第12話



 それから一時間、僕は霧絵ミルイに教えてもらいながら数学の課題を終わらせた。会話は主に問題に関してのことばかりだったけれど、心配していたほど気まずい雰囲気にはならず、僕はそのとき初めて、ケンカをしたり、ぎこちない間柄になってしまった相手とは、直接の原因となってしまったこととは関係のない話題から関係修復をはかっていけばいいということを学んだ。

「……こんなところかな。思ったよりも早く終わったね」

 僕の方は霧絵ミルイとの間に流れる空気にばかり注意していたので、正直教えてくれたことはほとんど頭に入っていない。

 ただそれでも、もやもやと溜まり続けていたわだかまりは幾分解消されたようで、僕は今度こそ謝るタイミングを逃さないように心構えをした。

 図書館を出ると、冷房に防がれていた外の熱気が一息に僕たちをおそった。時計の針は十三時半を指していて、鮮やかな蒼空と大きな白い入道雲に彩られた太陽は、最も高い位置で輝いていた。

 焦げたアスファルトにゆらめく陽炎の道を、彼女とふたり無言で歩く。霧絵ミルイといるときは彼女の方から僕に話しかけてくることが普通だったのだけれども、やはり何かしら思うところがあるのか、彼女はいつものように絡んでこようとしない。

 もしかしたら、多少なりとも改善の方向へ向かっていると感じているのは僕の思い過ごしで、霧絵ミルイはそんなことには気をはらっていないのではないだろうか。

 そう考えると彼女の存在が急に希薄に思えてきて、ここで掴まえておかないと、彼女は僕の手をすり抜けて影のように消えてしまうのではないかという、漠然とした不安におそわれた。他愛のない、まるで幼子のような心持ちだと分かっていたけれど、その怖れは、強かった。

「霧絵」

 僕は足を止めて、はっきりと彼女の名前を声にした。彼女がトンネルの手前で立ち止まって振り返る。

「その……、何ていうか、色々……ごめん」

「どうしたんだい、急に。今日のキミは少し変だよ」

 霧絵ミルイは微苦笑して、しかし自分の態度こそいつもと違うということに気付いていないようだった。あるいは無意識のうちに僕と距離を置こうとしているようにもみえた。

「いや、この前一緒に……、その、出掛けたあとから、お前がずっと沈んでいるように思えたから。……ひょっとして、僕の態度や言葉に傷ついてたんじゃないかって思って……、それで――」

 僕のたどたどしい言葉は、彼女の微笑みに打ち切られた。

「そんなことはないよ。むしろそう思わせてしまったのなら、私の方が謝るべきだね」

 そう言って霧絵ミルイは顔を俯かせる。思ってもみなかった彼女の反応に、僕は急な階段で足を踏み外したような、予想していた展開とかみ合わない不安感を覚えた。

「……それじゃ、どうしてあれから急に来なくなったんだ」

「キミは私に会いたかったのかい?」

「それは――、さっきも言ったとおり、僕のせいでお前が落ち込んでいるのかと思って、それが気になって……」

 何を言っているんだ僕は。こんなことを伝えたい訳じゃないのに、自分で自分に腹が立ってくる。

 それでも何故か、霧絵ミルイの前だと心に思っていることを素直に話せなくて、ついひねくれたことを言ってしまう。そんな自分の心が、今はとても憎らしかった。

「……確かに私は落ち込んでいたよ。けれどそれは、キミのせいじゃない」

 なおも視線で問い続けると、彼女は景色を見るふりをしながら、さりげなく

僕の視線から逃れた。

「あのとき話した物語を覚えてる?」

「確か、少年と少女が奇妙な人物に誘われて路地をさまよい、やがて不思議な場所にたどり着くっていう話だったと思うけど」

「そう。そして少年と少女というのは、言うまでもなくキミと私のこと。

 少し非現実的な物語ではあるけれど、今までの経験則からいって、多少の誤差はあっても絶対に現実にならないような物語ではなかったんだ。それなのに、あの日もそれ以降も、結局現実にはならなかった」

