第18話




 弟の姿を見送ってからどのくらい時間がたっただろう。きっとひとりで泣いているであろう真人がいる家に帰る気にはなれず、僕はあてもなく歩き続け、気付けば空は濃い燈色に染まっていた。

 ――家が貧しいってことがそんなに悪いことなのかよ!?――

  急ぎ足の人波や道路を走る車がいくつもすれ違い、煙と夕暮れ刻のにおいが混じり合う中、弟の叫びが残響となって何度も僕の心を揺さぶりかける。

 僕は弟にかけるべき言葉をいまだに見付けられずにいた。誰かに相談したいと思ったけれど、誰に相談すべきなのか分からなかった。母親には言えないし、杉原や半井は近過ぎてかえって言いづらい。小鳥遊さんとはまだそういった話が出来るほど打ち解けていないし――。

 そこでふと見知った顔が頭に浮かんで、僕は反射的に空を見上げた。まばらに散った灰色の雲が危うげに夕陽を照り返し、遠くに見える山々の稜線沿いに、蒼空の上澄みが夕空の底へ薄く溜まっていて、伸びた影を淡く滲ませていた。

「そういえば霧絵ミルイと初めて逢った屋上の空もこんな色をしていたな……」

 駅前のロータリーは仕事帰りのサラリーマンや部活が終わった学生たちで溢れかえり、そういえば彼女と一緒に出掛けた日も、こんな風に改札から出てくる人の波を眺めていたなと思い出す。ほんの少し前のことなのにずいぶん昔のように感じてしまうのは、夕暮れのせいだろうか。

 僕は携帯を取り出して履歴を見直した。あの日彼女からかかってきた番号が、何事もなかったかのようにそのまま残っている。僕はリダイヤルボタンに指を置き、少しの間考えて、小さなため息とともに離した。

 彼女と最後に別れた日から、いったい何度同じことを繰り返しただろう。彼女に連絡を取ってみようと思い立っては、しかし何と言っていいか分からず、結局今になってもメールひとつ送れていない。もしも何も返事が来なかったら、もう彼女とはそれっきりになるだろうという確信めいたものがあって、ボタンの上で親指をさ迷わせるだけになっていた。

 頼りない足取りで、駅や商店街へ向かう人波を逆にたどる。時刻は六時半を回り、夏の長い陽も徐々に陰り始めていた。少しだけ涼しくなった風が夕暮れから夕闇へと移ろいゆく刻のにおいを運び、それらの喧騒と感慨にもまれながら、すれ違う人たちの中につい彼女の姿を探してしまう。

 大きく深呼吸して空を見上げると、燈と紺の混じった薄紫の中に、街灯の灯りに負けぬようにと小さな星が瞬きながらその存在を主張していて、きれいだなと思って眺めていたら、ふいに胸の奥に滞っていたもやもやした思いやわだかまりが消え失せて、後には澄みきったたったひとつのシンプルな想いだけが、僕の心を強く占めていた。


「――霧絵、僕は君に逢いたい――」


 そう口にした瞬間、まるでタイミングを図ったかのように――あるいは彼女流に言うなら物語の中の奇跡のように――向かってくる人波の中にいたひとりの少女が、僕の目の前で足を止めた。

 嘘――。

 彼女の声は行き交う車や雑踏の騒音に書き消されて僕までは届かなかったけれど、その小さな口唇の動きははっきりと見てとれた。街灯の灯りに照らされて、長い黒髪はベルベットのように艶やかにきらめき、彫りの深い顔立ちはよりいっそう陰影を際立たせながら、うっすらと紅を浮かべている。目は驚きに大きく開かれ、それでもその美しさは少しも崩れていなかった。

 人が、車が、風が、音が、光が流されてゆく狭間に立って、二人だけが世界から取り残されたような瞬間。


 霧絵ミルイ。


「……久しぶりだね」

 彼女の言葉は、最後に会ったときと同じ言葉だった。

「……ああ」

 僕の言葉は、声にした瞬間響いて消えた。

 世界の輪郭が曖昧になる夕闇の中で、僕たちはお互いを確かめるように見つめ合っていた。




「コーヒーでいいか?」

「ありがとう」

 ベンチに座った霧絵ミルイに自販機から取り出した缶コーヒーを手渡して、僕も隣に座る。

 僕たちが今いるのは、道から少しはずれた所にある寂れた公園だった。辺りにはほとんど人気がなく、時おり土手をランニングや犬の散歩をしている人が遠巻きに通るだけで、僕たちの周りには、夏の夕暮れの寂しい気配が漂っていた。

