第19話
世界が鼓動をひとつ鳴らし、公園の木々や花々から色彩が失われてゆく。
元の色を失った風景に、深い藍を混ぜた黄昏が、あたかも水に絵具を解かしたときのように渦を巻きながら侵食していって、世界を陰鬱に塗り替える。
「これは……まさか」
霧絵ミルイの“物語”が現実に入り込んできたのだとすぐに分かった。僕はとっさに彼女を窺ったが、少し様子がおかしい。
「おい、霧絵。どうした?」
彼女は目を大きく見開いて、小刻みに周囲を見回してばかりいる。まるで寒さに耐えるときのように自分の身体を強く抱いて、荒い呼吸を繰り返す。その瞳には、はっきりとした恐怖が浮かんでいた。
「霧絵! いったいどんな“物語”を創ったんだ!?」
肩を揺すっても彼女は答えず、怯えた様子で辺りに潜む何かの気配を必死で手繰ろうとしているようだった。空の低い場所に掛かりながら宵の口を待ちわびていたお月様が「来るぞ来るぞ……」と、薄気味悪く哄笑している。
「私から離れて!」
突然彼女が叫んだ。土手の道を黒い風が吹き通った。さっきまでジョギングをしていた人がいつの間にかいなくなっている。
「どんな“物語”を創ったんだ!」
暗い空から物語の断片が降り注いでくる。あたかも崩壊したビルディングから破片が落ちてくるように、お月様が奇妙な韻で謳うそれらの言葉は、大きかったり小さかったり、あるいは早回しで語られたり遅回しで語られたりして、まるで要領を得ない。唯一聞き取れたのは『オウマガドキノシシャ』という言葉のみ。
「説明している暇はない! 早く私から――」
鉄が軋むような嫌な音が大きく響いて、彼女の言葉をかき消した。
太陽が完全に墜ち、世界が闇に包まれる。
風は止んでいて、車が走る音も、川の水面がゆらめく音も、蝉の声さえもがひっそりと死んでいる。明かりといえばベンチ脇の街灯が照らすぼんやりとした灯火のみで、まだ深夜には早い時間であるにもかかわらず、すぐそばにあったはずの家の明かりやネオンサインも全てかき消えて、僕たちが立っている場所から一歩踏み出すと、異様なほどの濃密な闇が辺りを覆っていた。
僕たちは隠れるように息を殺した。
そのまま微動だにせず、物音ひとつ立てないようにしながら全神経を闇に集中させて、何かの気配を探る。
「……黄昏の、影の中から、ひっそりと、闇へ
視線を闇に据えたまま、霧絵ミルイがぽつりと呟いた。無感情に詞を謳うように。
「その詞……」
彼女がかすかに頷く。やはりお月様が謳っていた物語の断片で間違いないらしい。
霧絵ミルイは黙ったまま続きを語らない。それでもその不吉な詞が、彼女がどんな物語を創ったのかを象徴しているようで、嫌な予感が拭えなかった。
「霧絵、教えてくれないか」
僕は三度彼女に問いかけた。深い闇が僕たちに乗しかかって、言葉を重くする。異質な空気に包まれながらも、じんわりとした不快な暑さは変わらず、霧絵ミルイのこめかみから汗がゆっくりと流れ落ちる。
呼吸をするたびに肩を震わせながら、わずかな沈黙を振り払うように、彼女はかすれかかった声で答えた。
「……夕闇の影の中から“逢魔刻の使者”が現れて少女を――私を襲う、っていう物語さ」
「なっ……!」
霧絵ミルイはそこで初めて振り向いた。
「安心して。“彼”が襲うのは私だけのはずだから。キミは大丈夫」
霧絵ミルイは弱々しく、けれども僕を――そして自分自身を――勇気付けようと、精一杯の笑顔を向けてくる。
「僕のことなんかよりも自分の心配をしろ! どうしてそんな物語を創ったんだ! 分かってるのか!? このままだと――」
「分かってるよ」
僕の言葉を遮って、彼女はもう一度さっきよりも上手に微笑もうとした。
「だからこそ結末までは書かなかったんだ。襲われるだけなら、対処すればなんとかなるだろうしね」
「なんとかなるって……」
「それに、これではっきりしたよ。私のチカラはまだ失われていない。……これで全てうまくいく。何もかも元通りに……」
