第13話




「ケイジは強い子だから、お母さんと真人を守ってあげてくれるな?」

 白い病室で簡素なベッドに横たわりながら、病気でやつれた身体を苦しそうに動かして、父は言った。

「頼りない父さんで本当にすまないなぁ。……お前たちに何もしてやれなくて」

 病室には僕と幼い弟の二人しかいなかった。母が別室で医者から話を聞かされていたので、僕が弟の面倒と父の具合を見ていたのだった。その弟は昨日買ってもらったヒーローの人形でひとり遊びに夢中になっている。

「母さんと真人のこと……、頼んだぞ」

 父は軽くなった手で僕の頭をなでてくれた。

 僕は何と答えていいか分からず、鈍いクリーム色をしたリノリウムの床をただじっと見つめていた。

 父がなくなる二週間前の秋。僕は八歳だった。


 生まれて初めて参加した葬式は驚くほど慌ただしかった。部屋の片付けから始まり、通夜の準備、親戚や知人への連絡と応対、お寺や葬儀屋への依頼など、およそ今まで想像していたようなしんみりとした佇まいはどこにもなく、誰もがせわしなく動きながら、悲しんでいる様子を見せている者はほとんどいない。

 僕は大いに戸惑った。人がひとり死んでいるのに、表面上はともかくも、心の底から悲しんでいる人は誰もいないように思われた。誰より悲しむべき母までもが淡々と作業に埋没していて、時おり慰問客と談笑までしている。

 頭の中で描いていた“こうあるべき”という考えと現実とのあまりのギャップに、僕は自分の悲しみさえどこかに置き忘れてしまったかのようで、気持ちの整理をつけられないまま夜が来た。

 線香の灯を絶やさぬようにと、手の空いた母と二人きりで狭い部屋に寝かされた父を見守る。襖の向こうからは忙しく動き回る人たちの物音が変わらず聞こえてくるのに、この部屋だけは静かだった。時計の針とたゆたう線香の煙以外に動くものはなく、それは目の前に横たわる父も、隣に座る母も、そして僕自身も同じだった。

 そうしてどれくらいの時間が過ぎたのか、いつしか線香は大分短くなっていて、そろそろ次の線香を差さないといけないんじゃないかと横目で母を窺ったとき、僕は初めて気が付いた。

 母は泣いていた。入ったときの姿勢のまま、顔を歪ませることも、鼻をすすることも、嗚咽を漏らすこともなく、その視線はぼんやりと冷たい布団で眠る父に注がれている。わずかに瞳だけを滲ませて、目尻から頬へ伝い、きれいな曲線を描いてこぼれ落ちる雫をそのままに、ただじっと、静かに涙を流していた。

 母はずっと耐えていたのだ。必死で虚勢を張り、弱い心に鞭打って。僕たちに悲しんでいる姿を見せて動揺させないように。父親を失った子供たちをこれ以上悲しませないように。

 母は変わらず、膝の上で組んだ両手を強く握りしめて、一言も言葉を発することはなかった。

 僕は自分で新しい線香に灯をつけた。それは父のために、そして母のために初めて自分から動いたことでもあった。



 目が覚めると、すでに陽は傾き始めていた。霞がかった頭を抱えながら身体を起こし、意識がはっきりしてくるまであくびを繰り返す。どこかへ出掛けているのか、弟の姿は見えなかった。

 あの後僕と霧絵ミルイは、目の前で起こった現象についてどう捉えていいのか分からないまま、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。何か話し合おうにも最初の一言にさえ迷うほど混乱していて、結局お互いに一言も口を聞くことなく、どちらともなく別れて家路に着いたのだった。

 時計を見ると時刻は三時半になろうとしていた。色んなことが起こりすぎて疲れきっていた僕は、家に着くと同時に、ほとんど倒れ込むように眠ってしまっていて、目覚めた後の誰もいない薄暗い室内が、寂しいような、心許ないような気持ちにさせた。

