第11話



 期末テストが始まった。初日の科目は英語、技術/家庭科、古文の三つで、このうち技術/家庭科は最初から諦めている。古文も微妙。英語だけはそれなりに勉強したけれど、どうしても別の事柄が気になってまともに手につかなかった。つまり、霧絵ミルイのことだ。

 あの日彼女と別れてから、一週間以上僕たちは顔を合わせていなかった。

 会いづらいことは変わらなかったけれど、とにかく一言謝ってそこから話を続ければぎこちない雰囲気も解消されるのではないか、そう思って何度か彼女のクラスにも足を運んでみたものの、いつも彼女は教室にいなかった。たまたまタイミングが悪いだけならまだしも、ひょっとして避けられているのではないかと考えると、余計に気分が重くなってくる。

「よお。今日はいつにも増して暗い顔してんな。そんなに出来が悪かったのか?」

 三限目のテストを終えて、文系、理系、それぞれの科目ごとに移動していた生徒たちが教室へ戻ってくる。帰りのホームルームが始まる前の、ほんの少し一息つく時間、杉原はいつもの調子で肩を叩いてきた。

「そういうお前はいやに明るいけれど、ずいぶん自信があるみたいだな」

「はっはっは。俺くらいになると自信があるとかないとか、そんなことはもうどうだっていいのさ。ただ早く帰れることが単純に嬉しくて嬉しくて」

 アホか。こいつにはわずかな皮肉さえ通じそうにない。こっちは毎日悩み事の種が尽きないというのに、その能天気さはある意味うらやましいとさえ思える。

「お、半井も戻ってきた」

「テストどうだった~?」と、いつもののんびりとした口調で、半井が教室の入口から近付いてきた。

「聞かないでくれ」

「俺はバッチリだ!」

 ……何故だろう。字面だけ見ると、あたかも僕がまったく勉強をせず、逆に杉原はすごく勉強してきたかのようになってしまうのは。

「へえ。そんなによく出来たの?」

「バッチリだ!」

 意味もなく繰り返し、杉原はさわやかに笑いながらわざとらしく親指を立てる。うぜぇ。

「半井はどうだった? 理系は物理か生物だっけ」

「うん。僕は物理だけど、もう最初の問題からちんぷんかんぷんで――」

 杉原と半井はお互いの問題用紙を見せ合いながら、ここが解らなかった、難しかったと話し込んでいる。そんなことをしても文系と理系で教科も問題もまるで違うのだから意味がないだろうと思いつつ、やがてホームルームが始まり、終わるまでずっと、僕はどうすれば霧絵ミルイに会えるかばかりを考えていた。



 正午の空は蒼く、立体感を伴った真っ白な入道雲が艶やかに架かっていた。

 いつもの停留所とは違う場所で僕を降ろしたバスは、エンジンを吹かしながら車の列の中へ戻ってゆく。その姿が小さくなるまで見送ってから、僕は早くも汗をかき始めた額をぬぐい、林と住宅に挟まれた細い道を歩き始めた。

 左右にくねる静かな道を五分ほど歩くと、開発の遅れた土地らしく、住宅もまばらになってくる。視線を上げると、蒼い空の下、高架橋に乗せられた国道がどこまでも電線と平行に真っ直ぐ延びていて、しかし辺りには寂れた空き地がぽつんぽつんと点在しているだけである。中途半端に離れた林から聞こえる蝉の声と、真上から降り注ぐ夏の日射しを受けながら、僕は古いトンネルを抜けて目的の場所にたどり着いた。

 そこは古い洋館風の建物で、紅いレンガに蔦が絡まっている姿は、どことなくレトロなミステリー小説に出てきそうな風情がある。大正時代には銀行だったというこの建物は、今は中を改装されて市立の図書館となっていた。

 僕は入口の扉を開けて中へ足を踏み入れた。途端、冷房の涼しい風が汗を吸ったカッターと肌の間に入り込んできて、背中が気持ち悪いほど冷たくなる。どうやらここはいつもエアコンを強めに設定しているらしい。

 僕は肌寒さを我慢しながら、カウンターの自習室使用希望用紙に名前を書いた。そうして一般の小説や児童書を置いている一階、専門書や研究書の並んだ二階を過ぎて、自習室となっている三階へ上がった。

 簡素な机がいくつも並んでいる中を進み、空いている席へ適当に座る。

〈ふぅ……〉

 鞄を降ろして一息つくと、バタバタとしていたここ最近の疲れがドッと押し寄せて来たようで、一瞬、このまま眠りたい衝動にかられる。

 僕は大きく深呼吸して何とか踏みとどまると、ここへ来た本来の目的をもう一度振り返った。つまり、僕と霧絵ミルイとの関係を頭の中で整理するということだ。

〈家や学校じゃ、他の雑事に気を奪われて、落ち着いて考えをまとめることも出来ないからな……〉

 霧絵ミルイの言う“物語を現実にしてしまう”という話、僕が何故“運命の人”と呼ばれているのかということ、そして彼女に対する僕の今の気持ち。

 これらのことに僕自身がある程度答えを出しておかないと、霧絵ミルイに会えたとしても、結局どう接すればいいのか分からないまま、ぎこちなさが続いていってしまうだけのように思ったのだ。

