第26話
一度駅まで来てから、記憶を頼りに霧絵ミルイの家までの道のりをたどってゆく。真昼の太陽は容赦なく降り注ぎ、アスファルトからの熱気を含んだ風が余計に体力を奪う。着替えなかった制服が汗でへばりつき、その気持ち悪さに辟易しながらも、霧絵ミルイに会いたいという気持ちは全く変わらなかった。
彼女の家の前で僕は自転車を停めて、ポケットから携帯電話を取り出した。時刻は三時。以前通ったときはタクシーだった上に夜でもあったので、はっきりと見覚えのある道まで出るのに思ったよりも時間がかかってしまったようだった。
僕は袖で額の汗をふきながら、携帯を操作して霧絵ミルイの登録情報を表示させた。少し躊躇ったものの、あえて深く考える前に通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。
カウントダウンのようなコール音が頭に響く。呼び出しの間のわずかな沈黙に心臓が三回鳴っている。頭は真っ白なままで、何を話していいのかさえ定まっていない。完全に想いだけが先行していて、こんな気持ちになったのは初めてのことだった。
しかしそんな僕の緊張など知らないとばかりに、聞こえてきたのはフラットで無感情な留守番メッセージだった。
僕は電話を切ると、知らず力んでいた肩を降ろして、ようやく息を吐くことが出来た。どうやら僕は霧絵ミルイが電話に出なかったことに、どこかホッとしているらしい。
〈霧絵……、夢の中でお前は僕に何を言おうとしてたんだ〉
胸の奥に届かない場所がある。
僕は“そこ”へたどり着こうと何度も手を伸ばすのだけれど、どうしても届かなくて、いつも俯いてしまう。
いつの頃からか住み着いたその気持ちは、時おり郷愁にも似た切なさで僕の心を揺さぶり、さみしさとかなしみの間へ僕を置き去りにする。
それは“何処”へ向かっているのか、あるいは“何”を欲しているのかは分からないけれど、ぼんやりとした心象風景の中、白く孤独な部屋で鳴らすピアノの音のように、静かに、穏やかに、僕の心を満たしてゆく。
そしてその甘い空虚感は、いつも霧絵ミルイのことを思い起こさせる。憂えた瞳や、悪戯っぽい仕草、マイペースな言動に隠された繊細さと諦念。それらのすべてを含んだ彼女の微笑みが、消え入りそうなほどに儚く、“遠い”のだ。近いようで遠い、すぐそばにいるのに、絶対に触れ合えないほど離れているような。相反する二つの気持ちが、まるで鏡像のようにくるくると入れ替わって、うかつに近付こうとすると永久に会えなくなってしまいそうで、それが怖い。
〈だから、会いたい。会ってどうしたいのかは、その後で考えればいい〉
僕は一度深呼吸してから、意を決して玄関まで歩いていった。そのままインターフォンを押そうと腕を伸ばしかけたとき、そこである異変に気が付いた。
玄関の扉越しに、誰かが家の中で言い争っている声が聞こえる。どちらも女性の声で、片方は霧絵ミルイのものだった。
予想外の出来事に僕が戸惑っているうちにも、声は次第に大きく、近付いてきて――。
勢いよく扉を開けた霧絵ミルイと目が合った。
一瞬、これは現実なのか夢なのか判断がつかず、硬直してしまう。それはむこうも同じなのか、僕たちは見つめ合ったまま、インターフォンに伸ばしかけた僕の腕だけが、中途半端な距離で所在なさそうに小さく震えている。
「ミルイ! 待ちなさい!」
わずかな沈黙を破ったのは、奥から響いてきたもうひとりの女性の声だった。
厳しい口調に顔を向けるよりも早く、霧絵ミルイは僕の手をとって早足に表へと急ぐ。
「あの自転車はキミのかい?」
「えっ? ああ、そうだけど……」
「それなら私を乗せて連れてって」
僕が状況を理解する前に、彼女は僕を自転車の前へとひっぱってゆく。
「ミルイ! 待ちなさいって言ってるでしょ! その子は誰なの!?」
「私の“男”だよ! 母さんには関係ない!」
突然のことに面食らう僕にはお構いなしに、霧絵ミルイは自転車の荷台に座ると、「出して」と強い口調で僕を急かす。
訳が分からないまま、僕は命令されたとおり自転車を漕ぎ始め、一度だけ後ろを振り返ってみた。
彼女の母親は、顔を俯き加減に伏せて、棒立ちのまま、僕たちを追って来ようとはしなかった。アスファルトに影を焼き付かせるかのようなその姿は、どこか痛みに耐えているようにも見えた。
自転車を停めたのは、大きな川沿いの土手まで来たときだった。
