第20話



 駅前まで戻ると、夕方ほどではないものの、大勢の人が道を行き交っていた。電車の到来を告げるアナウンスや、車が通りすぎる音、人混みに響く話声や笑い声、辻を照らす明るいオレンジの街灯と、食堂やコンビニの明かりがそれに加わり、僕はようやくちゃんと人の世界へ戻ってきたんだなという安心感を得ることが出来た。霧絵ミルイと二人きりで歩いていると、まだ彼女の物語世界から抜け出せていないのではないかと、どこかで不安に思っていたらしい。

 それからロータリーでタクシーを拾い、五分ほど揺られて霧絵ミルイの指定した場所で降りると、僕たちは彼女の家までの短い道のりを歩いていった。

 時刻は八時を回り、夏の長い日差しも完全に落ちているにもかかわらず、彼女の家は真っ暗で、門にも玄関にも家の中にもいっさい明かりは点っていなかった。

「上がっていって」

 玄関の鍵を開けながら、霧絵ミルイがぶっきらぼうに言った。

 上がれと言われても、家の中にはおそらく誰もいないのだろう。高校生の男女が夜二人きりでひとつの部屋にいるというのは、なんというか、とても危なっかしいように思うけれど、彼女はそう思わないのだろうか。

「家の人は?」

「今はいない。だから気兼ねしなくていいよ」

 念のために聞いてみたけれど、やはり僕たち以外には誰もいないらしい。それでも霧絵ミルイはまったく頓着することもなく、躊躇している僕の前で扉を開けて中へ促す。

「……いや、やっぱり悪いよ」

「遠慮なんかしなくていい。その腕の傷も消毒しなくちゃいけないし、話したいこともあるから」

 そうまで言われると断ることも出来ず、僕は恐る恐る玄関へ上がった。外よりも真っ暗だった屋内に霧絵ミルイが次々と明かりを点して行く。白い壁、フローリングの床、よその家のにおいが僕を包んで、しかし暖かみやぬくもりといったものはその中には含まれておらず、生活感を感じさせないひんやりとした空気が、薄暗い廊下の奥から漂っていた。

「二階に私の部屋があるから、そこで待ってて。階段を上がってすぐの扉だから」

 そう言って彼女は廊下を曲がる。

 言われるまま階段を上がり、部屋の前まで来たところで僕は少しためらった。何せ女の子の部屋に入るのは初めてだし、当人もいないのだ。

 それでも彼女が戻ってきたらどうせ入るよう促されるだろうし、そのときに扉の前でまごついている自分が何だかとても恥ずかしくて、僕は一度深呼吸してから思いきって扉を開けた。

 霧絵ミルイの部屋はシンプルでこざっぱりとした内装だった。

 窓際に据えられたベッドと扇風機、その脇に小さな勉強机と姿見、反対側に文庫本が綺麗に並べられた本棚があるのみで、ともすれば味気ない乾いた印象を与えるかもしれないけれど、無駄な装飾のない落ち着いた佇まいが、不思議と彼女にはよく合っているように思われた。

 僕は改めて室内をぐるりと眺めた。壁紙やカーテンも地味な色合いで、ポスターや小間物の類いもほとんどなく、ただひとつ本棚の上に置かれたぬいぐるみだけが、彼女の女の子らしさをほのかに表している。近付いてよく見てみるとそれはクマのぬいぐるみで、これといった特徴のない、平凡な、近くのデパートや量販店でも簡単に手に入りそうなものではあったけれど、あちこち痛んだり糸がほつれていたりしながらも、愛着を持って大事に大事にされてきたことが一目で分かった。

「それは父さんが買ってくれたんだ」

 声に振り返ると、霧絵ミルイが救急箱を持って入ってきたところだった。

「ごめん。勝手にじろじろ見たりして」

 彼女は微笑んで首を横に振り、「こっちへ来て腕を出して」と救急箱を置いて座った。僕は言われたとおり彼女の側へ座ってシャツの裾から腕を出す。

「私の両親は私が幼いときからあまり仲がよくなくてね。二人が口論している間、私はずっと隣の部屋でじっとしていたんだけれど、両親の怒鳴り声が聞こえる中、その子だけがいつも私のそばにいてくれたんだ」