 まるで舞台女優のような佇まいで、彼女は僕に背中を向けたまま滔々と語る。ため息のようにかすかな声で、彼女は呟いた。

「物語を現実にする私のチカラは、結局のところ、私の思い込みに過ぎなかったのかな……」

 どこか遠い世界を臨むような彼女の声には、フィクションの登場人物に憧れる子供っぽさや、他人とは違う自分に自己陶酔するようなあざとさはなく、純粋に自分の“能力”に対する失望で満たされていた。

 僕はそんな霧絵ミルイを見ながら、自分のせいではなかったことに少し安心した。けれども安堵が不安を押し退けると、今度は入れ代わりに憤りが心へ滑り込んできた。

 こっちはあの日以来、ずっと何か悪いことをしたような気分で、彼女を悲しませてしまった原因をあれでもないこれでもないと探し続けて、心当たりを見つけるたびに反省してきたというのに、そんな夢見がちな子供みたいなことでひとりで傷付いていたなんて。これではまるで僕だけがバカみたいじゃないか。

「そんなことで悩んでたのか?」

「……そんなこと?」

 彼女はやや語気を強めて答えた。ただ予想外だったのは、振り返った彼女が、今にもこぼれ落ちそうなくらい瞳を濡らして、悔しさと悲しみをいっぱいに溜めながら、それでもなお切実に何かを求めているような顔をしていたことだった。

「キミは! 私が今までどんな想いで物語を創ってきたか、分かって言っているのか!?」

 肩で息をしながら霧絵ミルイが僕に詰め寄る。

 思った以上の攻勢に思わず後ずさりすると、彼女はなおも距離を縮め、ほとんど僕の顔の真下から上目使いに見つめてくる。

「私はこのチカラに頼るしかなかった! たとえ周囲から変に思われようと、これしかなかったんだ! 雲を掴むような話にしか希望を持てない私の気持ちが、キミには分かっているのか!?」

 霧絵ミルイがここまで感情を爆発させるのは初めてのことで、僕はとっさに言葉を返せなかった。今にも額が付きそうな距離で、彼女の切迫した顔から目を離せずにいると、彼女は徐々にその表情を灰色に沈ませていった。

「ごめん……。怒鳴ったりして。……キミには関係ない話だったね」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は顔からサッ――と血の気が引くのが分かった。

 うろたえた僕の心の隙間に、あの日彼女が創った物語がフラッシュバックして流れ込んでくる。路地を走る少女。後を追う少年。二人を導く奇妙な人物――。

「今まで迷惑をかけたね」

 霧絵ミルイが僕から離れてゆく。背を向けて、振り返らずに、ひとり歩き出す。

 このままここで僕たちの関係は終わってしまうのだろうか。何もかもがあまりにも中途半端なまま、彼女の物語も現実にならないままで。

 夏の白い日射し、陽炎立つアスファルト、遠くから響く蝉しぐれ、トンネルのむこうから吹く青い風。

 僕は――。

「待てよ!」

 気付けば彼女に駆け寄って、その手を掴んでいた。

「勝手に落ち込んで、勝手に怒って、今度は勝手に“さようなら”か!? ふざけんなっての! お前が何に悩んで苦しんでるのか、言ってくれなきゃ分かんねえだろ! 全部ひとりで片付けようとしやがって! 僕は――、僕はお前の“運命の人”じゃなかったのかよ!?」

 僕の言葉に彼女は一瞬ハッとした表情をすると「“運命の人”か……」と、僕から顔を背けながら、どこか自嘲するような声で小さく呟く。

「ごめんよ。それは嘘なんだ」

「嘘――?」

 あまりにもあっさりと言われたので、僕は一瞬彼女が何を言ったのか理解出来なかった。

「そうさ。さっきも少し触れたけれど、物語を現実にするという私のチカラはだんだん弱まってきているみたいなんだ。以前だったら確実に現実になっていただろう物語も、今度みたいにそうならないことが増えてきた。それ以前に自分自身じゃ判断出来ないことも多かった。だから、あの日偶然逢ったキミを利用することを思い付いたんだ。私のチカラがどの程度効力を発揮するのか、キミを使って試してみようとね。