僕がペダルを漕いでいる間、霧絵ミルイはずっと荷台に横座りしたまま、時おり姿勢を維持するためにわずかに動く以外には、まったく微動だにしなかった。カーブの手前などで僕が注意を促しても、彼女はあさっての方を向いたまま答えようとはせず、ただ、かなしそうな、悔しそうな表情を浮かべながら、遠くを見つめているのみだった。
「……ちょっと、休憩していい?」
気になることや聞きたいことが山ほどあったので、頃合いを見計らって霧絵ミルイに問いかける。
僕が自転車を停めると、彼女は無言で自転車を降り、土手の斜面まで大股に歩いて行った。慌てて後を追うと、僕はそこで初めて彼女が一冊のノートを丸めて手にしていることに気が付いた。
「それ、お前の“物語”が書いてある――?」
頷いたのか、単に俯いただけなのか、霧絵ミルイは足元に伸びた夏草を見つめながら、ギュッと強く手を握りしめていた。川面から吹いてくる風に長い黒髪を巻き上げられても押さえようとせず、少しだけ汗ばんだ制服のブラウスとスカートを風に弄ばれるまま、その様子からは何かに苛立っているような、どこかやけっぱちな雰囲気が端々から感じられた。
「……お母さんと、何かあったの?」
何となく横に並ぶことは憚られて後ろから声をかけると、霧絵ミルイは俯いた顔を一瞬だけ僕に向けて、再び戻す。彼女が肩をいからせて両手に力を込め直したことが、小さな背中越しにも分かった。
「……母さんと、話してみたんだ」
霧絵ミルイが俯いたまま呟く。先日の彼女の家での会話を思い出して、僕はハッと身構えた。
「今までのこと、お互いのこと、それから――父さんのこと」
彼女の声はそのまま地面に沈んでいってしまうようで、上手くいかなかったことは今の現状をみても明らかだった。それでも僕は彼女に問わなければならない。きっと自分からは話せないだろうから。
「それで、どうだったの?」
霧絵ミルイはゆっくりと首を横に降り、諦めたような声で答えた。
「私は言ったんだ。もう一度父さんと仲直りして、家族三人で暮らそう。今度は私も力になるから、ずっとみんなで一緒に、って。でも――」
彼女はぐっ、とのどの奥をつまらせながら呼吸を乱す。
「あの人は、父さんと仲直りするつもりなんか、これっぽっちもないんだ!
キミも見ただろう? こんな夕方から化粧なんかして、年甲斐もなく派手な服を着て。どう考えても男に会いに行くのが明らかじゃないか!」
彼女が僕を連れ出すときに言った“私の男”というフレーズが頭をよぎる。
突然何を言い出すんだという思いと、霧絵ミルイにしてはずいぶん単純かつ俗っぽい言い方に驚きを隠せなかったけれど、あれは母親に対するあてつけだったのかと、僕はようやく理解した。
「あの人の男遊びにウンザリして、父さんは家を出ていってしまった。全部あの人が原因なんだ!」
彼女の母親のことはよく知らないし、玄関ですれ違ったときもあまり注意を向けていなかったけれど、自転車から振り返って見た姿が、その華やかな出で立ちとは対照的に、どこか疲れているように見えたのが印象的だった。
「父さんだけじゃない。私のことだって、本当はどうでもいいって思ってるに決まってる!」
「そんなこと――」
そんなことはないと言いかけた僕を遮って、彼女は勢いよく振り返った。その瞳の奥には、憤りとかなしみがゆらめいている。
「母さんは知ってたんだ。私がノートに物語を綴っていたことを。
幼い私が物語というかたちで表した望みを、父さんと母さんは喧嘩した後、二人でよく見ていたそうだよ。……自分たちがどれだけ娘をかなしませているか、身に沁みるほど痛かったって、母さんは言ってた。だからこそ、せめてもの罪滅ぼしに、ささやかな私の願いを叶えるつもりで物語を現実化させ、その度にこれで喧嘩は最後にしようって、何度も話し合ったとも言ってた」
「ちょっと待て。それって――」
「そうさ。物語が現実になるという私のチカラの正体は、なんのことはない。ただ単に両親が私の書いた物語を見て、そのとおりに動いていたというだけの話だったんだ」
笑えるだろう? と、彼女は手にしたノートを見つめながら、自嘲めいた微笑を浮かべる。
「私も驚いたよ。まさかこんなタイミングで自分のチカラの正体が分かるなんて、考えもしていなかったからね」
意外な方向からの意外な話に、僕は一瞬言葉を失った。まさしく彼女の言ったとおり、予想もしていなかった答えが急に現れて、これをどう捉えていいのか分からなくなる。
