第32話



 規則正しい寝息を立てて眠る霧絵ミルイを見つめながら、彼女は今どんな夢を見ているのだろうと、僕は思った。僕と二人の救命士に見つめられながら眠る彼女は、先ほどの混乱振りが嘘のように、穏やかな顔付きで目を閉じている。

 それでも緊張感が抜けきれず、無意識に深呼吸ばかりしてしまうのは、狭い車内と、否が応でも聞こえるサイレンの音が、ここは救急車だと告げているからだろう。


 霧絵ミルイが倒れたあと、僕は何をどうしたらいいのか頭が真っ白になって、半ばパニックに陥りかけていた。それでも何とか彼女を病院まで連れて行けているのは、警察の人の指示──杉原が伝えてくれて、すぐに折り返し電話が来た──によるものだ。焦っていた僕は、辺りに助けを求めるという当たり前の発想さえ忘れていた。すぐ近くに子供を連れた女性がいたことにも気が付かないほどに。

 その女性に今いる場所がどこなのかを警察に伝えてもらい、そのあと救急車を呼んでもらった。

 幸いにも霧絵ミルイは急激なストレスによる一時的な失神で、しばらくすれば自然に目を覚ますだろうということだったので、警察の人と救急隊員のはからいで、母親が運ばれた病院まで連れて行こうという話になったのだった。


 僕は再び霧絵ミルイに視線を戻して考えた。

 彼女は気を失う直前、「帰らないと」と言っていた。そして「確かめ……」という言葉は、“確かめる”の意味でおそらく間違いないだろう。

「……お前は、何を確かめようとしていたんだ?」

 彼女は救急車に乗っている間もずっとあのペンダントを握りしめていて、前後の状況を考えてもペンダントが彼女の意識に影響を与えたのは間違いないと思うけれど、それがどんな影響を与えたのか、確かめるという言葉とどう結び付くのか、そして何故彼女はあんなにも動揺していたのか、浮かび上がる疑問をつなぐ答えを、僕はどうしても見付けることが出来なかった。

 傍らに目をやると、彼女の“物語”が書かれたノートが、濡れてヨレヨレになったまま閉じて置かれている。

 僕はそれを手にとって、ぱらぱらと開いてみた。どのページにも“物語”が書き連ねられていて、前の方の幼い字から次第に今の字体になってゆく様が、ほんの少し微笑ましく思われた。

 そのページをめくる手が、不意に止まってしまう。

 それまで丁寧に紡がれていた物語に、突然ナイフで切り込みを入れられたかのような、大きく破かれたページが、めくった先に現れたのだ。

 直前には書き殴ったような字で次のような“物語”が書かれていた。


『あるところにひとりの少女がいた。

 少女の両親は仲が悪く、二人はいつもケンカばかりしていて、ある日、お父さんが何も言わずに突然家を出ていった。

 少女はいつもひとりぼっちで、来る日も来る日もお父さんを待ち続けた。どんなにさびしくてもがまんして、きっと帰ってくると信じていた。

 けれどある日、少女は知ってしまった。お父さんはもう戻って来ないということを。

 少女は泣いた。毎日毎日ずっと。少女はお父さんが誰よりも大好きだった。だからお母さんから教えられたことが信じられなかった。たえられなかった。

 少女は考えた。残酷な真実を、秘密の箱に鍵をかけて記憶から封印してしまおうと』


 “物語”はそこで終わっていた。これまでの霧絵ミルイの“物語”からすればかなり雑で、言いたいことだけをなおざりに綴っただけのように思える。しかも“物語”の中の少女と自分自身とを混同して描いていて、その余裕のなさが、前後のページに描かれた“物語”と比べてみても、かなり異質な深刻さを滲み出していた。

 気になるのは最後の部分。「残酷な真実を、秘密の箱に鍵をかけて記憶から封印してしまおう」というところだ。肝心の「真実」がどんな内容なのかは書かれてはいないけれど、おそらく破かれたページに書いてあって、彼女の言う秘密の箱に隠されているのだろう。

 このことがどういう意味を持つのかは分からない。しかし彼女に渡したペンダントにも同じ鍵のチャームが付いていたことは、ただの偶然ではないように思われた。

「このペンダントが“秘密の箱”を開ける鍵なのか……? だとすれば、箱はどこにあるんだ──?」

 答の出ない疑問がぐるぐると頭の中を迷い歩き、僕は一度頭を整理してみた。


 ・霧絵ミルイはペンダントを渡した直後に様子がおかしくなった。

  ──彼女が言った「帰らないと」「確かめる」という二つの言葉は何を意味するのか。


 ・彼女の物語にある「残酷な真実」とはどういった内容なのか。

  ──その「真実」が彼女が意識を失ったことと何か関係があるのか。


 ・「物語」の中にある“秘密の箱”はどこにあるのか。

  ──ペンダントがそれを開く鍵なのか。


「そしてもうひとつ」

 僕は彼女のノートに書かれた一番最後の“物語”から逆にページをめくっていった。少し懐かしいような感慨にのまれながら、オウマガドキノシシャの物語、土のにおいのする狭い路地の物語、僕と出逢った屋上の物語と読み、さらに近くのページを何度も読み込んで、霧絵ミルイの母親が倒れたり死ぬような“物語”は書かれていないということを確認して、ようやくひとつホッとすることが出来た。どうやら僕はまだ霧絵ミルイの能力を信じているらしい。

「いや、“信じたい”の方が正解か」

 隣に座る救命士に聞こえないよう、僕はひとりごちた。

 彼女自身が自分の能力をどう思っているにせよ、僕は霧絵ミルイと二人で体験したこと、感じたこと、思ったことが、彼女の物語と無関係だとは、やはりどうしても思えなかった。現実と非現実との狭間で、未だ僕たちに解明されていない、難解で複雑な定理をもった「物語の法則」が裏で働いているような、そんな気がするのだ。

「とはいえ、それさえも僕の願望に過ぎないのかもしれないけれど」

 何度目かの深呼吸がため息に変わって、僕は目をつむった。疲労と安堵が今さらのように身体にのしかかってくると、絡まっていた思考がリセットされ、不意にこれからのことが頭をよぎった。

 帰ったらまず色んな人たちに謝らなくてはならない。いや、その前に警察から事情を聞かれるだろう。何故家出をしたのか、二日間どこで何をしていたのか。霧絵ミルイとの関係。それが終わったら家族会議。母や弟は何て言うだろうか。僕を責めるか、あるいは泣いて抱き付くか。どちらせよ気まずいお約束のやりとりを終えて、そのあとは──。

 そのあとは、どうなるのだろう。

 なにごともなかったように夏休みを満喫し、また新学期を迎えて何食わぬ顔で学校へ行き、杉原や半井と会うのだろうか。霧絵ミルイとも?

 その不自然さに思わず皮肉な笑みがこぼれた。

 結局僕は何がしたかったのだろうか。何も変えられない“現実”に少しでも抵抗してみたくて足掻いたところで、果たして何かを変えることが出来たのだろうか。

 僕は彼女の手をとって、ぬくもりを確かめるように両手で包んだ。

「霧絵……、お前は何か変われたのか──?」

 呟いた僕に何も答えることなく、霧絵ミルイは眠っている。救急車は速いスピードで僕たちを本来の場所へと連れ戻そうとする。

 その中にあって、何もかも中途半端な僕だけが、置き去りにされたようだった。

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