第23話
結局夏休みの話はほとんどまとまらず、一時間ほどだらだら過ごして解散になった。
「また明日」と言って二人と別れ、陽炎立つアスファルトをひとりで歩く。
中途半端な時間もあって、辺りに人はまばらにしかおらず、商店街とは名ばかりのシャッター通りを歩く僕の足音だけが小さく響いている。少しだけ傾き始めた太陽が軒並みのガラスを一瞬白く光らせ、数日後に控えた夏祭りを宣伝するポスターを浮かび上がらせた。
「もうそんな時期か」
僕は少しだけ立ち止まってポスターを眺めた。シンプルな貼り紙には、そっけない文面で日時と場所だけが書いてあり、人通りの少なさも相まって、何だか無性にさみしかった。
それから青田のにおいが立ち込める道を歩き、入道雲の下で信号を待って、蝉の声を背中に受けながら家に帰り着いた。
「ただいま」
ひとり出した声が自分でも予想外に沈んでいて、僕は顔を叩いて大きく息を吸うと、姿勢を正しながら居間へ向かった。
「あら、おかえりなさい」
「おかえり、兄ちゃん」
建て付けの悪い戸を開けた途端、今さっき入れ換えた気持ちも忘れて、僕は困惑したまま固まってしまった。
「お前……何やってんだ?」
「何やってるもなにも、見て分かんない?」
それは分かる。端的に言えば母の夕食作りを手伝っているだけだ。母の仕事が早く終わることもたまにある。問題は何もない。が、しかし。
「お前、今まで手伝いなんかしたことなかったよな? ……何があったんだ?」
「うっさい。別に悪いことしてる訳じゃないんだから、いちいち突っ込まないでよ」
割と本気で心配して言ったのだけれど、弟はそっぽを向いてじゃがいもの皮剥きに取りかかってしまった。
それでも僕の戸惑いを感じ取ったらしい母が、含み笑いを隠した優しく穏やかな視線で“後でね”と告げていたので、僕は混乱しながらも、とりあえず腰を下ろすことにした。
取り込んだ洗濯物や散らかった漫画を足でどかして、普段はあまり見ないテレビをつけてみる。再放送のドラマや地域のニュースを伝える退屈な音声と、台所から漂う料理のにおいが、夕暮れの慌ただしさを告げている。それとなく二人の方を窺うと、居間と地続きの小さな台所で、時おり暖かな笑い声をはさみつつ、弟は母に教えられながら不器用な手を動かしていた。長袖を捲り上げ、未だ青黒く残る手首の傷痕をもはや隠すこともなく。
弟が自分の手首を切る姿を初めて見たとき、僕は母と二人で夕食の片付けをしていた。
その頃の弟は気分のムラが激しく、朝からやけにご機嫌かと思えば、昼過ぎあたりから特にこれといった理由もなくふさぎがちになったり、あるいはその逆に一日中シクシクと涙を流していたかと思うと、寝る直前になってまるで幼子のように突然異様なほど高揚して母に怒られることもあったりと、情緒不安定な日々がずっと続いていた。
ところがある日を境にして、弟の態度が突然穏やかな平静を取り戻したものに変わった。聞かれたことにはきちんと返事を返し、テレビを見て感想を言い、一緒に食事をしながら談笑する。何もかも普段通りで、まるで先日までの精神の不安定さなどなかったかのように、弟は落ち着き払っていた。
けれども今になって思えば、そのあまりにも唐突な普通過ぎる弟の態度をこそ不自然であると、もっと深刻に考えるべきだった。
その日は朝から曇っていて、晴れ間はなく、かといって雨がふるほどの天気でもない、ぼんやりとした灰色の空だった。暑かった風がしだいに涼しくなって、半袖のTシャツが長袖のカーディガンに替わる季節。
弟は呆けたように居間の窓際へ座って、毎日ただじっと外の景色を眺めていた。
感情の波が極端から極端へ流れる弟にどう接していいか分からなかった僕と母は、弟のこの変化を改善の兆しと捉えていた。だからあの日、夕食が終わった後弟が風呂に入ると言って洗面所へ向かったときも、さして気に留めることもなく、僕と母はとりとめのない会話をしながら食器を洗っていた。
「あ、バスタオルあったかしら」
母は洗い物の手を止め、畳んであった洗濯物の中からバスタオルを取ると、弟を追って洗面所へ行った。僕は水洗いした皿を食器かごへ一枚ずつ入れていた。母の軽い足音が小さく響いた。少し冷たくなった水道の水が蛇口から滴り落ちた。一輪挿しには紫色の可憐な桔梗が咲き、家の前の狭い道を原付が走り抜けていった。
次の瞬間、唐突な母の短い悲鳴と「何やってるの!」という叫び声が室内に亀裂を走らせた。日常は実にあっけなく、一見安定した密度を保っていたかに見えた穏やかな日々の殻を破り、あたかも床に落とした生卵のようにどろりと変質しながら、徐々に不快な塊を漏らし始めた。
「ケイジ! 早く来て!」
僕の名前を何度も叫ぶ母の声が響き、僕は急いで洗面所に駆け付けた。そこには左手首から血を滴らせながら、無感情な瞳でぼんやりと佇む弟の姿があった。
