第24話
次の日はあいにくの空模様だった。午前の授業を終えて教室を出る頃には黒い雲が空を覆っていて、遠雷が小さく轟き始めていた。湿った風は生暖かく、まとわりつくようで、ジメジメとした汗が知らず流れてくる。
「どうしたのよ? 眉間に皺よせて」
窓の外を睨みながら小さく悪態をつく僕を見て、杉原が聞いてきた。
「……傘持ってこなかったんだよ。朝見たときはここまで曇ってなかったし、大丈夫だと思って」
「あー、そりゃアレだわ、お前。日頃の行いだわ、それ」
お前が言うなと軽く肘鉄を喰らわすと、杉原が気持ち悪い声で反応する。
「まあまあ。相合い傘で帰るためにわざと傘を忘れるなんて、草壁も可愛いところがあるじゃない」
隣にいた半井は微笑いながら、密かにスナイピングポイントを設置していたようだ。
「なるほど、そういう手があったか。でもどちらかといえば女がとるべき手段だと思うぜ」
「二人ともうるさい」
高い湿度のせいか、二人に対するつっこみも、いつもより覇気が出ずにおざなりになる。
霧絵ミルイとのことをからかわれて、そういえば小鳥遊さんから預かったペンダントを渡さなければならないことを思い出した。それでも、まあ急がなければならないことでもないと、ついだるさと面倒くささに負けてしまう。特に今日のような天候ならなおさらだ。
「帰ろ」
呟いて席を立つと、杉原が――今度は真面目に――「チャリで乗っけて行ってやろうか?」と気を使ってくれた。
「いや、いいよ。反対方向だし。降ってくる前に何とか急いで帰るから」
二人と別れて校門を出ると、黒い雲はどんどん濃くなって、バスを待っている間にとうとうポツリポツリと雨が降り始めてしまった。
「あー……」
悪態とため息を混ぜてバスに乗り込むも、雨足はどんどん強くなっていって、家の近くのバス停に降りたときには、すでに土砂降りになっていた。
僕はしばらく迷ったあげく、結局ずぶ濡れになるのを覚悟しながら家までを全速力で走って帰った。
「ただいま」
家の中は森寒としていて、人の気配がなかった。薄暗さに閉じ込められた玄関から中に足を踏み入れると、さらに暗い影の塊が冷えた廊下の隅に溜まっていた。そこにはどこか慄然とするような気配が漂っていて、雨のせいもあってか、かび臭いような、ごみ臭いような、嫌な臭いがする。一歩踏み出すごとに足の裏から濡れた靴下の不快な冷たさが身体を走り、僕は背筋の寒気を感じながら、洗面所の戸を開いた。
瞬間、ストロボめいた雷が強い光を室内に放ち、暗い部屋の隅にうずくまった何者かの姿を一瞬表した。
“ヒッ――”という僕の小さな悲鳴が、短く途切れたしゃっくりのように、口から鋭角に漏れ出る。
「……兄ちゃん?」
「真人、か? 何やってんだお前。そんなところで電気も付けないで」
弟の声は雷鳴の轟きにかき消されそうなほど小さくて、闇に溶け込んだ黒いシルエットは、まるで幽霊そのもののように思われた。
「とにかく明かりを付けろ」
電灯のスイッチを手探りであてて室内に明かりが灯ると、ようやく人心地ついて、僕は大きく息を吐いた。
「まったく……、帰っていたなら返事くらい――」
しろよと言いかけて、僕は弟の様子がおかしいことに気が付いた。
弟はぐったりと壁に背をもたれたまま、縮こまって小刻みに震えているようだった。心なしか顔色も蒼白く、泣いているようにも見える。
「……真人?」
埃だらけの古い電灯が、弟をまるで苔むした彫像のように陰で覆う。その姿は不穏そのもので、嫌な鼓動が徐々に高まっていった僕は、そのとき初めて、弟が左手首から血を流していることに気が付いた。そして同時に、右手には鈍く銀色の光を返す剃刀が握られていることにも。
「真人っ! お前……!」
「ごめん、兄ちゃん……。僕、だめだったよ……」
「とにかく血を止めろ!」
僕はかけてあったタオルを急いで取ると、弟の手首をきつく縛った。幸い傷はそれほど深くはなく、出血はほとんど止まっていた。
「何があったんだ? また何か言われたのか?」
床に垂れていた血の跡をふき取ってから、僕は弟の横に腰かけて、できるだけ優しく、問い詰めるような口調にならないよう、慎重に気を配りながら真人に聞いた。
弟はしばらく無言のまま、さっきまで血で赤く染まっていた床をなぞるように、虚ろな瞳でぼんやりと眺めていた。
僕は雨に濡れたシャツを脱いで、新しいタオルで頭から身体を順に拭いていった。あまり意識を集中させすぎると、かえって弟も話しづらいかと思って、わざと何気ない自然な動きで緊張を緩和させたのだけれど、その甲斐もあってか真人はぽつりと呟いた。
「賭け、だったんだ」
「賭け?」
「僕が終業式の日、学校に来るかどうかをさ」
最初、僕は弟が何を言っているのか理解出来なかった。しかしそれも一瞬のことで、昨日からの違和感の正体に気が付くと、僕は愕然として絶望的な気分になった。