後半の言葉は僕ではなく、自分自身に言い聞かせるような、小さな呟きだった。
「これで全てうまくいく? 何もかも元通り? 霧絵、お前の目的は――」
何なんだと言いかけて、僕は一瞬で全身に鳥肌が立った。霧絵ミルイの背後、街灯の明かりが照らす頼りない光の円の外側、曖昧な境界から一歩踏み出した闇の中に、誰かが立っていたのだ。
僕は凍り付いたように動けなかった。相手は肩口と足元がわずかに照らされているだけで、いつからそこに立っていたのか、まるで気が付かなかった。
霧絵ミルイはまだ僕の方を向いていて、後ろの存在に気付いていないようだった。僕は彼女に伝えようとするのだけれど、喉の奥がひきつって上手く声が出せない。
相手の肩がわずかに揺れ動き、下げられていた腕が持ち上がる。手に持った何かが街灯の光を反射して、一瞬晒されたそれは――。
「危ない!」
反射的に霧絵ミルイの腕を掴んで引っ張った。二の腕に鋭い痛みが走り、小さく悲鳴を上げる彼女と地面に横倒しになってしまう。血の滲んだ腕越しに顔を上げると、一瞬前まで僕たちがいた場所に“彼”が街灯を背に黒いシルエットとなって立ち塞がっていた。
「近寄るな!」
倒れた姿勢のまま、腕で霧絵ミルイをかばうようにしながら僕は叫んだ。
“彼”は答えず、逆光を浴びて黒い影となった姿は、その顔さえよく判別できない。それでもその手には、僕の腕を傷付けたであろう鋭く尖った何かが握られていることが、身体の輪郭を表す曲線とは不似合いな鋭角のラインとなって表れていた。
「くっ――!」
一歩ずつ“彼”が迫って来る。焦らすようにゆっくりと。
僕の腕を通して、必死にしがみつく霧絵ミルイの震えが伝わってくる。腕の傷よりも、彼女が助けを求めていることの方が何倍も痛かった。
僕は何か武器になるようなものがないかと素早く首を巡らした。と、そこで霧絵ミルイに渡した缶コーヒーが封を閉じられたまま転がっているのを見つけて、咄嗟に手を伸ばす。
「近寄るなって言ってんだろ!」
中身の詰まった缶コーヒーを“彼”に投げつける。
「霧絵! 行くぞ!」
相手が僅かに怯んだ隙に、僕は霧絵ミルイの手を引いて駆け出した。
明かりの切れた暗い路地裏を走る。手のひらに感じるぬくもりはとても弱々しく、振り返ると彼女は消えてしまっているのではないかというイメージが強く付きまとって、僕は握る力を強めた。
「どこへ、向かってるの?」
霧絵ミルイが荒い呼吸の切れ間に問いかけてくる。
「とにかく人のいるところへ!」
答えながら頭を巡らせ、「駅前だ」と少し遅れて付け足す。
入り組んだ路地は、不馴れな道ということもあって何度も迷いそうになった。大まかな駅への方角を頼りに、行き当たりばったりになりながらも、僕は霧絵ミルイの手を引いて駆け回った。急がなければ“彼”に追い付かれるかもしれない。早く。早く――。
「あっ――」
突然、小さな悲鳴とともに彼女の手が離れた。
「霧絵! 大丈夫か?」
「大丈夫……ちょっと転んだだけだから」
彼女は地面に手をついて、倒れた身体を起こそうとする。しかし立ち上がる直前その顔が歪み、またもふらふらと倒れそうになる。
「もしかして、足をくじいたのか?」
彼女の身体を支えながら足元に目をやると、霧絵ミルイはいかにも走りにくそうなパンプスを履いていて、“彼”から逃げることに夢中になるあまり、彼女を気遣う余裕をなくしてしまっていたことに、僕は今さらながら自分のうかつさを恥じた。
「ちょっと痛むけど心配いらない。歩けるさ」
さあ急ごうと二、三歩踏み出したところで、彼女はまたもよろめく。暗く静かな通りに、僕たちへ迫る駆け足の音が徐々に大きく響いてくる。
「その足じゃ走るのは無理だ。とりあえずしばらくの間どこかへ隠れよう」
僕は霧絵ミルイに肩を貸して、出来るだけ早足で――しかし彼女に負担をかけさせないように気を付けながら――近くにあった農機具小屋へ身を隠した。