 僕はもう一度あくびをして、さっきまで見ていた夢を反芻してみた。

 父の葬儀の夢を見るのは久しぶりだった。夢は毎回決まって父の病室から始まり、泣いている母を見て僕が代わりに線香をつけるところで終わる。寝覚めは灰色に曇った朝のようにもの哀しい気分で、父の病室の消毒のにおいと、表情を殺して静かに涙する母の顔が、起きたあともしばらくの間心に留まるのだった。

「今になってどうしてまた……」

 少し痛む頭を押さえながらため息をつく。父が亡くなって何年かは同じ夢をよく見ていた。それは父を失った悲しみというよりも、母が泣く姿が子供心にとてもショックだったせいだ。

 薄情な話ではあるけれども、父のことはあまり印象に残っていない。僕が物心ついたときにはすでに父はずっと病室のベッドで横になっていて、思い出といえば、線の細い、儚げな笑顔で僕を見ていたことくらいだった。

 鈍い身体を動かして僕は台所に向かった。のどが干からびていて、何か冷たいものを流し込みたかった。

「あら、起きたのね」

 母の声を聞いて、そういえば母は今日、早上がりの日だったことを思い出す。台所には出来上がった料理を仮置きしておくための小さなテーブルがあって、母は踏み台を椅子代わりにしながら、そこで家計簿の計算をしているようだった。

「母さんもおかえり」

 微笑みながら「ただいま」と答える母の声には、隠そうとしても隠しきれない疲れが滲み出ていた。目の下の隈は日に日に濃くなっていて、そういえば白髪も大分目立ってきている。

「どうかした?」

 ずっと見つめていた視線に気が付いて、母は不思議そうに微笑う。あくまでも自然を装って、かなしみの欠片も感じさせないようにと振る舞うものだから、僕も「いや、別に」としか答えられなくなる。

 それが何よりも辛かった。

 僕はごまかすように冷蔵庫の扉を開けて、ペットボトルに口をつけた。冷たさがのどの奥を通って頭に巡ると、油で汚れたフィルター越しの換気扇の下、僕たちが目を覚ます時刻よりもずっと早く起きて、台所でひとり一日分の食事を準備している母のわびしい背中が、頭の中で鮮明に再生された。

 その姿が何ともいたたまれなくなって、ため息と共に台所を後にしようとしたとき、母が不意に「ケイジ」と声をかけてきた。

「なに?」

 振り返って見ると、母は視線をノートに向けたまま、変わらず書き物をしている。

 何か大事なことを言うつもりだと、すぐに分かった。母は大切なことを口にするとき、決まって何か作業をしながら、何でもないことのように言う癖があった。

「……進路のこと、本当に就職でよかったの? お金のことだったら気にしなくていいのよ。それくらいの蓄えはしてあるんだから」

「いいんだよ。特に行きたい学校や夢がある訳じゃないんだし」

 ここで僕がどこか大学に行きたいと言えば、母はきっと応援してくれるだろう。それこそどんな無理をしてでも。

〈だからこそ、そんなことは言えない〉

 もっとも、行きたい大学も夢もないというのは嘘ではないので、母がそこまで気を使う必要はない。

 にもかかわらず、母は「そう……」と呟いたきり、まだ何か言いたげな言葉を飲み込んで押し黙ってしまう。そのままノートに意識を集中させようとする母に、僕は身の置き所がなくなって、台所を後にした。

 居間に入り、あお向けに寝転がると、ぼんやりとした視界の隅で、窓ガラス越しにやわらかく色付いた夕焼けの空が、薄紫と燈を混じらせながら筆を掃いたように延びていた。

 その穏やかでどこか懐かしさを感じさせる空を眺めていると、ふと、父さんが生きていてくれたら今の暮らしが少しは変わっていただろうかと考えて、自分で苦笑いした。

「父親の顔さえ、はっきりと思い出せないっていうのに、調子のいい……」

 しかしそのとりとめのない考えは、同時に全く別のことを思い起こさせた。

 あのとき見た幼い霧絵ミルイは、何故、父親を探していたのだろうか。


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