「あのさ」「あのね」

 話しかけるタイミングが重なる。

 同じベンチに腰掛けながら、僕たちの距離はあいまいに近く、けれども手を伸ばさなければ届かないほどに離れていた。

「……この間は黙って帰っちゃって、ごめんね」

 彼女が小さく言った。その声はどこかよそよそしく、視線は地面に注がれている。

「いや……」

 そこから言葉が続かない。あれだけ霧絵ミルイに逢いたいと思っていたくせに、本人を目の前にした途端、何を話していいか分からなくなって、僕は気の利いた言葉ひとつ返せずにいた。コーヒーだけが、沈黙を埋めるようにどんどん減ってゆく。

「何だかずいぶん長い間会っていなかったような気がするよ。最後に会ったのは、ほんの数日前なのにね」

 さっきまで僕が考えていたことと同じことを彼女も思っていたと知って、僕は余計に言葉を失ってしまった。

「私に会えなくて寂しかったかい?」

 そうした僕の戸惑いを敏感に感じ取ったらしく、霧絵ミルイは少し得意そうに上半身を寄せてくる。上目遣いに見つめられて思わず首を反対側へ巡らすけれど、自分でも分かるくらい顔が熱くなって、どんなにそっけない答えを返しても滑稽になるばかりだった。

 強く握ったコーヒーの缶が、ペコッと情けない音を立てる。

「そういうお前はどうなんだよ」

「私?」

「僕はお前の“運命の人”なんだろ?」

 僕の皮肉な返しにも、霧絵ミルイは「そうだったね」と小さな微笑を浮かべて余裕の態度を崩さない。このやりとりが何だか懐かしくて、僕は安堵している自分に気が付いた。

 霧絵ミルイはベンチから離れると、こちらに背を向けて立ち止まった。通り過ぎる風が、ほのかに甘いクチナシの香りを運んでくる。

「ねえ、本当のところ、キミはどう思う? キミと私の関係を」

 彼女が何を視ているのか、僕には分からない。遠く真っ直ぐ、僕には視ることの出来ない世界を視ているのかもしれない。

「……正直、よく分からない。お前はどうしてぼくのことを“運命の人”だなんて呼んだんだ?」

「あれは前にも言ったとおり、ただの口からでまかせに過ぎないよ」

 霧絵ミルイが出会ったときから僕に言い続けていた“運命の人”という言葉は、僕を惹き付けておくための台詞で、それ以上の意味はないと以前彼女は言っていた。“物語を現実にしてしまう”という自身の能力を僕で試すために、体のいい実験体として利用したのだと。

 結果だけを見れば、そのもくろみは成功したと言っていいだろう。僕は彼女の魅力にまんまと嵌まり、抜け出せなくなっているのだから。

 しかし、それだけの話なのだろうか。

 ――僕が霧絵ミルイのことを気にしてばかりいるのも、単に彼女に翻弄された結果で。

 ――彼女のチカラも、ただの偶然か何かで。

 ――僕と彼女の関係も、特殊な間柄などなにもない、ただの赤の他人で。

「……それでも“運命の人”っていう言葉に何の意味もないとは、僕には思えない」

 それは単なる希望だ。声に出す前に自分でも分かっていた。

 霧絵ミルイは背を向けたまま首を横に振る。

「意味なんてないよ。言っただろう? 口からでまかせだって。どうしてそう思うんだい?」

 僕は以前考えたことを思い出しながら言った。

「お前は自分の能力が本物かどうか、僕で試すために“運命の人”なんて言葉で僕を捉えていたって、前に言ってたよな?」

 彼女は何も答えない。かまわず僕は続けた。

「確かにお前の思惑通り、僕は戸惑いながらもお前の言う『チカラ』の実験に付き合ってきた。

 けどさ、さっきの話じゃないけど、僕とお前の関係って何なのかなって思うんだ。普通の友達ではないし、かといってただの他人とも違う。まして恋人同士でもない。

 そこで頭に引っ掛かったのが“運命の人”っていう言葉さ。僕を逃がさないようにするのが目的なら、もっとストレートな言葉が他にあったはずだ。……恥ずかしいから敢えて具体的には言わないけれど、何て言うか“運命の人”なんて言葉は、いの一番に来るような表現じゃない。だからこそ、お前が言った“運命の人”っていう言葉には何か別の意味が含まれているような気がしてならないんだ」

