第17話
家に着いたとき、すでに日は暮れかかっていた。
学校を出た後、僕はあてもなくあちこちを歩き回った。しかし気持ちは晴れることもなく、ただ消化不良の想いと、家に帰らなくてはならないという義務感だけを抱えて、僕は低い屋根の自宅を見るともなく眺める。
「……ただいま」
入り口の戸を開けると、薄暗い部屋で寝そべりながらマンガを読んでいた弟が「おかえり」と迎えた。手首の先まで覆う長袖に下は短パンという、他の人からみれば少し奇妙にも思える格好で、だらしなく扇風機に足をのせたまま、弟はマンガから視線を離さない。
「壊れるから足のせるな」
そばを通りがけに注意するも、半分目を閉じて眠そうにしている弟は「んー」と鼻返事で、まるで聞いていない。
僕はため息をついて冷蔵庫から取り出した麦茶を喉に流し込んだ。夕方の蒸し暑さと火照った頭に心地よい冷たさが巡り、ほっとひと息つく。しかしそれも一瞬のことで、染み付いた料理のにおいや、退屈なテレビ番組の声、服や生活雑貨で散らかった部屋を見回すと、またもうんざりした気分になってくる。
「くそ、この蚊のやろう」
弟はマンガを片手に「かいー」と言いながら、自分の足を叩いて蚊と戦っている。電気代の節約のためにクーラーは日中しかつけておらず、穴の開いた網戸から入ってくる蚊と戦いながら涼しさを求めるか、暑くなるのを覚悟してでも窓を閉めきって大量の蚊の侵入を防ぐか、この時間帯はいつも選択を迫られる。
「電気くらいつけろ。薄暗いからよけいに寄ってくるんだ」
僕は電灯のひもをひっぱりながら「ちょっとどけろ」と弟の背中を軽く小突く。ごろごろと寝返りを繰り返して空いたスペースに、僕はいつも使っている小さな折り畳み式の座卓を開いた。そうして学校の鞄から――とっくに提出期限は過ぎているけれど――まだ終えていないテスト課題を取り出して広げる。テレビからは夕方のご当地報道番組がだらだらと流れ、蚊は数を増やし、部屋はごちゃごちゃ。夕暮れのにおい。黄色っぽい明かり。
僕は今日何度目になるか分からないため息をついて、力なくシャーペンを持ち、問題集をめくった。しかし何度設問を読んでも頭のなかに入ってくるのは文字ばかりで、うまく集中することが出来ない。
……何だかイライラする。僕を取り巻くあらゆるものが、僕を戸惑わせ、混乱させ、むやみに焦燥感を募らせる。それは抽象的な、漠然とした、不確かであやふやな「何か」に対する憤りであり、まるで空気の中で溺れているかのようだった。
――僕は一体、何を掴もうとしているのだろうか。
そんな僕の焦りなどおかまいなしに、弟は足をパタパタさせながら、変わらずへらへらした顔つきでマンガを読んでいて、その無神経さに僕は少し腹が立ってきた。
「……今日も学校へは行かなかったのか?」
ページをめくろうとしていた弟の手が一瞬止まる。テレビから流れるコマーシャルの声と音楽が、せまい居間に寂しく響く。
小学生のころから、弟は同級生たちにいじめられていた。
僕たちが通っていた小学校は基本的に私服登校で、毎日同じ服を着て来る弟の姿を、同じクラスの一人が目ざとく気付いたらしい。
そこから貧困家庭であるということを指摘され、からかいの対象にされるまでそう時間はかからなかった。
中学に上がってから何とか新しくやり直そうと弟も頑張ったみたいだけれど、その努力のことごとくをいじめている連中に笑いの種にされて、今ではほとんど不登校になってしまったのだった。
「……どうしてそんなこと言うの」
弟の低い呟きに、僕はハッとした。言われてみればなぜ今そのことを話題に出したのか自分でもよく分からない。弟も決して理由なく学校をサボっている訳ではないのに。
「兄ちゃんに僕の気持ちなんて分からないよ」