 少しぎこちない手つきで僕の腕を消毒しながら、彼女はぽつりぽつりと語る。アルコールを含ませた綿が傷口にしみたけれど、僕よりも彼女の方が痛みを我慢しているような顔つきだった。

「物語を書き始めたのもその頃さ。幸い参考になるような本はたくさん買ってくれたよ。両親は自分たちのことで手一杯だったから、私が本を読んで大人しくしていれば、むしろ都合がよかったんだと思う」

 彼女が視線を本棚へ促す。よく見てみると、文庫本に混じってアンデルセンやグリム兄弟などの童話や絵本がたくさん並んでいる。そのいずれもがぬいぐるみと同じくらい古いもので、こういった本は成長と共に大抵捨てられるけれど、それらはきちんと整頓され綺麗に本棚に並べられていた。

「大切にしているんだな」

「……私が両親からもらったものって、それぐらいしかないから」

 彼女は眉間にしわを寄せて目をそらした。しかしすぐにごまかすように微笑って「はい。これでもう大丈夫」と僕の腕に包帯を巻く。

「ありがとう」

「お礼を言うのはこっちの方さ。……キミは何度も私を助けてくれた。私はキミに何も打ち明けようとしないのに」

 つかの間の沈黙が二人の間に降りる。カチコチと進む時計の針と首振りにした扇風機の風が部屋を行き交うと、夏の暑さが思い出したようににじり寄ってきて、危うい気だるさがふらふらと漂う。

「……私の両親は、離婚しているんだ」

 それは雫のように小さく壊れやすい呟きだった。あたかもその一言が心に亀裂を生じさせるかのように。

 彼女はおもむろに立ち上がると、勉強机の引き出しからA4サイズのノートを取り出して、僕の前へそっと差し出した。

「これって確か……」

 それは以前、彼女と初めて出かけたときに喫茶店で読まされた“物語”の書かれたノートだった。そのときは確か、「物語を書く技術が拙いころの作品があるから、前の方のページは見ないでくれ」と言われたのを覚えている。

「……見ていいの?」

 彼女が頷き、僕は最初のページをめくった。


『あるところに小さな女の子がいました。しょうがくせいになったばかりの、うちきな少女です。

 女の子のお父さんとお母さんはけんかばかりしていて、かのじょはものおとをたてないよう、となりのへやでひっそりと本ばかりよんでいました。がっこうへいってもともだちはおらず、女の子はいつもひとりぼっち。

 けれども女の子はさびしくはありませんでした。お父さんとお母さんが本当はだれよりもやさしくて、あったかい心をもっていることを知っているからです。

 それから女の子はまいにち神さまにいのりました。お父さんとお母さんが早くなかなおりしますように。かぞくみんながえがおでいられますようにと。

 そうしてなんにちも、なんしゅうかんもすぎて、あしたが女の子のたんじょうびという日がきました。それでもけんかはたえず、かのじょは悲しいきもちをひっしにがまんしていのりつづけました。

「かみさまおねがいです。どうかあしただけでも、みんながなかよくすごせますように」

 つぎの日、がっこうからのかえりみちを、女の子はしずんだきもちであるいていました。

「お父さんとお母さんはきょうもなかよくなれないのかな。わたしのたんじょうびを、ふたりはおぼえているのかな」

 きせつは五月。あたたかいひざしがぽかぽかとてらすのに、女の子のきもちははれません。

「……ただいま」

 かのじょがかえり着くと、いつもはがらんとしたいえの中から、お父さんとお母さんがとてもにこやかなえみで「おたんじょうびおめでとう」とやさしくむかえてくれました。

 女の子はびっくりしてききました。

「お父さん、お母さん、どうして? おしごとは?」

「きょうはミルイのたんじょうびだから、お休みをもらったんだよ」

 そう言ってふたりはかおを見合わせてわらいます。

「さあ、早く手をあらってらっしゃい。ケーキもよういしてあるから」

 女の子は言われるまま手をあらい、いまだに信じられないようなきもちでいまへいくと、そこにはとてもきれいにかざりつけられた大きなケーキがテーブルの上にのっていました。

「うわぁ! すてき!」

 ろうそくに火をともすと、ホイップのうずや赤いイチゴがきらきらとかがやいて、まるでほうせきのようです。お父さんとお母さんがうたうハッピーバースデイのうたとプレゼントにはさまれて、女の子はむねがいっぱいになりました。