 “運命の人”っていうのは、キミをその気にさせて逃がさないでおくための口実。ただの口からでまかせなのさ」

 彼女は吐き捨てるように一息で言った。キミと私の繋がりは運命でもなんでもない。私たちはただの他人同士にすぎない。と。

「でもそれももう終わり。キミにこれ以上迷惑をかける訳にはいかないからね。それじゃ……、これで本当にさよならだ」

 哀しそうに微笑して、彼女は僕に背を向ける。一歩ずつ僕から離れてゆく。

 僕は何と言って彼女を引き止めればいいのか、必死で頭を回転させていたけれど、真っ白の頭には何も思い浮かばず、だからもう、素直でシンプルな僕の今の気持ちを去りゆく背中へ向けて正直に告げた。

「それでも僕は、このまま別れてしまうのだけは嫌だ」

 霧絵ミルイの足が止まる。わずかに肩を揺らしているようにも見える。彼女は僕に振り返らないまま「私は――」と小さく呟いた。

 そのとき、まるで僕たちのやりとりを遮るかのように、不意に場違いな音が耳に届いた。正確にいうとそれは音ではなく、どうやら幼い子供の泣き声のようだった。

 唐突な出来事に僕たちが戸惑っている間にも泣き声はどんどん近づいてきて、トンネル脇の細い小道から、小さな女の子――三、四歳くらいだろうか――と、その後ろから同じくらいの歳の男の子が現れた。

 大声で泣いているのは女の子の方で、男の子の方は女の子に寄り添うように――というよりは、わずかに間を空けて、慰めるでもなく励ますでもなく、微妙な距離を保ちながら傍に立っていた。

「……どうしたんだい、キミたち。迷子になってしまったのかな」

 こういうとき女子は気持ちの切り替えが早い。霧絵ミルイは、さっきまで泣きそうだった顔を何とかごまかしながら、泣き続ける女の子と視線が同じになるようにしゃがんで、優しく語りかけている。

「ぼくたち、おとうさんをさがしてるんだ」

 泣きじゃくる女の子のかわりに男の子が答えた。

「キミたちは兄妹かい?」

 男の子が首を横に降る。

「それじゃあ友達?」

 今度は答えない。

「お父さんとはどこではぐれたの?」

 男の子はなおも黙ったまま答えない。

 ウェーブがかったくせ毛に面長の輪郭、幼い割に陰を含んだやや小ぶりな細い目、子供らしくないどこか冷めた表情をさりげなく見つめていたら、ふとどこかでこの男の子を見たことがあるような、ずっと昔に出逢ったことがあるような、不思議な心持ちを僕に思い起こさせた。

 それは記憶と呼ぶにはあまりに曖昧で、しかし気のせいと思うにはあまりに確信に満ちた感覚だった。間違いなく僕はこの子を知っている。いつ、どこで、どんな風に逢ったのかは上手く思い出せないけれど、心の奥の無意識の部分が彼を認めていた。

「お父さんっていうのはキミの? それともこっちのお嬢ちゃんの?」

「……今さがしているのは、この子のおとうさん」

 そう言って男の子は女の子を見る。

「今?」

 霧絵ミルイも女の子に視線を移す。女の子はいくらか落ち着いたようで、目頭をこすって鼻をすすっているものの、声を上げて泣くことはしなくなった。

「ねえ、お嬢ちゃん。お父さんとはどのあたりではぐれたのか、教えてくれないかな。そうしてくれたら、お姉ちゃんたちも探しやすくなると思うんだ」

 霧絵ミルイはどう思っているのか分からないが、僕にはこの二人がどこかおかしいように思えてならなかった。

 迷子になる前がどういう状況にあったのかはっきりしないし、兄妹でも友達でもないという二人の関係も見えてこない。そもそも現れ方があまりに唐突過ぎる。たまたま女の子がひとり迷子になっているところを男の子が通りがかって、一緒に探すことになったのだろうか。確かに警戒心を抱く前に仲良くなれる年頃ではあるけれど、仮にそうだとして、それでは男の子の方の親はどこにいるのだろうか。どちらもまだひとりで出歩けるような歳ではないというのに、この二人にはどうも不自然なことが多いような気がする。

「ほら、もう泣かないで」

 霧絵ミルイは女の子をなだめ続ける。何度か頭をなでたり、抱き締めて背中を軽く叩いたりして、女の子はようやく目頭から手をどけた。

「えっ――」

 顔を上げた女の子と向かい合った霧絵ミルイが、突然硬直したように動かなくなる。まるで女の子の顔から目を離せなくなってしまったかのように、驚愕とも困惑ともつかない表情を浮かべながら、彼女は女の子と見つめあう。

