第33話



 病院に着いてからは、あっという間に時間が過ぎていった。

 霧絵ミルイを病室まで送り、それからすぐに警察の人が母と弟を連れてやって来た。感動的な再会は後回しになり、最寄りの警察署まで移動したあと、聴取やお説教をさんざん聞かされ、ようやく解放されたのは午後三時を過ぎてからだった。

 警察の人が運転する車の助手席で、僕は後ろの二人に何と言って謝ろうかを考えていた。視線でルームミラーを窺うと、後部座席に座った弟が困惑と罪悪感を混ぜたような顔付きで景色を眺めていた。僕が家出をした理由に自分が何か関わっているのではないかと思っているらしい。一方で母は、先ほど病室で会ったときも、僕が想像していたように号泣することも取り乱すこともなく、また怒りと失望混じりに家出をした理由を問い質されることもなく、ただ淡々と怪我はしていないか、風邪をひいていないかとか、僕の身体を気遣うばかりで、それが僕には意外だった。

 重苦しい沈黙を乗せたまま、車は機械的に進んでゆく。いっそ夕立でも降ってくれればいいのにと思う。映画やドラマでは、こういうシーンには必ず雨が降っていて、登場人物たちの心情を代弁してくれるのに、窓から見える空は憎らしいほど晴れやかな蒼空だった。

「あの子は、大丈夫だったの?」

 少しうつ向き加減で、不意に母が問いかけてきた。窓にもたれかかったままぼんやりとしていた僕は、一瞬聞き流しそうになって、理解するのに一呼吸かかってしまった。

「霧絵のことなら、とりあえず心配いらない」

 母にはそう言ったものの、確かに霧絵ミルイのことは心配だった。何せ病室まで同行してから、お医者の先生に彼女──と彼女の母親──の容態について聞く暇さえ与えられなかったのだから。

「そう……」

 母が一言呟くと、中途半端に間が空いて、会話はそこで途切れた。もしかすると母は僕との会話のきっかけを探していたのかもしれない。

 そこまで分かっていながら、僕はそれ以上母と会話をする気になれなかった。謝ろうとは思っていたけれど、それは罪悪感というよりは、どちらかというと義務感からだった。

「お腹空いてない?」

 母が再び話しかけてきて、けれども僕は無言で首を横に振る。なんだかひどく億劫で疲れていた。こういう返し方をすれば母が傷付くのは分かっていたのに、そのことを何とも思わない自分が不思議だなと、妙に冷静な頭で考えていた。

 やがて車は住宅街に入り、見慣れた景色が窓を流れる。T字路を右折し、赤信号で一旦止まり、細い道に入って、車は家に着いた。

 築二十年の古い平屋の公営住宅。住み慣れた、狭くて染みの多い僕たちの家。

 どんなに遠くへ逃げようとも、結局ここへ帰って来るしかなかったのは、家出をする前から分かっていたことだ。

 だからだろうか、あれほど胸を締め付けていたここではないどこかへの憧れや、何を責めていいのか分からないやりきれなさ。しかし確かに感じていた言葉にならないかなしみは、今は全て消え去って、空っぽになった心だけが捨てられたペットボトルのように転がっている。


 ──僕は大切な何かを喪ってしまった。


 霧絵ミルイと家出をした二日間で、僕は何かを得たのではなく、何かを喪ったのだ。それが何なのかをはっきりと表す言葉を僕は知らないけれど、確かな変化として感じるのは、胸に大きく空いた喪失感に違いなかった。

「ケイジ」

 母が僕の名を呼んだ。振り返ると、車を降りた母と弟は未だ戸惑いと後悔をひた隠しにしながら、それでも僕が無事だったことに心底安堵したような微笑みを浮かべて「おかえりなさい」と明るい声で言った。

 だから僕も声が虚ろに響かぬよう、精一杯の微笑みを返して「ただいま」と答えた。


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