第22話
次の日になっても僕の気分はもやがかかったままだった。
昨日は家に帰った後もずっと小鳥遊さんと霧絵ミルイの関係について考えていて、小鳥遊さんに霧絵ミルイの気持ちを伝えなくて本当によかったのだろうかという思いが頭から離れなかった。
窓際に視線を送ると、小鳥遊さんの横顔が窓から入る陽光と重なって、にじんだように見える。僕が座っている席からは彼女の細かい表情までは窺えないけれど、今朝自分の席に行きがけにすれちがったときにも、小鳥遊さんはいつもの少し控えめな、けれども親しみの込められた声で「おはよう」と僕に声をかけてくれた。
小鳥遊さんが今どんな気持ちでいるのかは知る由もないし、知ったところで僕に何が出来るのかさえ分からない。
それでも、もし僕がもっと早い段階で、彼女に霧絵ミルイの気持ちの一端でも伝えることが出来ていたら、小鳥遊さんに昨日のようなつらい想いをさせずにすんだのではないだろうか。
それとも――。
「……かべ。草壁!」
先生の呼び声で、僕はハッと我に帰った。
「ちゃんと聞いてるのか?」
「あ、すいません……」
教室が笑いに包まれる。ぼんやりとしていたせいで、いつ終令が始まったのかも覚えていなかった。
「まったく……。いいか、もう一度だけ言うぞ。
前から言っていたとおり、今日から進路に関しての三者面談を行う。まさか保護者の方に伝え忘れていたなんて間抜けなやつはいないだろうが、急用なんかで来られなくなった場合は早めに連絡をいれるように。それから他のやつらは午前で帰れるからって、ふらふら遊びに出掛けたりせずに、しっかりテストの復習をすること。高三の夏は最も大事な時期なんだからな」
先生の話は未だ続いているけれど、みんなテストが終わった解放感と、午前中で帰れる嬉しさ、さらにはもうすぐ夏休みが始まるという喜びで、誰もが浮わついた気分をさらけ出していた。
そんなクラスメイトたちを眺めながら、僕だけが「そういえば三者面談は今日からだったか」と妙に醒めたような気持ちで、プリントに表示された自分の日付と時間をチェックしていた。
僕は学校を卒業したら就職することを決めている訳だけれど、正直に言えば今ひとつピンとこないというか、スーツを着て働いている自分自身を具体的にイメージすることが出来ずにいた。
「来年の今ごろは、きっと遊ぶ余裕もないんだろうな……」
ひとり声に出して呟いてみても、言葉は映像を伴わず、ぼんやりとした印象だけが夕立のあとの湿気のように漂う。
――僕と霧絵ミルイは、その頃どうしているだろうか――。
教室のざわめきを受信状態の悪いラジオのように聞きながら、ふと、そんなことを僕は思った。
「うほーっ、涼しいーっ!」
「他の人の迷惑になるからやめろ」
自動ドアをくぐるなり恥ずかしげもなく叫ぶ杉原の頭を軽くたたいて、僕と半井も続いて空いている席に座る。
昼時のファミレスは時間帯もあって多くの人でにぎわっていた。その中にあって、ドリンクバーだけでだらだらと時間をつぶそうとする僕たちは、店側にとってはさぞ迷惑な客に違いない。
「注いでくるけど、二人は何にする?」
「俺コーラ」
「僕はサイダーで」
カウンターに向かう半井へ軽く礼を言って、僕はシャツの袖で額の汗をぬぐった。
「まだ昼前だっていうのにあっちぃよなー。いよいよ本格的に夏、って感じか……」
はぁ、とため息をひとつついて、杉原はぐったりと姿勢を崩して上を向く。
ホームルームが終わったあと、今日は久しぶりにどこかへ寄って、三人で夏休みの計画を立てようという話になってここまで来たのだけれど、この暑さでは遊びに行くことさえ億劫になってくる。冷房を強く効かせて、窓を閉めきり、流行りの音楽を有線から流していても、南中にさしかかった太陽の強い日射しを目にするだけで、騒がしいセミの声が耳の奥に響いてきそうなくらいだった。
「おまたせー」
のんびりした半井の声に、僕は意識をテーブルへ戻した。
杉原が「サンキュ」と言いながらコーラを取り、僕も半井にもう一度軽く礼を言ってサイダーを口にした。
