第25話
「それじゃ、採用企業の書類を渡しておく。面接自体はまだ先だからゆっくりでいいが、一応目を通しておいて、どこにするのかよく考えておくように」
先生がそう言うと、進路面談はあっさりと終わった。時間にしておよそ五分ほどで実にあっけなく将来の行き先が決められることに、実感も戸惑いも感じる暇なく、僕はただ淡々と頷いて教室を後にした。時おり母が話しかけてきても、僕はただ「ああ」とか「うん」とか生返事ばかりで、何を話しているのかまるで上の空のまま、頭をよぎるのは昨日のことばかりだった。
母と話した後、僕は血の付いたタオルを見付からないように処分し、真人には手首を切ったことを黙っているように注意した。どうしても切りたくなったときは、母のいないとき/場所で、なおかつ僕の見ている前でするようにとも。
そのかわり僕は真人の望みを出来るだけ叶えてやろうと思った。それがどんなことであっても――例え自分の手首を切るようなことであろうと――犯罪でない限り、すべて認め、受け入れると約束したのだった。
いつのまにか重くなっていた肩に息苦しさを感じて、僕は深呼吸した。けれどもそれはため息とほとんど見分けがつかず、胸の奥につかえのようなものを生じさせる。
少し肌寒い扇風機の風が舞うバスの中、並んだ座席の窓側で、僕は流れてゆく景色をただぼんやりと眺めていた。空は相変わらずはっきりしない灰色で、くすんだ光景の中を電柱と家と田畑が不揃いに現れては通り過ぎてゆく。
「――でも正直、ケイジが仕事に就くって聞いたとき、母さんちょっと嬉しかったな」
言葉の羅列に過ぎなかった母の話が、そこだけ何故か僕の耳を捉えた。
「今まではお母さんひとりでしか生活を支えられなかったけれど、ケイジが働いてくれたら、今より生活が楽になるし、経済的にも精神的にもすっごく助かるわ」
ほんの少し肩の荷が降りたって感じねと、母は行儀よく座った姿勢から、顔だけを僕に向けて語りかけてくる。バスの窓に映り込むその姿を見るともなく見ながら、僕は変わらない姿勢で景色を見続けていた。
「真人のことも……」
落とした声音から、母が表情を曇らせたのは顔を見るまでもなく察せられた。
真人が再び手首を切ったと知ったら、母はどう思うだろうか。ただでさえ、経済的にギリギリの生活を余儀なくされていることに心を痛めているというのに、もし母がそのことを知ってしまったら、きっと心がもたないだろう。母も弟も、強い人間ではないのだ。
――だから僕が二人を支えなくてはならない。経済的にも、精神的にも。
「でも、ケイジも来年にはもう社会人かぁ……。本当、あっという間ね」
暗くなりかけた雰囲気を誤魔化すように、母は明るく言った。やはりこういうところが“弱い”なと思いながら、同時に僕は、母の言った何気ない言葉にひっかかりを覚えた。
母が口にした社会人という言葉には、将来とか未来といった抽象的な言葉よりも、より身近で具体的に差し迫った現実を否応なくつきつけるような響きがあった。それは同時に青春期の終わりを意味しているようで、僕はさっきの決意も忘れて、やりきれない気持ちでいっぱいになった。
〈もし、父さんが生きていてくれたら〉
そんなとりとめもない考えが、ふと頭をよぎる。
もし父さんが生きていてくれたら、僕なんかよりもしっかりと母さんや真人を支えてくれただろう。
母さんは疲れた顔を隠して微笑うこともなく、真人は僕よりも的確な助言やアドバイスを受けて、いじめられることもなかったかもしれない。
経済的にも今よりは楽な生活が出来て、僕が学校を出てすぐ働く必要もなくなる。
もしそうなら僕は――。
僕は、どうしていただろう――?