 霧絵ミルイの肩が少しだけ揺れる。微笑ったのかもしれないけれど、そこにどういう感情が含まれているのかは曖昧なまま分からない。

「面白い推理だね、探偵さん。私は自分の都合でキミを利用したんだよ? もっと怒ってもいいはずなのに」

「別に怒るほどのことじゃない。最初は戸惑ったり腹が立ったりしたこともあったけれど。それに、正直に言うと実は小鳥遊さんから頼まれていたんだ。お前が彼女のことを嫌いになった理由を聞いてもらえないか、ってね」

 彼女は小鳥遊さんの名前を出した途端、身体を硬直させて俯いた。両手をぎゅっと握り、肩をいからせながら。

「だから……なの? 私に付き合ってくれたのは、汐莉とのことを聞くために……」

「それは違う! あ、いや、違わないけど僕は……!」

 そこから何と言葉を続けていいか分からなくなる。目的地は見えているのに辿り着く道に迷っているような、もどかしい気持ちだけが焦る心に拍車をかける。

「いいんだ。私には人から優しくされる資格なんてない」

 彼女が首を横に振り、どこか罪人の懺悔のような口調で静かに告げる。

「だって私は汐莉のことを……、私のことを大切に思ってくれた、たったひとりの親友のことをずっと裏切っていたんだから」

「裏切って……いた?」

 彼女は口を閉ざしたまま、その先を話すことに躊躇しているようだった。

 二人の間に何があったのかは分からないけれど、霧絵ミルイも小鳥遊さんも、お互いのことを今も昔も変わらず親友と思っているはずなのに、それだけではだめなのだろうか。どうしてすれ違ってしまったままなのだろうか。

〈……いや、人のことは言えない、か〉

 たとえお互いを思いやる気持ちが重なりあっていても、知らないうちにズレが生じて傷になることはある。僕自身も、弟のことを大切に思っているにもかかわらず、ある意味では弟の気持ちを裏切り続けていたように。

 気だるい暑さが僕たちの間を漂う。二人の間にある見えないグラスへお互い沈黙を注ぎあう中、蝉の声だけが、背景しかない絵のように変わらず響いている。

「……今日、弟とケンカしてさ」

 静けさがいっぱいになって、僕は口を開いた。

 霧絵ミルイはかわらぬ姿勢のまま、しかし僕の声は届いている。

「弟が同級生を殴って警察沙汰になりかけたんだ。その殴られた子とおまわりに僕が平謝りして何とかおさまったけど、弟は知らん顔で、殴った理由さえ話そうとしなくて。だから僕は弟に詰め寄って言ったんだ。“いいかげんにしろ!”って。そしたら――」

「……そしたら?」

「弟が殴った奴は、弟のことをいじめてる奴だったんだ。弟はそいつに“もっと話していこうぜ。おごってやるから”って言われて、それで頭にきたらしい。うちは母子家庭で、正直経済的に苦しい生活をしてるから、弟にしてみれば施しを受けるみたいに感じたみたいで。

 ……弟は言ったよ。“僕はなにもしていないのに、どうしていじめられないといけないんだ。貧しいってことがそんなに悪いことなのか”って」

「それで、キミは何て言ったの?」

「……何も答えられなかった。弟がいじめられていることは前から知っていたから、僕がしっかりと弟を守ってやらないといけないって、いつも思っていたのに。

 ……結局、肝心なところで僕は弟のことを何も分かっていなかった。情けない話だよな」

 今こうしている間も、真人は家でひとり泣いているのだろうか。それを考えると胸が痛くなって、今この場にいることにさえ罪悪感が沸いてくる。それでも、いや、だからこそ彼女に伝えなくてはならないことがある。

「僕は思ったんだ。たとえお互い分かり合えていると思っていても、話さないと分からないこともあるんだって。どれだけ仲が良くても、どれだけ信頼しあっていても、それだけじゃ分かち合えない秘められた思いは、言葉にしないと通じないんだ。

 だから霧絵、お前と小鳥遊さんの間に何があったのか、僕には分からない。ただ――」

 僕は霧絵ミルイに一歩近寄った。そして彼女に僕の気持ちをどう言えばいいのかを少しだけ考えて、結局思ったことをありのまま伝えることにした。

「……僕は、お前のことを知りたい。お前が何を思っているのか、何のためにそこまで必死に『チカラ』を確かめようとするのか、お前の“望み”って何なのか。そして――、出来ることならお前の力になりたい」

「私は――っ!」

 プルキニエの濃い紫の空の下、稜線に沈んだ太陽の最後の日の名残が、振り返った彼女の姿と重なる。目の縁に微かに溜めた光の粒を潤ませ、輝かせながら、今にも崩れて消えてしまいそうな霧絵ミルイが何か伝えようと口を開きかけたその瞬間――。

 それは起こった。




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