甘さと苦味の広がり、そして喉を通るときの刺すような刺激と、わずかに胸が苦しくなる感じ。
僕の好きな夏の味が変わらないことに、何故だか少しだけ安心する。
その後とりとめのない会話は締まりなく続き、テストの話からゲームの話、昨日見たテレビの話に、クラスメイトの噂から気になる女の子の話――二人から霧絵ミルイとの関係をさんざん弄られたことは言うまでもない――など、気付けば店に入ってから二時間が過ぎようとしていた。
「ていうか全然休みの計画が立ってないね」
時計を見ていた僕にうながされてか、半井が苦笑まじりに言う。
「まあ今年は受験があるから、僕はあまり遊べないんだけど」
さっきまで楽しげに話していた杉原も、半井の言葉を聞いた途端に「受験かー」と、渋面になる。
「先生の言ってたとおり、そろそろ本気で勉強しないとヤバいかも……。その点、草壁や杉原は気楽でいいよねー」
「ばっか。俺なんて夏休み明けたらすぐ面接だよ」
「え? 推薦の面接ってそんなに早かった?」
「そうだよ。だから補習の合間に面接の練習やら心得やらをたんまり指導されるってわけ」
「僕も来週から予備校に行かされることになってさー。あれ? 夏休みってどこへ行ったの? って感じだよ」
はぁ、と杉原と半井は同時にため息をつく。
「おまえはどうよ?」
話の流れからして僕にも振ってくるだろうなとは予想していたけれど、二人と違い、僕にはこれといって今までと変化ない日々を過ごしていた。
けれどもそのままそう言うのは何となく憚られるような空気だったので、「まあ色々と面倒なことはあるよ」とごまかしておいた。
杉原は「だよなー」と相づちをうち、半井も頷きながら眠そうな目で返す。
倦怠感が僕たちの間に漂い、沈黙が炭酸とやる気を奪ってゆく中で、ふと杉原が呟いた。
「来年の俺たち、どうなってんだろうな」
「そりゃ、大学生かさもなきゃ浪人生か」
「おいおい、縁起でもないこと言わないでくれよ」
「あはは。半分は自虐だけどね」
「勘弁してくれよ。ただでさえ俺、面接が近いんだからさー」
「ごめんごめん。じゃあ話題を変えて、最近僕、料理を始めたんだけどさ、今度試食してみてくれない?」
「料理ぃ? お前が?」
「うん。いやほら、卒業したら一人暮らしになるわけじゃない? そうすると炊事やら洗濯やらも自分でやらないといけなくなるから、今から練習しておこうと思って。杉原はそういうのしてないの?」
「あぁ、俺はまず目先の面接に集中しないといけないからな。それに俺が目指しているところは寮だし」
「そっか。でも寮生活ならなおさら必要じゃない? 身支度の整頓とか、規則正しい生活リズムとか。誰かと相部屋になる可能性が高いし」
「ああ、それは確かに不安の種のひとつとしてあるよ。二人部屋らしいから余計にな。あと――」
杉原も半井も以前だったらこんなことは話題にもしなかっただろう。けれども受験という目の前に差し迫った問題に対して、二人ともやはり意識せざるをえないらしく、そこには自分の将来を真面目に考え始めた友達の姿があった。
二人の会話をどこか遠巻きに聞きながら、僕はどこか居心地の悪さを感じている自分に気が付いた。
親や先生がどんなに将来を急かしても、僕たちだけは変わらないと思っていた。
眠い授業を受けて、寄り道をして、笑って別れてまた明日。
けれど周囲の環境は停滞を許してはくれないらしく、みんな少しずつ変わってゆくことを余儀なくされる。望もうと望むまいと。
しかしそれは、各々の未来へといたる一歩であり、小さな変化、小さな積み重ねのひとつひとつが、夢へと至る階段なのだ。
なら――、と僕は思う。
二人と比べて、何も変わらない自分は一体何なのだろうか。
焦がれるようなこの気持ちはどこへ向かっているのだろうか。
僕はこのままで本当にいいのだろうか――。
太陽は知らん顔で夏の日射しを照らし、白い雲は我関せずに蒼空を泳ぐ。
ガラス窓に覆われた水槽のような店内で、僕はただじっと、浮かんでは消える炭酸の泡沫を見つめていた。
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