「おたんじょうびおめでとう」

 女の子はうれしくてしあわせで、泣きそうなきもちになりました。けれどもそれは、きれいなケーキがあるからでも、すてきなプレゼントのおかげでもありません。女の子が何よりものぞんでいた“みんながえがおでなかよくなること”がかなったからです。

「お父さん、お母さん、ありがとう!」

 それから心の中でかみさまにもありがとうを言って、女の子はこれからもずっとこんなしあわせがつづいたらいいなとおもうのでした』


 最初の物語はそうして終わっていた。どこか尻切れトンボのように思えるのは、“女の子”の気持ちで物語が終わっていて、普通の終わり方――すなわち『女の子と両親はずっと仲良く幸せに暮らしました。めでたしめでたし』という風な終わり方――をしてないせいだろう。それは彼女の言うように物語を書く技術が未熟だったせいなのか、それとも――。

「さっきも言ったけれど、私の両親はずっと不仲でね」

 霧絵ミルイがクマのぬいぐるみを弄びながら寂しそうに呟く。

「私が“物語”を書き始めたのは、寂しさをまぎらわすための現実逃避という理由以上に、父さんと母さんに仲良くなってもらいたいという想いからだったんだ。

 そしてその願いは叶った。私が書いた“物語”が、私の誕生日にほとんどそのままのかたちで実現したんだ。驚いたよ。子供の私でも自分の書いているものがフィクションであって、ただの幻想に過ぎないことは痛いくらいに分かっていたからね。

 それなのに“物語”は現実になり、両親は嘘みたいに仲良くなって私に優しくしてくれた。きれいなケーキもプレゼントもみんな現実になって、本当に幸せな一日だった」

 この子をもらったのもそのときさと、彼女はぬいぐるみの手をとって“こんにちは”のポーズをさせる。

「……それでもやっぱり少し経つとまた喧嘩が始まっていたよ。だから私は物語を書き続けたんだ。私が家族が仲良くなる物語を書けば、現実となって両親は仲良くしてくれる。そこにどういう原理が働いているのかはさっぱり分からなかったけれど、それは確かなことだった。そうして私は自分の“チカラ”に気付いたんだ」

 僕は再びノートに目を戻した。そこには家族でピクニックに出掛ける話や、家族で過ごす何気ない日常を描いた話、食卓をかこむなごやかな家族の話など、そのほとんどが『家族が仲良く笑顔で幸せに暮らす』というテーマだった。

 そしてその結末のいずれもが、幸せがこれからもずっと続くというような終わり方ではなく、どちらかといえば“一日の最後”という日記のような終わり方だった。

「お前が言ってた願いっていうのは……」

「そうさ。“両親が仲直りして家族みんながずっと仲良く暮らすこと”

 たったこれだけの願いがどうしても現実にならなかった。なったとしても物語のチカラが働いているわずかな間だけで、長くは続かなかった」

 霧絵ミルイはそこでいったん言葉を区切ると、「いや」とどこか自嘲的な微笑みを浮かべて首を振った。

「本当はとっくに気付いていたのかも。二人の関係がもう修復不可能なほどに壊れてしまっているということに」

 思ったとおり、霧絵ミルイの“物語”が幸福な結末で終わっていないのは、子供ながらに彼女自身がどこかで分かっていたからなのだ。おそらくは最初の“物語”を書いた時点で。現実は物語のように上手くはいかないと。

 そのことを無意識の内にも感じていながら、それでも彼女は物語を書き続けた。アンビバレントな葛藤を幼い心に抱えたまま、儚い希望を込めて。


 ――キミは! 私が今までどんな想いで物語を創ってきたか、分かって言っているのか!?――


 ――私はこのチカラに頼るしかなかった! たとえ周囲から変に思われようと、これしかなかったんだ! 雲を掴むような話にしか希望を持てない私の気持ちが、キミには分かっているのか!?――


「けれど、その物語さえもが次第に現実にならなくなってきて、両親の仲はどんどん悪くなる一方だった。書いた物語がすべて現実になる訳じゃないことはそのときにはもう分かっていたけれど、だんだん二人の間で会話さえも交わされなくなって、家に帰って来ない日もしょっちゅうだった。