母は目を見開き、信じられないといった様子で自分の腕を胸に置いて、肩を大きく上下させながら呼吸を乱していた。
「ケイジ! 真人が……!」
小さな子供のように震え、泣きながら、なすすべもなく今にも壊れそうな顔で僕にすがりつく母とは対照的に、弟は冷淡ともいえる態度で、右手に握られた剃刀――刃が赤く濡れている――へわずかに視線を落とすと「見られちゃったか」と何でもないことのように呟いた。
狭い洗面所には、重い滴が垂れ落ちる鈍い音だけが、静かに響いていた。
「おまたせ~」と愉快な声と共に、三人分のカレーをお盆に乗せて、母が楽しげに居間へ入ってきた。
「今日のカレーは真人が作ったのよ」
母に続いて麦茶やサラダなどを運んで来ていた弟は、母とは対照的に、照れくささと恥ずかしさを憮然とした顔つきで隠そうと必死になっていて、何とも微妙な表情をしていた。
「……別に暇だったから気まぐれで作ってみただけだし。欲しくなければ無理して食わなくていい」
「そんなに自虐的になることないわよ。美味しそうに出来てるじゃない」
折り畳みの座卓を開いて、なだめる母と準備をしている間、弟はその顔つきのままずっと黙りきりで、僕も母も吹き出すのをこらえるのが大変だった。
「いただきます」
夕食を並び終えたところで、三人揃って手を合わせる。
弟が作ったというカレーは、なるほど、いかにも素人といった感じだった。
ルーは所々固まりが溶けきらずにじゃりじゃりしているし、人参は大きさが不揃いで芯が残っている。じゃがいもはとろけてしまって跡形もないと思えば、何を入れたのか辛さよりも甘さが舌につく。それでも――。
「うまい」
自分でも意外なくらい素直な感想が思わず口に出たのは、料理の腕とか、上手い下手とか関係なく、心からそう思えたからだろう。
「ほんと! おいしい」
母も顔を綻ばせながら弟を見やる。一方の弟はというと、先と変わらずむず痒さを我慢しているような表情をしていて、しかしわずかにわずかに覗いた笑みからは、まんざらでもない様子が窺えた。
夕食を終えて、僕と母は後片付けをしながら食器を流し台へ持っていった。狭い流し台に並んだ僕たちの流す水が、所々錆びたステンレスのシンクに跳ね返る。
僕は首を巡らせて、まだ弟が風呂から上がってくる気配がないことを確かめてから母に問い質した。
「……で、真人のやつ、いったいどういう風の吹き回しなの?」
母はカレー皿を洗う手を止めてふと微笑むと、内緒話を打ち明けるようにささやいた。
「クラスの友達からメールが来たらしいの。“明日は学校来いよ! みんな待ってるからさ”って。
明日、真人は終業式でしょう? “最後の日くらいは行ってみる”って何でもない風に言ってたけれど、内心とっても嬉しかったんでしょうね」
「それで自分から手伝いをする気に?」
「そうなの! あの子が自分から手伝いたいなんて言ったことなかったから、お母さん驚いちゃって」
母は喜びを抑えきれないように、ひそめた声を大きくする。
「何かいいことあったの? って聞いたら、ぶすっとした声で“別に”なんて言ってたんだけど、やっぱり嬉しいことは誰かに聞いてもらいたいと思うものじゃない? 少しずつ促してみたら、ぽつりぽつりと話してくれたわ」
これがいいきっかけになるといいんだけどと言いながら、母はどこかほっとしたように表情を緩める。その呟きは僕に向けたものというより、思わずこぼれたといった風で、弟の元に来たメールも善意からのものだと信じて疑わなかったようだった。
僕たちは黙ったまま、皿を洗う水音と、かごへ入れる食器が重なる音がかろうじて沈黙を防いでいる。
僕は手を動かしながら、母ほど楽観的にはなれなかった。弟に対して今まで何もしてこなかった連中が、今になってどうして突然連絡をよこしてきたのか。その理由が判然としないからだ。コンビニでの出来事も、何とか治まったように見えるけれど、結局は問題の解決を先送りにして曖昧にごまかしたに過ぎない。
あの少年があのあと何を思い、何を考えてきたのか。そこをはっきりさせないままでは、弟に送られてきたというメールも善意から来たものだとは、僕にはどうしても思えなかった。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「いや、別に」
母の声に意識を戻されて、僕は残りの皿を手早くかごへ入れると、冷蔵庫の麦茶をペットボトルから直接のどに流し込んだ。
「まだ入れたばかりだから、冷えてないでしょう」
それには答えず、僕は居間まで戻って仰向けに寝転がった。もうすっかり日が落ちた外から吹いてくる風が、蚊取り線香のにがい煙をゆるやかに天井へ巻き上げる。
その行方を目で追いながら、僕は不安な予感を抱かずにはいられなかった。
そしてその予感は、ほどなく当たることになる。
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