「早くお母さんを楽にしてね。頼りにしてるわよ」
母はおどけたようにそう言って、悪戯っぽく微笑った。
僕はどうしてか、寝たふりをして何も応えなかった。
夢を見ていた。それは目が覚めた後で“またか”と思うくらい、よく見る夢だった。
僕は階段の多い複雑な構造の駅で迷子になっていた。どうして駅にいるのか、どこへ行こうとしているのかは自分にも分からないけれど、それでも三番線のホームから電車に乗らなくてはならないことだけは、何故かはっきりと意識していた。
いくつかの長い階段を何回も上り下りして、僕はようやく三番線を見つけ出した。そこはやたらと細長いホームで、端が霞んで見えないほどだった。辺りには大勢の人々が静かに電車を待っていたけれど、それらの人々は滲んだように朧気で、ゆらめく陽炎と重なって見えた。
突然場面が転換し、僕はいつの間にかすでに電車に乗っていた。車内は妙に静かで、レールを走る音も車両の揺れもなく、ぼんやりとした白いもやの中を影のような人たちが無言で座っていた。
僕は吊革につかまって、窓から霞がかった景色を眺めた。
見たこともない、けれどどこか懐かしいような風景は、遠くの方にまばらに家が点在するだけの荒涼とした平野で、葉を付けていない枯木が時おり通りすぎると、何だか無性に寂しいような、心細いような気持ちにとらわれた。
その不安な気持ちが僕をハッとさせたらしく、僕は自分が目的地とは違う方へ向かう電車に乗っていることに気が付いた。なお悪いことに、次の駅で折り返そうと思ってポケットに手をやると、どうやら財布まで忘れていたらしい。
夢特有の無茶な行動力で、車掌さんに話をしてこようと連結扉を開けた瞬間、そこは何もない白い部屋になっていた。座席も、吊革も、影のような人たちも消え去って、窓から見える景色だけが、剥がし忘れたシールのように浮かんでいる。
――そして部屋の中央には、見知った後ろ姿があった。
「霧絵、ミルイ……」
声に出した瞬間、自分がずいぶん長い間その言葉を発していなかった気がして、僕は胸が苦しくなった。遠い蒼空に手をのばすような、寂しくて、懐かしくて、ほんの少し心が切なくなる響き。
「霧絵!」
僕は彼女に駆け寄ろうとして、突然行く手を阻まれた。よく見れば、そこには透明な壁が僕たちを隔てるように遮っていて、どこか監獄の面会室のようでもあった。
その壁越しに霧絵ミルイが振り返る。滲んだ色彩の中、救いを求めるような顔付きで彼女が何か言おうと口唇を開きかけ――。
「ケイジ、起きなさい。バス停に着いたわよ。ケイジ!」
僕は目が覚めた。
狭い座席で身をよじり、ぼんやりした頭で居場所を確認する。隣に座る母の姿と、古い平屋の公営住宅である我が家が遠くに見えるのみで、当然ながらそこに霧絵ミルイはいない。
「どうしたの? 怖い夢でも見た?」
「そんなんじゃない」
からかうような母に対して、思いのほか棘のある言い方になってしまった。
「そんなに怒らなくたっていいじゃない」
やや戸惑いを浮かべながら心外だと抗議する母を置いて、僕たちはバスを降りた。
腹が立つ理由ははっきりとしている。
夢の中で霧絵ミルイは僕に何かを伝えようとしていた。にもかかわらず、そのことを話し始める前に母が僕を起こしてしまったからだ。
自分でもずいぶん理不尽な、これ以上ないくらいに子供っぽいことを言っていることは自覚しながらも、僕は自嘲する余裕さえなく、イライラする気持ちを抑えることが出来なかった。
家に着いても入る気にはなれず、答えを求めるように空を見上げても、まるで今の僕の心をそのまま表したかのような曇り空は、かえって僕を憂鬱にさせるばかりで、湿り気を含んだ風も、隣で小言を言う母も、正体のはっきりしないモヤモヤした気持ちも、すべてが煩わしくて仕方なかった。
だから僕は――。
「……ちょっと出てくる」
未だ小言を続ける母を置いて、自転車置き場へ向かう。
「ちょっと出てくるって、昼ごはんはどうするの」
「いらない」
僕は振り返ることなくそう答えて、ペダルを漕いだ。
何か理由がある訳でも、目的がある訳でもない。ただ、霧絵ミルイに会いにゆこう。
遠退く景色と母の声を背に受けながら、僕はそう思った。
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