 私は必死になって物語を綴ったけれど、皮肉なことに書けば書くほど物語は現実味を失っていって、それでも私には他に出来ることもなくて。

 ……そしてある日、父さんは家を出ていった。その日から私の名字が“霧絵”になったと母さんから教えられて、私は訳も分からないままずっとひとりで泣き続けていたよ。ようやく「ああ、もう父さんは帰ってこないんだ」と理解したのは、それからしばらく経ってからさ。

 それでも私は物語を書き続けることはやめなかった。いつか父さんが帰ってきてくれると信じて。私の物語で家族の絆を繋げ直すことを夢見て」

 あの日、父親を求めて路地を走る幼い霧絵ミルイの姿が頭をよぎった。

「その後、お父さんとは――?」

 彼女が首を横に振る。その沈痛な面持ちに、今までの断片的な話の中にあってさえ、彼女がどれほど父親を慕っていたかがうかがえた。それとは対称的に、母親について霧絵ミルイはあまり語ろうとせず、そういえば小鳥遊さんが霧絵ミルイと彼女の母親はあまり関係がよくないと言っていたことを思い出した。

「……お母さんにお父さんと仲直りするよう話してみれば――」

「あの人は! 父さんと仲直りするつもりなんか、これっぽっちもないんだ!

 ……父さんが家を出ていったあと、一年も経たないうちに新しい男の気配を漂わせて……。今日も仕事だなんて言っているけれど、本当のところは分かったものじゃない」

 僕の言葉を遮って、霧絵ミルイは吐き捨てるように答えた。彼女の母親に対する語り口は、父親のそれとは真反対に激しく辛辣で容赦がなく、けれどもその瞳には隠しきれないかなしみが滲み出ていて、鼻で笑った言い方にもどこか虚勢を張っているような脆さがうかがえた。

「……私がどれだけ泣いていても、あの人は優しい言葉ひとつかけてくれなかった。誰もいない家に帰って、私が毎日どれだけ寂しい思いをしてきたか……」

 彼女はそこで一度言葉を区切ると、窓を開けて深呼吸した。いつの間にかしとしとと降り始めていた雨のにおいが、夜の空気と混じり合って部屋に迷い込む。それは湿った古い木のにおいにも似ていて、時計の秒針が刻む孤独な音と絡み合うと、心細いような気持ちにとらわれた。

「……汐莉と出会ったのも、そんなときだったよ」

 急に小鳥遊さんの名前が出て、僕はハッと身構えた。

「私は孤独だった。ひとりぼっちに耐えられなくなって、そばにいてくれる誰かをずっと探して、けれど人間関係が出来上がった教室には私の入り込む余地はなくて。

 ……結局、学校にも私の居場所はなかった。私は誰もいない図書室へ逃げ込んで、外から聞こえる他の生徒たちの楽しげな笑い声から逃げることにしたんだ。――家の内で両親の怒声から逃げるのと同じようにね。

 そうして何もかもを諦めようとしていたとき、建て付けの悪い図書室の扉を、大きな音を立てながら重そうに開けて入って来た子がいたんだ。

 まさに不意打ちをくらったような気分さ。全く何の前触れもなかったし、昼休みに私以外の生徒が図書室を使うなんて考えもしなかったからね。それは相手も同じだったみたいで、しばらくの間、私たちは無言でお互いを見つめ合ったまま動かなかった。

 けれど、私はそのとき思ったんだ。この子も学校に居場所がないんじゃないか、もしそうなら私の友達になってくれるんじゃないかってね。

 とはいえ、私はそれまで自分から他人に話しかけたことがほとんどなかったから、いったい何て言えばいいのかさっぱり分からなかったんだ。〈早く何か言わないと。でもおかしなことを言って、もし変に思われたらどうしよう。この子もやっぱり他の子と一緒で、私のことを相手にしてくれないんじゃないか。いやでも……〉ほんの数秒の間にそんな考えが目まぐるしく回転していって、後にも先にもあんなにあわてて混乱したことはなかったよ」

 霧絵ミルイは微かな苦笑いの中に懐かしさを滲ませて、遠い目を外へ向ける。小鳥遊さんの話だと、霧絵ミルイは最初から余裕の態度で接してきたような印象だったけれど、実際はかなりいっぱいいっぱいで焦っていたようだった。