そこは塗炭を組み合わせただけの、台風が来たら吹き飛んでしまいそうな掘っ立て小屋で、扉はなく、外の畑と地続きの中にはシートを被されたトラクターと、古びた鍬や鋤が無造作に転がっていた。
錆びた壁に背を預け、そのまま腰を下ろして一息つく。座り込んだ僕たちを土と機械油のにおいが包み込んで、のどの奥が詰まりそうだった。
「足はどんな具合?」
携帯の明かりをライトの代わりにして、霧絵ミルイの足首を照らす。よくは見えないけれど、少し腫れているのかもしれない。
「これくらいすぐ治るよ。私よりもむしろキミの腕の傷の方が心配だ」
「僕の傷は大した傷じゃない。血も止まってるし、それほど深くもない。それよりもお前の足の方が心配だ。もし筋が痛んでいたら――」
「大げさだよ。それを言うならキミの方こそ傷口からばい菌が入るかもしれないじゃないか」
「ばい菌って……」
霧絵ミルイの言った“ばい菌”という言葉の響きが何となく子供っぽく聞こえて、僕は今の状況を忘れてつい笑みがこぼれそうになった。
怪訝な顔付きで僕を見る彼女に「何でもない」と返して、僕は真面目に霧絵ミルイへ向き直った。
「霧絵、どうしてあんな無茶な“物語”を書いたんだ」
霧絵ミルイは親に叱られた子供のように縮こまると、周囲の虫の声にまぎれてしまうほど小さな声で「仕方なかったんだ」と申し訳なさそうに呟いた。
「これ以上私の都合でキミに迷惑はかけられない。かといって、私ひとりじゃ“物語”が現実になったのかどうか判断に迷うこともある。だったら現実になったとき、一目で分かるような物語を創るしかない。それには多少危険であっても、自分の生命が脅かされるような物語が一番分かりやすい」
そうは思わないかい? と、彼女の瞳は未だ恐怖に揺れながらもしっかりとした芯の強さを表している。
彼女のことだから、きっとそういったことを言うだろうと薄々は思っていたけれど、本当に生命の危険が迫っているこのときにまで言ってのける霧絵ミルイに対して、僕は言葉を失っていた。ここまでくると狂気と紙一重だ。
「お前、気は確かか?」
「確かなものなんて何もない。曖昧だからこそ、私の“物語”は現実と重なり合うことが出来るんだ」
僕が二の句を継げないでいると、夜の小路からわずかな沈黙を破る速い足音が響いてきた。
僕は霧絵ミルイに向かって“静かに”と人差し指を唇の前で立てて、薄い塗炭越しに耳をすませた。足音は徐々に大きくなり、小屋沿いの道で一度止まると、まっすぐ歩いてこちらへ向かってくる。
僕は霧絵ミルイにもっと奥へ行くよう身振りで示し、彼女の後からトラクターの影へ隠れた。同時に土を踏む足音がいっそう大きく聞こえて、直後に止まる。
風の音さえもしない静寂の中、僕の心音だけがはっきりと聞こえる。入り口付近で立ち止まったまま“彼”は動く気配がない。様子を窺おうと体勢をゆっくりと変えたとき、僕はポケットの中が妙に軽いことに気が付いて、ハッとした。
「しまった……!」
「どうしたの?」
霧絵ミルイが不安そうに小声で尋ねてくる。
「携帯がない。たぶん、さっきまで座っていたところに落としたんだ」
雑然と置かれた農機具の隙間から壁際の方を窺う。真っ暗で見えないが、あの辺りにあることは確かだ。もし“彼”に見つけられたら――。
そこまで考えたとき“彼”の気配が動いた。湿った土を踏みしめながら、辺りを見回している。携帯に気付かれただろうか? 分からない。背中を張り付けたトラクターからは機械油の古いにおいが漂ってくる。足音がまた動き、トラクターのすぐ手前で立ち止まる。僕は霧絵ミルイを促して、音を立てないように慎重に“彼”とは反対側へ移動した。ニューッとつき出した“彼”の首が、一瞬前まで僕たちがいた場所を覗き込む。息が苦しい。過呼吸に陥っている。汗が全身に流れ、シャツやズボンに張り付いて凍えるほど冷たい。その中で手だけが妙に暖かいと思ったら、霧絵ミルイが僕の手を震えながら掴んでいた。僕は彼女の手を握り返す。しっかりと。力強く。