「霧絵? どうしたんだ?」

 僕の声が耳に入っていないのか、霧絵ミルイは目を見開いたまま、泣き腫らした女の子の顔をまじまじと見続けている。古いトンネルの入り口手前、日陰になったところはほんの少し涼しくて、ひび割れたコンクリの隙間に絡んだ雑草や蔦が土のにおいを運んでくる。それらを背景にして、霧絵ミルイと女の子は合わせ鏡のように相対したまま微動だにしない。絵画的な一瞬をさらに彩る青い風は、トンネルの向こう、夏の日射しが照らす白い日だまりから吹き込んできて、霧絵ミルイと女の子の長い髪を美しくやわらかに巻き上げる。

 その風を受けて、女の子が突然声を上げた。

「おとうさん!」

 トンネルの向こう側へといきなり女の子が駆け出してゆく。

「ちょっと待て――」

 僕が止める間もなく、男の子もほとんど同時に走り出した。

 すぐに後を追おうとしたけれど、霧絵ミルイは呆然と二人を見送るばかりで、ぼんやりとしたまま、まったく動かない。

「おい、霧絵! 何やってんだ!? 二人を追うぞ!」

 彼女の肩を揺さぶり、頬を軽く叩いて、霧絵ミルイはようやく我にかえった。

「あ、ああ――。そうだね。急ごう」

 走り出した彼女へ僕も続く。幼い子供二人はすでにトンネルの出口にさしかかっていて、少しだけ薄暗いトンネルの中から追う二人の姿は、まるで白い光へ向かって走っているかのようだった。

「待つんだ!」

 灰暗いトンネルに、霧絵ミルイの声と僕たちの足音が響く。灰色のコンクリートに跳ね返って、近く、遠く、速く、ゆっくりと、こだまする。

 僕は走りながら鼓動が速まるのを感じた。学校の中庭のベンチで、初めて彼女の物語を聞かされたときの感覚が甦ってくる。

「待って!」

 霧絵ミルイがもう一度叫ぶ。けれども二人の姿はトンネル外のアスファルトに立つ陽炎に隠されて、朧気にゆらめいたまま、遠ざかりつつある。

 やがて僕たちもトンネルの終わりにさしかかり、外へと足を踏み出した瞬間、それは訪れた。

 心臓がひときわ高く鼓動し、世界から僕たち以外の音が消え失せる。走り続ける僕たちと子供たちの動きは、あたかも瞬間から瞬間へ跳躍するシネマトグラフのように瞬き、それでいて知覚は恐ろしく鋭敏化されていて、肌を伝う汗の一粒一粒を明確に感じ取れる。

 夏の日射しも、蝉の声も、アスファルトのにおいも、透き通った水の中を進んでいるかのような今このときにあっては、すべてが様式化されたまま固定されていて、世界の内側へ内側へと、僕たちは踏み込んでゆく。


 ――彼は陽炎の狭間に立ち、その身をゆらめかせながら、少年と少女を誘うように走り出した。

 二人は彼を追いかけた。澄み渡った蒼空の下、家々に挟まれた細い路地の間を駆け抜ける。二人分の息づかいと足音が、誰もいない路地裏に静かに響く。


 空の片隅から、あの日霧絵ミルイが創った物語が落ちてくる。それは僕たちの世界――木々や家屋や標識、看板、アスファルトに転がる空き缶や水たまり、雑草に至るまでの総て――ひとつひとつと混ざり合い、世界の中にもうひとつの世界を構築してゆく。

「あっ――」

 僕の前を走っていた霧絵ミルイが転びそうになり、慌てて彼女を支える。どちらの動きも緩慢なまま、僕たちは再び駆け出した。

 夏の太陽の下、木々の間から射す木漏れ日に染められた、白と黒のまだら模様の小路を抜けて、子供たちはひた走る。その背中を追いながら、僕は男の子が何者であるか、徐々に気付き始めていた。


 ――彼は少年と少女との距離を保ったまま、二人を近付けさせない。まるで魔法でも使っているかのように、影に入れば薄灰色に、日当たりに出れば滲んだ白に、朧に姿を霞ませながら、少年と少女を翻弄する。あるいは二人に見えている彼の姿は、それぞれに違うのかもしれなかった。