 いつものようにすました顔で、しかし内心慌てふためいている霧絵ミルイの姿を想像すると、何だかとても微笑ましくて、つい頬が緩んでしまう。

「で、その結果が『ねえ、あなたはこの本読んだことある?』ってセリフか?」

「なっ……! どうしてそれを」

「小鳥遊さんが嬉しそうに教えてくれたよ。お前と出逢ったときのこと」

 霧絵ミルイは恥ずかしそうに頬を桃色に染めながら、それでも「そうか……。汐莉も覚えていてくれたんだ」と、どこかホッとしたような微笑みを浮かべる。

「それから私と汐莉は大の親友になった。どこへ行くにも何をするにも一緒で、いつも私の後をついてきては「ミルイ、ミルイ」って名前を呼ぶ姿が、まるで妹が出来たみたいでね。その様子がとても愛らしくて、大袈裟ではなく私は生まれて初めて他人と一緒にいることが楽しいと思えたんだ。

 図書室で好きな本の感想を語りあったり、お互いの宝物を交換しあったり、ノラネコの世話をしたり、秘密の神社でかくれんぼをしたり……。そうした二人だけの時間を過ごしながら、私の書いた“物語”が現実になるかどうか、私たちはいつもわくわくしながら待っていたものだった。

 どれも他人にとっては取るに足らないちっぽけなことだけれど、私にとってはすべて大切な思い出なんだ」

「……そんなに仲がよかったのに、どうして小鳥遊さんを避けるんだ?」

 霧絵ミルイは浮かべていた微笑をサッと曇らせながら、視線を伏せて黙り込む。

 僕は小鳥遊さんに頼まれていた質問を今になってようやく口にすることが出来たことに申し訳なさを感じていたけれど、切れ長の瞳が長い睫毛に隠され、顔の端を流れてゆく霧絵ミルイの艶やかな黒髪を眺めていると、つい“やはり彼女は笑顔よりも憂いを秘めた表情の方がよく似合っているな……”などと、場にそぐわないことを考えてしまう。

「初めて二人で出掛けたときも、キミは同じようなことを聞いてきたね。覚えているかい? 私があのとき言ったことを」

「ええと……確か、どうして友達が友達であるのか、みたいなことだったと思うけれど」

 ブックカフェでのやりとりを思い出しながら、僕は答えた。

「あのときキミは『お互いがお互いを必要としていればそれで十分だ』と言っていた。本当にそのとおりだと思った。私も純粋にそう思えたら、こんなにも自分のことを嫌いにならずにすんだかもしれないのに」

「お前は小鳥遊さんのことを大切に思っているんだろ? それは相手のことを必要としてるってことにはならないのか?」

「私はキミを必要としているけれど、私たちは友達だと思うかい?」

「それは……」

 どうなんだろう。前にも考えたことはあるけれど、結局結論は出なかった。少なくとも“普通の”友達とは違うような気がする。

「……そのことに気が付いたのは、ほんのささいなことがきっかけだったよ」

 霧絵ミルイが僕の言いたいことを推し量ったように呟く。視線は俯いたまま、思い出を見つめ直しているようでもあった。

「それは私たちが小学六年生のときだった。

 当時、私たちが通っていた学校には、半年に一度学力テストがあってね。今はどうか分からないけれど、当時の汐莉はあまり勉強が出来る方ではなかったから、私が教えてあげることがよくあったんだ。窓から入る白い夏の日射しとセミの声が遠くに響く放課後の図書室。二人きりで姉妹のように過ごす時間は、私にとっても心地いい時間だった。長い夏休みが終わった気だるさも、新学期が始まる憂鬱も、汐莉と一緒なら苦にはならなかった。

 そうして九月のテストが終わった日の放課後、私たちはいつものように図書室で待ち合わせて、一緒に答え合わせをする約束をしていてね。お喋りをしたり、内緒で持ってきたお菓子をつまんだりしながら、私たちは楽しく答え合わせを進めていったよ。

 ところが採点を終えてみると、汐莉の方が私よりもいい点数だったんだ。それまでは私が汐莉に負けることなんて何ひとつなかったというのに。

 そのときの気持ちを何と言えばいいのか……。例えば夢の中で高い場所から足を踏み外して、その瞬間に目が覚める、といった経験がキミにもあるだろう? あの感覚、自分自身の認識と現状とが噛み合わない不快さというか、目が廻るような、「これは違う」といった感じに近いかもしれない。