真人は何の表情も浮かべておらず、そののっぺらぼうのような印象の薄さが、かえって痛ましかった。
そして想像してみた。“よく来てくれたな”と笑顔で弟を迎えるクラスメイトの傍らで、“何で今日に限って来るんだよ”と、悔しそうな、うんざりしたような顔つきで別のクラスメイトが悔しがる。
彼らは戸惑う真人の目の前で“おれの勝ち”とか“メールを送るとかズルくね?”などとふざけあいながら、金を受け渡しする。弟の気持ちにはまったく頓着することもなく。
「馬鹿だよね、僕。今までずっと相手にされなかったのに、メールひとつで簡単に乗せられちゃって。冷静に考えたらおかしいのはすぐに分かるはずなのにね」
そのどこまでも無感情な淡々とした物言いが、かなしく、やりきれなくなって、僕は弟の頭を強く抱きながら言った。
「真人……悪いのはお前じゃない」
「やめてよ兄ちゃん。善いとか悪いとかじゃなくて、ただ僕が――」
ずっと感情を抑えて抑揚のない話し方だった弟の声が、初めて揺らいだ。のどの奥に言葉を詰まらせ、わずかに肩を震わせながら、諦めと自嘲が入り混じったような小さな微笑を、ふっと漏らす。
「僕……、変われると思ったのになぁ……」
胸の中で静かに涙する弟に、僕は何もしてやれず、ただ抱き締める腕の力を強くするだけだった。
そうして晩になり、母が仕事から帰って来た。
「ただいま」
玄関の上がり框に腰掛けて靴を脱ぐ母に、僕は「おかえり」と声をかけた。
母はもう一度振り返って「ただいま」と微笑んだが、その笑顔と、丸まった背中からは隠しきれない疲れが滲み出ていて、これから話さなければならないことを考えると、それ以上言葉が出なくなってしまう。
「もうご飯は食べた?」
母と居間へ向かいながら、僕は首を横に振る。
「どうせこんなものしか出せないんだから、先に食べてくれてたらよかったのに」
母は苦笑いしながら、台所の戸棚を開けてインスタントラーメンを取り出す。
「ごめんね。本当はもっとおいしいものをいっぱい食べさせてあげたいんだけど……」
「僕も真人もラーメン好きだから、むしろ嬉しいけどね」
申し訳なさそうに微笑う母の手には、二つのカップ麺しか握られていない。
「母さんの分は?」
「ん? ああ、お母さんはいいの。パート先で余ったお弁当を頂いてきたから」
嘘だ。すぐに分かった。それでも僕は、母の優しさをたまらなく思いつつも、その気持ちを無駄にしないよう、「そうなんだ」と母の言葉を信じたふりをして流した。食べるときに僕の分を半分あげればいい。
「真人は?」
母がヤカンに水を入れながらあまりにも自然に聞いてきたので、僕は一瞬返事に詰まってしまった。
「そのこと、なんだけど――」
悪い話など微塵も予期していない母に、僕は意を決して、真人に起こったことを話した。
話をしている間、母は信じられないといった風に驚き、動揺して、いくぶん落ち着いた後もなお、眉間に皺をよせたまま俯いて黙っていた。
「今しばらくは、そっとしておいた方がいいかも」
僕がそう言って話を結ぶと、そうねと母は頷き、そのまま二人黙り込んでしまう。
夕立のせいで家の中は薄暗く、僕たちがいる台所だけが、油汚れのこびりついた古い蛍光灯に照らされてかろうじて明るい。屋根に当たる雨音は蒸し暑さの表れであるはずなのに、今はどこか肌寒く感じる。
「……母さんね、あの子に言ったの。待ってるだけじゃ何ひとつ変わらない。自分から積極的に動いてみることも大切だって。……こんなことになるなら、初めから言わなければ良かった」
蛇口から滴る水滴のように、母は呟いた。僕と並んで流し台に腰を預けたまま、母は背中を丸めて俯いている。
「少し考えれば分かっていたことなのに、母さんが軽はずみにあんなこと言ったから……」
そこから先は声が掠れて続かないようだった。
誰に対しても親切で思いやりを持てる母は、それ故に他人からの悪意に鈍感で打たれ弱いところがある。
僕は母の肩を抱いて、まるで小さな子供をあやすように、頭や背中をさすりながら言った。
「母さんは何も悪くないよ。真人だって分かってるはずさ」
一番悪いのは弟のクラスメイトの連中だ。誰が見たって明らかなのに、母も弟も自分ばかりを責めている。あるいはそうと知っていながら、二人とも他人のことを責められない性質なのかもしれない。
母は小さく頷くと、赤くなった鼻をすすって、寂しそうに微笑んだ。
「晩ごはん、何か作るわね」
忙しく立ち回ることで必死に気持ちを切り換えようとしている母の姿を見て、僕は弟が手首を切ったことをとうとう言えなかった。
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