けれどもそれはそれとして一旦保留しておき、改めて彼女の言っていたことを考えてみると、腑に落ちない点が浮かび上がってくる。
「……でもさ、お前の両親は物語を現実化させようとしていたって言ったよな? それってお前のことを大切に想っていたからだろ? “自分たちがどれだけ娘をかなしませているか、身に沁みるほど痛かった”とか“これで喧嘩は最後にしよう”とか、みんなお前のことを想ってのことじゃないか」
「……確かにキミの言うとおりかもしれない。父さんも、母さんも、ちゃんと私のことを見てくれて、大切にしていてくれたんだろう。でも――」
霧絵ミルイが僕の眼をまっすぐ見据える。
「――それならどうして、父さんは戻ってこないの?」
その瞳の端には、今にも決壊しそうな彼女の心が溢れている。
「母さんは“お父さんのことはもう忘れなさい”とか“いつまでも泣き言ばかり言わないで現実を受け入れなさい”とか言うばかりで、どうして私の願いを聞き入れてくれないの!? どうして二人とも仲直り出来ないの!? ねえどうして!?」
彼女は我を忘れたように叫び、僕に詰め寄る。やり場のない怒りとかなしみを正面からぶつけられて、けれども僕はそんな彼女の姿に、何故か心を落ち着かされた。
「……きっと仕方のない事情があったんだよ。子供の僕たちにはどうしようもないことが……、いや、子供だからこそ、どうにも出来ないことがあるんだよ」
そう。どんなに頑張っても、環境というものは自分ひとりの力ではどうすることも出来ない。映画やドラマの台詞にある「変えようという努力をしない限り、何も変わらない」という言葉は、真実の半分でしかない。
僕がどんなに努力しても、今すぐ家計が楽になる訳ではない。僕がどんなに慰めても、弟の傷は決して消えない。僕がどんなに悩んでも、今のままでは母を助けることは出来ない。
だからこそ、早く大人にならなくてはならない。結局、子供であるうちは何もかもが無力に等しいのだ。
どんなにあがいても、どんなにもがいても、僕たちには自分を取り巻くほんのちっぽけな世界の片鱗さえ、動かすことは出来ない。それは、子供である限り仕方のないことだ。
「でも――」
霧絵ミルイの小さなかすれ声が耳に届く。無意識に逸らしていた視線を再び彼女の顔に戻すと、彼女の瞳から、密やかに涙がこぼれ落ちた。
「仕方がない、の一言で、すべてを諦めなくちゃいけないの――?」
その言葉を聞いた瞬間、心の奥に知らず置かれていた時限爆弾が爆発したかのような衝撃が、胸の内側から広がっていった。
仕方がない。
その一言を僕は今まで何度繰り返しただろう。
疲れた顔の母親をいたわりながら。
心の傷付いた弟を慰めながら。
将来へ向かって歩き始めた友人たちと自分を比較しながら。
――そして、自分自身の未来に対する選択肢を前にしながら。
霧絵ミルイは家族を元通りにしようと自ら行動した。たとえそれがどんなに荒唐無稽な手段であろうと、夢物語を信じるような儚い希望であろうと、くじけそうになりながらも、彼女は現状を変えようと懸命にもがいたのだ。
彼女だけではない。杉原も、半井も、小鳥遊さんも、真人でさえも、未来のため、親友のため、自分自身のため、時に痛みを伴いながらも前に進むことを選んだのだ。
僕はどうだっただろうか。母や弟のためとはいえ、……いや、母や弟のせいにして、僕は自分の境遇に甘えることを正当化してはいなかっただろうか。そして将来の分岐路に立たされたとき、経済的負担を言い訳にして、何もせず、何も考えず、諦めることが大人であると自分を騙してはいなかっただろうか。
〈そうだ〉
僕は今、初めて分かった。
〈僕は怖かったんだ。動き出すということが。一歩前に踏み出すということが。自分で自分の未来を決めるということが。
僕は一度でも真剣に考えたことがあっただろうか。自分がやりたいこと。そのためにすべきこと。僕は――あまりに自分の人生に対して無責任ではなかっただろうか〉
しかし同時にこうも思った。
〈……それでも、僕に何が出来ただろう。自分が今まで何もしてこなかったのは自分のせいだとしても、その一方で、経済的に苦しいということも、母や真人の傍にいてあげなくてはならないということも、変わらない事実としてそこにある〉
――そしてまた“仕方がない”と諦めるのか?