 僕は座席に深く座り直して、まず“物語を現実にしてしまう”という彼女の話を考えてみた。

 結論からいえば、これはただの偶然だろうと思う。最初に逢ったときの衝撃のすごさと、その後の霧絵ミルイの強引さについつい惑わされてしまったけれど、落ち着いて考えてみれば、やはり書いた物語が現実になるなんてある訳がない。屋上から飛び降りたことだって、前もって段取りのようなもの――例えば、あの大きな高跳び用のマットが、いつも何時何分ごろにどこへ運ばれてくるかを調べておいたとか――を決めておけば、不可能なことではない。あとは度胸の問題だ。屋上で僕たちが出逢うという物語も、言うまでもなく後から書かれたものに決まっている。

 ではいったい霧絵ミルイはなぜそんな手間をかけてまで僕に拘ろうとするのか。ここで彼女の言う“運命の人”という言葉が鍵になってくる。

 注意深く思い出してみれば、中庭で話していたとき彼女はこう言っていた。「私はずっとキミを待っていた。私が本当に望んでいることはどうして現実にならないのだろうと思いながら」と。つまり霧絵ミルイには彼女自身の力では達せられない目的があって、その目的のために僕を利用しようとしているのではないだろうか。そしてその願いを叶えるために必要な人間こそが彼女にとっての“運命の人”であり、すなわち僕なのだ。肝心の彼女の目的が何なのかは見当もつかないけれど。

〈さて、ここまではある程度分かっていたことだ。問題は――〉

 僕が、霧絵ミルイをどう思っているかということ。

 不思議なことに、あれだけ彼女に振り回され、何度も不意を突かれ、からかわれ、戸惑わされているにもかかわらず、僕は彼女に対して怒りや憤りといった感情をまったく抱いていなかった。

 おそらくその理由は、彼女がふとした瞬間に見せる寂しそうな顔や、目を離した瞬間に消えてしまうのではないかと思わせるような儚げな後ろ姿、遠い別世界を見つめているような憂いを秘めたまなざしこそが霧絵ミルイの本質であり、普段の奇矯な振る舞いは、それらのかなしみを必死に誤魔化そうとしているように思えてならないからだろうと思われた。

〈……僕と霧絵ミルイって、そもそもどういう関係なのだろう〉

 僕の方は小鳥遊さんのこともあって、彼女のことを友達や普通の同学年の女子とは違った感覚で捉えている。そうかといってみんなが噂するような恋人同士という関係でもない。恋人、友人、知人、それらのどれを選んでもしっくりとくるものがなかった。

 それでいて僕たちは不思議な縁が強く、奇妙な距離感と離れることのない結び付きを同時に持ったような、あえて言うならそんな間柄のように思える。

「……どんな関係だよ」

 思わず独り言を呟いてしまう。自分で考えておきながら訳が分からない。しかも肝心の“僕が霧絵ミルイをどう思っているのか”という問いには結局答えが出ないままで、思考が堂々巡りしている。

 その後も三十分近く頭を捻っていたけれど、視界の端に映っていたものが焦点を合わせた途端に消えていってしまうような、歯がゆいもどかしさばかりが

募っていった。

〈そろそろ帰ろうか。静かできれいな場所なら考えがまとまるかと思ったけれど、結局いつも通りになってしまったな……〉

 そう思って、適当に拡げておいた数学の教科書と参考書を閉じかけたとき、通路をこちら側に歩いてきた意外な人物と目が合った。

「あ――」

「え――」

 相手も僕と会うことなど考えていなかったのだろう。一瞬驚いた顔をして、教科書やノートを胸に抱えたまま立ち止まった。それでも彼女はいつもの余裕の微笑みをすぐに取り戻して言った。

「やあ。久しぶりだね。キミも勉強しに来たのかい?」

 少し低めの声に少年のような話し方、眼鏡こそ掛けていたものの、霧絵ミルイに間違いなかった。

 今まさに彼女とどういう心構えで会うべきか悩んでいたところだというのに、結論を出す前に当の本人に会ってしまっては、僕の方がどうしていいのか分からない。

 僕は「ああ」とか「まあ」とか曖昧な返事をするのが精一杯で、後に続く沈黙が痛いほど長く感じた。

「私は今終わったところだから、帰るね。邪魔したら悪いし」

 それじゃ、と言って霧絵ミルイはよそよそしく背中を向ける。

 今ここで彼女を引き留めないと、二度と会えなくなるような気がする。何でもいいから、彼女が遠くなる前に――。

「あのさ!」

 僕は思わず立ち上がって、霧絵ミルイの背中へ向けて大きな声を上げていた。自習室にいる人全員が僕の方を振り返って、何事かと怪訝な顔をしている。彼女も立ち止まって、周囲と同じような顔で僕を見つめていた。

 僕は彼女を引き留めることに頭がいっぱいで、理由を考えている余裕もなく、しかし何か言わなくてはならない。今すぐに。

「ああ、えっと……」

 そのとき、閉じかけていた数学のノートが目に入って、僕はとっさに言葉を並べた。

「もしよかったら、数学、教えてくれないかな。明日テストだけど、僕全然分からないところばかりで……」

 ずいぶん早口になってしまって、しかも呂律も怪しい。口の中が乾いて、カッターシャツやズボンに直接触れている肌の部分が妙にちかちかする。鼓動が速くなって、失敗したかもしれないと不安になりかけたとき、霧絵ミルイは先ほどよりも自然な、僕が知っている、いつもの少し悪戯っぽい微笑みを浮かべながら近くへ寄ってきた。

「キミが私に頼み事をするのは初めてだね。私は人に教えるのは得意ではないけれど、それでもいいなら」

 そう口にした彼女の顔は、少しだけ嬉しそうに見えた。



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