 そんな私の戸惑いに汐莉はまったく気付く様子もなく、「わあ! 私、ミルイに勝っちゃった!」なんて、実に可愛らしく嬉しそうに頬を赤くするんだ。

 その無邪気な笑顔を目にして、私は何だか無性に腹が立ってね。ただ単に負けて悔しいとかそういうことではなく、自尊心を大きく傷つけられたようなショックが棒立ちの私へ押し寄せてきて、わがままを叱られた子供みたいに、どうしようもなく泣きそうなくらい追い詰められた気持ちになったんだ。

 それでもギリギリで涙を流さずにすんだのは、私の様子がおかしいと気付いた汐莉が心配そうな顔で私を見つめていたからなんだけれど、どうにか冷静さを取り戻した私は、そこでようやくある事実に気が付いたんだ。


 ――ああ、私は汐莉のことをそんな風に見ていたのか――


ってね」

 淀みなく話していた霧絵ミルイの声がそこで途切れた。

 強くなった雨足が屋根や路面を叩き、湿った空気が部屋に迷い込む。

先ほどのにおいとは違い、肌に直接まとわりつくような湿気が気持ち悪い。

 時計の針はもう九時を過ぎている。少しは涼しくなってもいいはずなのに、熱気を含んだ空気は変わらず辺りに滞っていて、喉が干からびたように張り付いた僕は、何度も唾を飲んでようやく声を出すことが出来た。

「それが、お前が小鳥遊さんを避ける理由か?」

「……そうさ。出会ったときからずっと、私は汐莉を見下していたんだ」

 霧絵ミルイがわずかに首を横に振り、自嘲的に呟いた。

 僕は何と言っていいか分からず、彼女が言ったことの意味を否定する言葉を

必死で探して、努めて明るく言った。

「あんまり気にするほどのことでもないんじゃないか? 誰だって他人に対して平等に/対等に振る舞うなんて無理だし、僕だって杉原と半井に接する態度が同じかといわれたら、そうだとは言い切れないし。

 友達を比べることはしたくはないけれど、何となく杉原の方が半井よりも僕とウマが合うんだ。でもそれは差別とか、友達の振りをしているとか、そういうことじゃなくて、単純に相性の問題だ。その相性にしても、何もかも合う訳じゃない。杉原にも半井にも、それぞれに負けたくないことはあるし、ゆずれないものもある。それは別に悪いことじゃないと僕は思うよ」

「そういうもの、かな……」

 俯いていた霧絵ミルイが、少しだけ戸惑ったように僕へ視線を向ける。しかしそれも一瞬のことで、彼女は再び「いや――」と先ほどよりも強く首を振って下を向いてしまう。

「そうじゃない。やっぱり私は汐莉を見下していたんだ」

「そんな――」

「キミの言っていることは分かるさ。私には汐莉以外に友達はいないから、他の友達と比べることは出来ないけれど、でも私が汐莉のことを自分と対等に見ていないことは確かだ。それは負けたくないことがあるとか、ゆずれないものがあるとか、そんな前向きな気持ちじゃない。もっと陰湿で、いやらしい気持ちなんだ。

 ……結局のところ、精神的に不安定になっていた私は、自分を決して裏切らず、何でも私の思い通りになるお人形みたいな子が欲しかっただけなんだ。友達だとか、都合のいい言葉で汐莉だけでなく自分自身まで騙して。……私は最低だ」

 壁に寄り掛かって話していた霧絵ミルイが、力なく横座りになる。居眠りをするときのように、心持ち傾いだ彼女の顔へ長い前髪がまっすぐに流れ落ち、その間から覗く切れ長の瞳が伏せられると、物憂げな流し目が意図なく強烈な魅力を浮き上がらせる。

「――それだけじゃない。私は、私の願いを叶えるために汐莉を利用したんだ。私の“チカラ”が本物なのかどうか。本物なら現実になる/ならないの条件はいったい何なのか。どの範囲まで影響を及ぼすことが出来るのか。……それらを確かめるために。