「うまくいかないね」
霧絵ミルイがたった一言、抱えきれずにこぼれ落とした呟きに、僕はハッとして顔を上げた。
「両親のことも、汐莉のことも、私自身のことも……何もかも嫌になっちゃったよ」
彼女は静かに微笑っていた。あまりにも小さく、儚げに。
「このまま消え去ってしまえたら、どんなにいいだろう――」
風に乗る鳥たちに憧れるように、彼女は空を見上げる。
痛みとかなしみによって開かれた虚穴を、諦めと失望によって癒そうとしている霧絵ミルイの瞳には、水の干上がった海のように、物語を否定する渇きが広がっていた。
その姿を目にした瞬間、胸の奥で燻っていた焦燥や憤り、切なさ、やりきれなさが一気に燃え上がって、みぞおちの底から頭の先までを感じたこともないような熱が走り抜けた。
〈僕にいったい何が出来る? 何がしたい? どうしたい? 僕は――!〉
どうしようもなく叫び出したいような衝動に駆られて、僕はほとんど反射的に霧絵ミルイの腕を掴んで歩き出していた。
「どこへ行くの?」
僕は彼女を自転車まで連れてゆきながら、はっきりと答えた。
「“ここ”から離れよう。もっと、ずっと遠くへ」
「……“そこ”に何があるの?」
「……分からない。でも、このまま“ここ”に留まってちゃいけないような気がするんだ」
傾き始めた陽に照らされた夕風が、僕たちの間を通ってゆく。
頭の冷静な部分がしきりに警報を鳴らしている。
以前の僕だったら考えもしなかった行動に、精神が混乱の悲鳴をあげている。
そんな内なる声に、しかし僕ははっきりと告げる。“知ったことか”
「……いいよ」
霧絵ミルイは希望と諦念の混じった微笑で僕に答えた。
「キミが連れていってくれるなら、どこだってかまわない」
ぼんやりした瞳でささやく彼女の声には、“夢”と“現”の境界線上で、どちらにも属さないまま孤独に立っているような響きがあった。
僕は握った手のぬくもりを愛遠しく思いながら、彼女に告げた。
「行こう」
どこへ? とは思わなかった。
「うん」
彼女も聞かなかった。
後ろに霧絵ミルイを乗せて、僕はペダルを踏み込んだ。少し錆びたホイールが、軋んだ音を立てながら、ゆっくりと回り始める。最初は不安定に、しかし徐々に真っ直ぐ進み始めると、まるで初めて自転車に乗れるようになったときのように“前に進んでいる”という感覚が嬉しくなって、二人分のペダルの重さも心地よく感じられた。
そのとき僕の背中に頭を預けていた霧絵ミルイが、空を見上げながら不意に「ねえ、見て!」と感嘆の声をもらした。
彼女が示した方に顔を向けると、黄昏時の淡い陽が空一面を薄紫色に染め上げていて、所々引っかかったように浮かぶ雲には、隠しきれない日の名残が、その輪郭を濃い燈色に縁取っていた。川は稲穂の波のように輝いていて、向こう岸の土手を、シルエットになった電車がタタン、タタン、とリズミカルに通り過ぎてゆく。
「きれい……」
背中越しに聞こえた霧絵ミルイの声は、たった一言で全てを表していた。
かなしくて、切なくて、胸を締め付ける郷愁にも似たこの感慨は、“きれい”としか言い表せない瞬間だった。
何だか泣きそうな気持ちになってきて、僕は前カゴに入れた彼女のノートが振動で痛まないよう注意することで、甘苦しいのどのつかえを飲み込み、気持ちを反らした。
伸び放題の夏草が草いきれを巻き上げ、辺りに濃密な緑のにおいが立ちこめる中、僕たちを乗せた自転車は、夕暮れの陽に染まるまっすぐな土手を、きしんだ音をさせながら、静かに、ゆっくりと流れていった。
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