どのくらいそうしていただろうか。いつの間にか“彼”の気配は消えていた。たった数分のことのようにも、一時間以上経ったことのようにも思える。
霧絵ミルイはぐったりと座り込んだまま動かない。“彼”に魂を持っていかれる彼女の姿が頭をよぎって、僕は鳥肌が立った。
「おい……! 霧絵!?」
二、三度彼女の肩を揺らしてみるも、反応はない。
「霧絵! おい、しっかりしろ!」
さっきよりも強めに揺さぶると、霧絵ミルイは僅かに吐息をもらし、長い睫毛を瞬かせながら、うっすらと瞳を覗かせた。
「え……? あ……、私……?」
まだはっきりとは覚醒していないらしく、彼女は寝起きのような、ぼんやりとしたまなざしで僕を見つめてくる。
僕は幾分ほっとして、もう一度辺りを見回した。やはり“彼”の姿はなく、虫の声も、街灯の明かりも、遠くを走るトラックの音も、世界に戻っていた。
「立てるか?」
霧絵ミルイに手を差し出すと、彼女は「ありがとう」と僕の手を掴んで、よろめきながらも立ち上がった。不安そうな、心細い視線で周囲を素早く見回す。
「“彼”なら、もういないみたいだよ」
「そう……。良かった」
それでも霧絵ミルイはまだ安心しきれないのか、あまりほっとした様子はない。
「足の具合はどう?」
「もう問題ないよ。痛みはほとんど引いたし、思ったよりも腫れてはいないみたいだし」
彼女の表情に強がっているような気配はない。どうやら本当に大したことはないとみて、僕は安心した。
「それじゃ、帰ろうか。送っていくよ」
「うん。ありがとう」
小屋から出る前に一旦足を止め、僕は落ちていた携帯電話を拾った。こいつが“彼”に見付からなかったのは不幸中の幸いだった。もし見付かっていたら、今ごろ僕たちは“彼”に捕まっていただろう。その後どうなるかは、考えただけで恐ろしい。
僕たちは一度路地を抜けて、駅へ続く大通りへ戻った。ぼんやりとしたやさしい街灯の明かりが等間隔に並び、先ほどまでの不穏な闇の気配は引いて、穏やかでむし暑い、いつもの夏の夜がまっすぐに伸びていた。
土手に沿った道を霧絵ミルイと二人で歩く。昼間のセミに代わって、斜面の草むらから雨蛙がケコココと雨乞いをしている。
僕は拾った携帯を手で弄びながら、それにしても――と思った。僕たちを襲った“彼”は、霧絵ミルイの創造した物語の登場人物なのだろうか、それとも彼女の物語が現実と微妙に織り重なっているように、あるいは実在する人間なのだろうか。
「なあ、一応警察に連絡しておこうか」
「えっ――」
霧絵ミルイの足が止まる。思わず追い越してしまうかたちになって、僕は振り向いて立ち止まった。
「相手が誰であるにせよ……いや、誰だか分からないからこそ、次にまたいつ襲ってくるとも限らない。ここは一度警察に通報して――」
「それはやめて」
僕の言葉を遮って、小さく、しかしはっきりと彼女は言った。
どういう意図なのか測りかねて、つい彼女の顔をまじまじと見てしまうけれど、俯いた顔にどんな表情を浮かべているのかは、街灯の逆光に当てられてよく見えない。
「だって、通報するにしてもいったいどう言うつもりだい? まさか『作り話の中の怪人に本当に襲われました』とでも? 頭のおかしい奴とみなされて病院に送られるのがオチさ」
「それはそう、かもしれないけれど……」
そう言われると確かにどう説明すればいいのか、整理しようとしただけで頭がこんがらがって訳が分からなくなる。
「大分暗くなってきたし、急ごう」
そう言って彼女は再び歩き出す。
僕は釈然としない思いを抱えながらも、話の継ぎ穂を失ってしまって、仕方なく彼女の後ろから黙ってついていった。
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