 子供たちとの距離は変わらない。わずか三、四歳の子供の足に追い付けないはずはないのに、どんなに走っても、角を曲がっても、小さなふたつの後ろ姿は常に同じ大きさだった。

 普通ならありえないことだけれど、今この瞬間、世界は霧絵ミルイの物語と共にある。だからこそ、あの男の子はここに存在し――そしておそらく――女の子もここにいるのだろう。いや、僕の考えが間違っていないなら、女の子の方が男の子を呼び込んだというべきなのかもしれない。


 ――少年と少女は彼を追い続けた。

 彼が何の目的で自分達の前に現れたのか、自分達をどこへ導こうとしているのか、その理由も判然としないまま、あたかも彼ら自身が何かに追われているかのように。

 蒼空から降り注ぐ日の光が垣根の曲がり角を照らしている。小路の影から明るい方へ出ると、七色に固まった太陽の光が眼に映り、しかし駆け抜けた一瞬ですぐに見えなくなってしまう。少し湿った路地には懐かしいような寂しい土のにおいが漂っていて、遠くに聞こえる蝉の声も、どこか哀しげに響いていた。


「あそこに!」

 霧絵ミルイが指差す先には、今までよりずっと遠くの距離を走る子供たちの小さな姿があった。小路の終点は雑草が生い茂った広い空き地に通じているようで、ぽっかりと開いた古い家並みの隙間から、子供たちが空き地へ向かって徐々に徐々に遠ざかってゆくのが窺えた。

「待ってくれ!」

 霧絵ミルイの何度目かの声も、子供たちには届いていない。走る僕たちの身体を通り抜ける風だけが、確かに感じられる。


 ――やがて路地は終わり、その先にある開けた場所へと彼は進んでゆく。

 少年と少女がその場所にたどり着くと、そこは背丈ほどもある長い雑草に覆われた広い空間で、白い雲をまばらに浮かばせた蒼空の下、剥げかけた古い鳥居がぽつんと忘れ去られたように立っていた。


 最後の細道を駆け抜けた先で最初に目に入ったのは、透き通るような蒼い空と、何もない広い空間、そしてその中でひとつだけ取り残されたように立っている高架橋の足下駄だった。

 そこは図書館に来る途中で目にした開発の遅れた空き地のひとつで、高架橋は建造される途中で放棄された国道の名残らしく、長い雑草が生い茂る中、ひとりぼっちで佇むそれは、寂れた神社の鳥居を思わせた。

 僕と霧絵ミルイは並んで立っていた。気が付けば止んでいた風は再び吹いていて、太陽が高い位置から暑い日射しを僕たちに浴びせると、草いきれは辺りを満たし、静けさと侘しさを運んでくる蝉時雨が遠くから響く。

 薄紙に水が染み込むように、世界は徐々に姿を戻してゆく。それでも――。


 二人の子供たちは、どこにも見当たらなかった。


 あたかも霧絵ミルイの物語と共に消え失せてしまったとでもいうように。


「……ねえ、信じられない話だけれど、聞いてもらえるかい?」

 隣立つ霧絵ミルイが、視線を高架へ向けたまま呟いた。やわらかに流れる風が、田圃に実る稲穂を通り抜けて、緑色のにおいを運んで来る。

「あの女の子、私の――」

「幼い頃の姿と瓜二つだった?」

 彼女の言葉を遮って僕が続けると、霧絵ミルイは目を大きく開いて驚いた顔をしながら、僕に振り向いた。どうしてそれを。と言いかけて彼女はハッとした表情になる。

 僕は頷いて答えた。蝉の声が大きくなって、直後の一瞬、ピタリと止んだ。

「あの男の子は――、幼い頃の僕自身だ」

 再び蝉が鳴き始める。

 蒼空には山のような真っ白の入道雲がかかっていた。首を少し巡らせると、ひとりぼっちの高架から離れたところに、いくつもの高架橋に支えられた新しい国道が、遥か見えない先までまっすぐに、どこまでも続いていた。


 ――彼の姿はどこにもなく、どこか寂しい夏の風をその身に受けながら、少年と少女は世界から取り残されたかのように、ふたり佇んでいた。

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