第21話


 休日を挟んで再び学校が始まった。通常の授業はもう済んでおり、終業式までの数日、返ってくるテストの答え合わせが授業内容となる。

 順番にひとりずつ呼ばれながら、徐々に教室内が騒がしくなってゆく。みんな席を立って仲の良い者同士で答案を見せ合ったり声を上げたりして、先生の注意もまるで耳に入っていない。

「よう! どうだった?」

 軽くウザいノリで杉原がくねくねとおどけた足取りで近寄ってくる。半井は別の教室で理系の答え合わせをしているので、ここにはいない。

「よくない」

 僕はわざと無愛想に答えて、ついでに答案も見せてやった。謙虚なふりをして点数を自慢しているのではなく、本当に悪い点だったので開き直っているのだ。

「おっ、なあんだ、俺と同じくらいじゃん」

 杉原はニカッと笑いながら、僕を真似るように惜し気もなく自分の答案を見せつける。35点。確かに僕の点数と大差ない。つまり、赤点ギリギリ。

「こんなもん、分かんなくたって生きていけるんだよ。テストの点がすべてじゃねえ! お前もそう思うだろ?」

 いつもなら“勉強しないやつの言い訳だな”と軽口で返すところだけれど、今回は僕もまったく勉強していない――というか出来なかった――ので、あまり大きく言い返せない。だから今回は敢えて杉原の言葉に乗ることにした。

「まあ確かに。古文なんて、日常生活じゃまず使わないからな」

「そうだそうだ! だいたい俺が目指している陸上の世界には頭よりも身体が必要なんだ。勉強なんて必要ない!」

「その言い方だと陸上競技の選手はみんな頭が悪いみたいになってしまうぞ。ごめんなさいは?」

「ごめんなさい!」

 僕は杉原とふざけあいながらも、半分は杉原の言葉に納得していた。

 結局のところ、卒業して就職してしまえば学校で習った勉強などほとんど役に立たないことは分かりきっている。だからテストの点など、留年せず卒業できる程度に取っておけばそれで問題ない。母親の手前、一応はそれなりの点数を取らないといけないと思ってけれど、実際に悪い点を取ってしまったら、何だかどうでもよくなってきた。

 普段ならそこまでやけっぱちな気分にはならなかっただろう。けれども今日は、小鳥遊さんに霧絵ミルイの想いを正直に報告するべきかどうか朝からずっと悩んでいて、他のことに考えを裂く余裕がなかったのだった。

 ――私はずっと汐莉のことを見下していたんだ――

 あまりにも直球過ぎる霧絵ミルイの言葉をそのまま伝える訳にもいかず、かといって遠回しな上手い言い方を考え付くことも出来ないまま、どうしたものかと思考を行ったり来たりさせていると、ふいにポケットに入れていた携帯が

メールの着信を告げた。

「おっ! 彼女からメールか?」

「彼女なんていない」

「またまたご冗談を」

 漫画のキャラクターのセリフを真似ながら覗き込んでくる杉原を何とかかわして受信したメールを確認すると、それは意外な人物からのものだった。反射的に彼女の席を見たけれど、当の本人は窓の外に視線を向けたまま、その表情は髪に隠れてしまって分からない。


【放課後、ミルイのことでお話したいことがあるので、少し残って頂けませんか】


 小鳥遊さんからのメールには、タイトルも絵文字もなく、用件だけが簡素に書かれていた。



 放課後を告げるチャイムが鳴ると、ホームルームの騒がしさを引きずりながらみんな思い思いに退出していった。

 昼間の喧騒を沈滞させた教室にはまだ熱気が残っていて、傾いた夕日が照らす中、ノイズにも似たセミの声や、グラウンドから響く部活のかけ声がそこに混ざると、気だるい暑さが広がってゆくようだった。

「お手間を取らせてしまってすみません」

 誰もいなくなった教室で、小鳥遊さんが礼儀正しく頭を下げる。

 杉原や半井には「先生から進路のことで話がある」と言ってごまかしておいたけれど、僕はまだ小鳥遊さんに霧絵ミルイの気持ちをどう伝えるべきか決めかねていて、「ああ」とか「いや」とか曖昧な返事しか出来なかった。

「あの、もしかして何か約束でも……?」

 僕の中途半端な態度を怪訝に思ってか、小鳥遊さんは申し訳なさそうに恐る恐る聞いてくる。

「あ、いや。そんなことはないよ。大丈夫」

「そうですか……」

 ホッとしたように彼女は微笑み、しかしそれきり何も喋らなかった。

 小鳥遊さんの方から霧絵ミルイについて話があると言われたのだけれど、彼女はどこか話を躊躇っているような様子で、中庭をジッと見つめたまま動かない。僕の方も霧絵ミルイについての話題は今少し時間が欲しいと思っていたところなので、自然と会話が途切れてしまう。

 僕は彼女の視線を追って中庭を見下ろした。

 誰かの名前を大声で叫びながら駆けてゆく男子や、かしましく笑い合う女子たち。帰宅する生徒や部活に向かう下級生の流れを、噴水の脇に植えられた大きくて古い桜の木が僕たちと同じように見下ろしていて、夕暮れの風が梢を撫でながら通り過ぎてゆくと、緑の葉がさわさわとかすかに涼しげな音を立てる。

