分の足音だけがさびしく響く。

 看護士さんの言葉を聞いて、僕は霧絵ミルイの母親について抱いていた印象が大きく変わったことを感じた。霧絵ミルイの話から、何となく彼女の母親はあまり家庭を省みない身勝手な女性かと思っていたけれど、今聞いた話によれば、娘のことを本気で心配していたようだった。だとすれば霧絵ミルイはどうして母親をあんなにも責めるのだろう。母親の気持ちが伝わっていないというのもあるのかもしれないけれど、果たしてそれだけの話なのだろうか。霧絵ミルイの母親に対する態度から、今までは僕も彼女の母親が一方的に悪いような印象を受けていたけれど、それにしても彼女の態度は頑なに過ぎるような気がする。

 そんなことを考えながら歩くうちに霧絵ミルイの個室に着いた。

「霧絵さん、入りますよ。あら……?」

 僕も看護士さんに続いて入るが、しかしベッドには誰もいなかった。開いた窓から薄い燈色をした夕夏の風が、さびしく通り抜けた。

「目が覚めていたのね。トイレにでも行っているのかしら」

 落ち着いた看護士さんの声とは対照的に、僕は胸騒ぎがしてならなかった。静謐な部屋には不似合いな不穏な空気のにおいが、かすかに漂っている。

「どうしたの?」

 看護士さんには答えず、僕はベッド脇のキャビネットを調べた。霧絵ミルイはほとんど持ち物を持っていなかったけれど、そこにあるべきはずのものがなくなっていることに気が付いて、僕は内心の焦りを抑えながら看護士さんに訊ねた。

「ここにノートがあったはずなんですが、知りませんか」

 それはまぎれもない、霧絵ミルイの物語が書かれたノートだった。救急車で彼女と共に病院に運ばれ、そこからさらに警察署へと移動する際の慌ただしさの中で、霧絵ミルイの手元へ置いてもらえるよう、看護士さんのひとりに僕が頼んだものだった。

「あら? そういえばないわねぇ。最後に見回ったときはその小棚にあったと思ったけれど……」

 嫌な予感が膨れ上がって、僕はたまらず病室を飛び出した。

「ちょっと! 院内で走るのは禁止よ!」

 後ろから看護士さんの怒る声が響く。それでも僕は速度を落とさず、廊下から病院玄関までを駆け抜けていった。理由は分からないけれど、霧絵ミルイはここにはもういないような気がしたのだ。

 彼女は何かとてもまずいことをしようとしている。そんな気が。


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