 ――そう。ちょうど今のキミと同じさ」

 彼女が憂えた瞳を僕に向けて、すぐにそらす。

「そんな自分の醜さに気が付いて、私は何とか汐莉を“対等な友人”として接しようとしたけれど、結局出来なかった。あの子に名前を呼ばれるたび、あの子が私の後ろをついて来るたび、どうしても見下してしまう自分に気付かされるんだ。

 ……ひどい人間だろう? たったひとりの親友をそんな目で見続けていたなんて」

「だから、小鳥遊さんと友達であることをやめたのか」


 ――そしてあるとき言われたんです『汐莉のことは、もう友達としてみれない』って――


 相談を持ちかけられたときの小鳥遊さんの言葉が、不意に僕の頭を巡った。

 あの言葉は二人の関係を決定的に終わらせるものであったにもかかわらず、他のどんな言葉よりも正直で、何よりも小鳥遊さんに対する誠意に満ちた言葉だったのだ。例えその結果、親友を傷つけてしまうことになったとしても、たったひとりの友人を失うことになったとしても、霧絵ミルイは自身の心に正面から向き合い、だからこそ小鳥遊さんに対して不誠実に接する自分自身を許せなかったのだ。

「……そのこと、小鳥遊さんには――」

「言える訳ないじゃないか」

 僕の問いを先回りして霧絵ミルイはそう答えると、俯きながら独り言のように呟く。

「昨日、汐莉に会ったよ。小さな身体と臆病な心を精いっぱい奮わせて、彼女は最後に会ったときと同じ言葉、同じ台詞で私に聞いてきたんだ。“どうして私と友達でいられなくなったの。私の何がいけなかったの”ってね。

 ……私は何も答えられなかった。だってそうじゃないか。本当のことを言えば汐莉は傷付くし、それに――」

 次第に声高に、早口となって感情を漏れさせていた彼女は、そこで再びしおれた花のように声音を落とした。

「……私も怖かったんだ。汐莉が、汐莉の心が本当に離れていってしまうことが。

 ……ずいぶん自分勝手だろう? 自分から突き放しておいて」

「そう思うのなら、小鳥遊さんと一度話し合ってみるべきだよ。彼女だってきっと赦してくれると思う」

「例え汐莉が赦してくれたとしても、私が私自身を赦せない。

 だから私は、中学へ上がったら、自分ひとりで“チカラ”を証明するって決めて、実行したんだ。そのせいで周りからは変人扱いされてしまったけれど、話したところでどうせ誰にも理解してもらえないだろうから、あえて何も言わなかったんだ。

 それから今まで私はひとりで“物語”を試し続けてきた。自分の“チカラ”と運命を信じて、偶然が手繰り寄せる奇跡を求めてきたけれど、結局一度として物語が現実になったと確信出来たことはなかった。……あの日、夕闇が迫る屋上で、キミと出逢うまでは」

 霧絵ミルイの瞳が再び僕に向けられ、しかし今度はそらされることなく、意味ありげな深い視線で僕を捉える。

「キミは気付いていなかったみたいだけれど、あのとき私は半ば本気で死んでもいいと思いながら飛び降りたんだよ」

「本気でって……、それは穏やかじゃないな」

「もちろん最初から死ぬつもりだった訳じゃないさ。ただね……、何ていうか、これで上手くいかなかったなら、もう終わりにしてもいいかなって。そう思ったんだよ」


 ――キミは私の運命の人。キミと一緒なら、死ぬという運命さえ変えてしまうことが出来るはずさ――


 その寂しそうな彼女の微笑が、まるで磨りガラス越しの日の光のようにぼんやりとした朧気な輪郭をまとっているように思えて、その儚い姿に、僕は「もしかしたら彼女は“本当に”現実の世界と物語の世界の狭間に立っているのではないだろうか」というような得体のしれない不安にとらわれた。

「霧絵……、終わりにしてもいいなんて言うなよ。お前は、何でもかんでもひとりで抱え込みすぎなんだよ。両親のことも、小鳥遊さんのことも、……そしてお前自身のことも――」

「キミは私のことを何も分かってない」

「えっ――」

 僕の言葉を遮って、霧絵ミルイが突然胸ぐらに掴みかかってきた。

「父さんと母さんの仲が悪くなったのだって、私がもっと“物語”を上手く書けていれば離婚なんてことにはならなかった! 無邪気に私を慕ってくれた汐莉にはその気持ちを利用して見下した挙げ句、捨てるように一方的に絶交した! そして……、私はそんな自分の汚さを嫌というほど自覚していながら、なおも自分のためにキミを利用した……。

 キミはどうして怒らないんだ! 訳の分からないことに巻き込んで、そのせいで怪我まで負わせてしまって……。私がどれだけ最低な人間なのかキミだって本当は気付いているんだろう!?