「もうすぐ夏休みですね」

 視線はそのまま、会話の糸口を探すように小鳥遊さんは呟いた。

「そうだね」

「草壁君はどこか行く予定とかあるの?」

「特にはないけど。小鳥遊さんは?」

「私もないかな。受験もあるし、今年の夏は勉強漬けになりそう」

 小鳥遊さんはそこで初めて僕の顔を見ると、窓から入り込む燈色の風に前髪を弄ばれながら、少しだけ寂しそうに微笑う。

 その様子がどことなく霧絵ミルイと似ていたので、僕は慌てて次の言葉を探して言った。

「小鳥遊さんは進路はどうするの? やっぱり進学?」

「うん。大阪の短大に行こうかなって。草壁君は?」

「僕は就職。といってもまだ面接先も決まってないけれど」

「そうなんだ。偉いね」

「偉い……?」

 小鳥遊さんが何気なく言った言葉が、妙に僕の心に引っ掛かった。

「私なんて、周りの人がみんな大学に行くっていうから、何となく私も行かなきゃいけないかなって思ってるだけで、大学に行って何がしたいとか、将来のためにこういうことを勉強したいとか、そういうの、全然ないから。

 自分の人生なのに、私はただ、何も考えずにぼんやりと流されるままで……。そんなふらふらな私なんかと比べて、草壁君はきちんと自分の進路を決めてる。だから、すごいなぁって」

 誰かにそんな風に言われたのは初めてで、僕は少し戸惑った。

 僕が就職することを決めたのはあくまでも経済的な事情によるもので、僕自身が悩んだり考えたりして出した結論であるかのようにとらえるのは、過大評価に過ぎない。

 けれども小鳥遊さんにそのことを伝えようとしたとき、彼女が呟いた一言がそれを遮った。

「何だか私の周りはすごい人ばかりだなぁ。草壁君も……ミルイも」

 独り言とも僕に対する問いかけともいえない曖昧な言葉は、黄昏時の教室に浮かんだまま、僕の声を制止する。

 小鳥遊さんは再び中庭へ視線を向けると、行き交う生徒たちの流れをどこか遠い目でぼんやりと眺めた。

「私ね、自分でもつまらない、退屈な人間だなぁって思うの。頭もよくないし、運動だって苦手。人目を引くような容姿でもなければ、何か突出した才能がある訳でもない。漫画に例えるなら、コマのすみっこで主人公やヒロインを引き立たせるだけの、名前も存在感もない、ただの端役」

 でもね――。と、彼女はウットリしたため息をかすかに吐きながら空を見上げる。

「ミルイは本物のヒロイン。

 本を読むときの伏せめがちの瞳も、しなやかに身体を動かしながら走る姿も、男の子っぽい微笑みも、物語を私に聴かせるときの少しだけ得意そうな佇まいや、髪に触れる仕草、翳を含ませた気配から、まるで天使の彫刻みたいな寝顔まで、そのひとつひとつ全てが非現実的なほどに魅惑的なの」

 ミルイは私の憧れと小鳥遊さんは珍しく饒舌に語る。しかしその明るい語り口は不意に沈み込み、彼女は暗い面持ちで声音を下げる。

「……私、この前ミルイに会いに行ったんです。怖かったし、どんな顔をすればいいのかも分からなかったけれど、前にも言ったとおり、私と友達でいられなくなった理由を知るためには、やっぱりミルイに直接訊ねるしかないって、そう思ったから――」

 先日彼女とファミレスで話したことと、霧絵ミルイから聞かされたそのときの話が同時に思い起こされて、僕は何と言えばいいのか分からないまま、ただ「霧絵は何て言ってたの?」と返すのが精いっぱいだった。

 小鳥遊さんは視線を中庭へ落としたまま、静かに首を横に振る。

「何も……。ただ以前と同じ“汐莉は悪くない。あくまでも私の問題だから”と言うだけで、その問題が何なのか、ミルイが何を悩んでいるのか、私のことをどう思っているのかさえも」

 小鳥遊さんの霧絵ミルイに対する問いかけは、そのまま僕自身が霧絵ミルイに対して抱いていた思いと全く同じだった。だからこそ、霧絵ミルイの本心を伝えるに伝えられない今の状況が、もどかしく、痛いほどに心苦しかった。

 けれどもきっと、霧絵ミルイも近いうちに小鳥遊さんへ心の内を話すはずだ。あとほんの少しの時間、彼女が勇気を持てるまでのわずかな時間だけが、二人の間をさえぎっている。

「小鳥遊さん、霧絵は――」

「だからね」

 小鳥遊さんは僕の言葉を遮って振り返った。彼女は諦めと、それ以外の――判然としない――何かを含ませた深い瞳で僕を見つめながら、ふと優しく微笑んだ。

「あなたは、ミルイの傍にいてあげて」

 これを、と小鳥遊さんはスカートのポケットから小さな何かを取り出した。

「……これは?」

 小鳥遊さんから手渡されたのは、少女雑誌の付録にでもついていそうな小さな鍵型のペンダントだった。いかにも安物といった感じのぴかぴか光るプラスチック製で、所々傷んでいたり、部品が欠けているような箇所があったりする姿を見ると、かなり昔の物らしい。

「御守り。ずっと前にミルイからもらったものだけど、今これを必要としているのはきっと彼女の方だから、渡してあげて」

 それじゃあね、と彼女は僕に背を向けて歩き出す。

 廊下には人の行き交う気配が変わらずあり、しまりのないトランペットの音が気ままに流れている。窓から入る風がやわらかくカーテンをなびかせ、穏やかな夏の夕暮れのにおいを運んでくる。

「小鳥遊さん!」

 彼女が教室の扉を閉める手を止める。

「霧絵は、決して君のことを嫌ったりなんかしていないから!」

 扉から覗く半身を心持ち傾けて、彼女はさっきと変わらない怖いくらい完璧な微笑で返すと、何も言わずに去っていった。

 僕は紅い教室に取り残されたまま、ただ、しつこいセミの声をくすぶった気持ちで耳にしていた。

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