 それなのにどうして私に優しくするんだ! 私はっ! 私なんかに……」

 僕の襟元を力なく握ったまま、彼女は声を震わせる。俯いた顔からは音もなく雫が落ち、小さな肩が小刻みに揺れていた。

 そして同時に理解した。彼女が僕のことを“運命の人”と呼び、色々と振り回しておきながら、どうしてあんなにも僕と離れようとしていたのか。何故いつも僕に謝り、自分を責めていたのか、その本当の気持ちを。

 僕は思わずにはいられなかった。霧絵ミルイは本当はとても真面目で、人一倍責任感が強く、そして自分よりもまず他人のことを思いやることの出来る優しい娘なのではないだろうかと。

「……最低なんかじゃないよ」

 僕は彼女の両手をそっと解いた。

「お前はただ不器用なだけだ」

 彼女がハッとして顔を上げる。瞳の中に小さな光をいくつも反射させた雫が、流れ星のように彼女の頬を伝い落ちた。

「私は……どうすればいい?」

「直接伝えてみろよ。お前の想いを、気持ちを。今度は物語じゃなく、言葉にのせて。それでうまくいく保証はないけれど、きっとそうすることでしか前に進むことは出来ないと思うんだ。

 だから霧絵、そうやって自分を責めるのはやめろ。このままじゃお前が――、お前がいつか消えていなくなってしまいそうで……」

 そこまで言って、自分が霧絵ミルイの手を握ったままなことに気が付いた。

慌てて彼女から手を離すと、彼女もほんの少し耳を赤く染めながら、居心地悪そうに目をそらす。

 中途半端な静けさの中、扇風機の“ぶいーん”という間の抜けた音だけが、空気を読まない風といっしょに部屋の中を歩き回る。微妙な雰囲気が漂い、霧絵ミルイの長い後ろ髪が巻き上げられて、ばさっと顔に降りかかると、さっきまでとても深刻な話をしていたはずなのに、何だか急に可笑しくなってきて、僕たちはどちらからともなく、とうとう堪えきれずに笑いだしてしまった。

「……分かったよ。キミの言うとおり、母さんと一度話してみる。汐莉とも……まだ彼女が私のことを嫌ってなければ」

 髪を直しながら目元をぬぐう彼女は、まだかなしみの紅い跡を顔に残してはいるものの、さっぱりとした晴れやかな表情で、どこかふっ切れたようにも思えた。

「うん。それがいいよ」

 ほっとしたような気分で頷くと、まるでタイミングを図ったように僕の携帯電話がかしましく音を鳴り立てた。画面を見るとどうやら母親からのようで、そういえばもう時計の針は九時半を指している。

「悪い。そろそろ帰るわ。遅くまで邪魔したな」

「ううん。こっちこそ引き留めてしまって」

 霧絵ミルイはまだ何か言いたそうにしていたけれど、曖昧な笑みを浮かべて立ち上がった。僕も彼女の部屋を出て、冷たい廊下を渡り、玄関の扉に手をかける。

「あっ……! あの!」

 携帯を持って外へ出ようとする僕を、霧絵ミルイはやや語気を強めて引き止めた。

「外は、まだ雨が降ってるから、これ、使って」

 彼女にしてはとても珍しく、たどたどしい言葉で僕に傘を渡してくる。そうしていつもの少し悪戯っぽい、けれど少し照れくさそうな笑顔を浮かべながら言った。

「今日は……ありがとう」

 にやけた顔を悟られないように、僕はわざとそっけなく答える。

「ああ、また学校でな」

 そうして彼女に向けて小さく手を上げ、外に出てから携帯の通話ボタンを押した。

「もしもし母さん? ごめん、帰りが遅くなって。今――」


 ――直接伝えてみろよ。お前の想いを。気持ちを。言葉にのせて。きっとそうすることでしか前に進めないと思うんだ――


 自分の言った言葉がどれだけ欺瞞的であるか、このときの僕はまだ、気付いてさえいなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る