その一言は僕を黙らせるに十分だった。弟と同じ条件であるにもかかわらず、僕の周りにいたのは気のいい連中ばかりで、幸いにもいじめられることもなかったけれど、僕がそれなりに学校生活を楽しんでいた中、弟がそんなひどい目にあっているとは思いもしなかったのだった。あの日、弟が泣きながら帰ってくるのを見るまでは。
「兄ちゃんには、分からないよ」
弟は早口で再び呟くと、足音を大きく鳴らしながら外へ出ていった。「真人!」と叫んだ僕の声は勢いよく閉じられた玄関の音にかき消されて、あとにはねばっこい息苦しさを含んだ静寂だけが残った。
弟が家から飛び出したあと、僕は居間に仰向けに寝転がって薄暗い天井の隅をぼんやりと眺めていた。
部屋の中は相変わらず服や生活雑貨でごちゃごちゃしていたけれど、それらを片付ける気力など持てるはずもなく、時間だけがただ無気力に過ぎていった。
弟との気まずい空気は、ただの言い争いで終わらせるには後味が悪く、かといってこれ以上大げさな話にしたくもない。そんな生殺し状態の発端を作ったのが自分自身だということも、余計に気分の悪さに拍車をかけていた。
「ずっとひきこもったままだと人と会話が出来なくなるから」
そう言って弟が外に出始めるようになったのは、一ヶ月ほど前からだった。特に何かきっかけがあった訳ではなく、外に出て何をしているのかを聞いても、「散歩をしながらすれ違った人にあいさつしてきた」とか「店の店員に商品の場所を聞いてきた」とか、本当にささやかな、他の人から見れば他愛もないことではあったけれど、それでもこのままではいけないと弟が自分で考え、自らを変えるために行動に移して来たことは、素直に褒めていいと思う。少しずつではあるけれど、弟は弟なりに前へ進むための努力をしていたのだ。
にもかかわらず、僕はまるで真人が何も考えず、ただ一日を遊んで過ごしているかのように思えて、何だか無性に腹が立って仕方なかった。僕が霧絵ミルイとの関係や、杉原や半井と自分を比較して悩んだり苦しんだりしているときに、こいつは呑気にだらだらとお気楽にしていたのかと思うと、少しは人の気も知れよという気になって許せなかったのだ。弟がいじめられていたとき、僕自身がまったく同じことをしていたにもかかわらず。真人の考えや気持ちに思い至ることもなく。
けれどその怒りは、本当に弟に向けられたものだったのだろうか。何か他のもの、あるいは他の誰かに――。
そこまで考えたとき、突然家の電話がけたたましく鳴り響いた。静かな部屋には耳障りなほどに大きいその音に、僕は何故か不安な気持ちを掻き立てられながら受話器を取った。
「もしもし、草壁です。はい。……はい。いえ、今は仕事に出ていていませんが。あの、弟に何かあったんでしょうか。……えっ? 真人が?」
家を飛び出してから全速力で走り、まだ息も整わぬまま入ったのは、家から十分ほどの距離にあるコンビニだった。
アルバイトらしき店員に通された奥の部屋には、真人、真人と同じ歳くらいと思われる少年、店長らしき中年の男性、それに制服を着た警察官の姿があった。
「真人……」
部屋の中心には物置台にされた長机が二つ重ねて置かれていて、それに付随するパイプ椅子に弟は座らされていた。座っているのは弟だけで、他の三人は立ったまま詰(なじ)るようなまなざしを弟へ向けている。
「あの、僕は真人の兄なのですが、弟は何を……?」
困惑した僕の視線を受けて、店長がやや戸惑い気味に口を開いた。
「私がカウンターに立っていたら、彼がこちらのお客さんと二言、三言会話をしたあとでいきなり喧嘩を始めたんだ」
店長の視線を追うと、頬を赤く腫らした少年が憮然とした態度で弟を睨んでいた。
「そうなのか。真人」
弟は俯いたまま何も答えない。
「真人。答えるんだ」
「さっきからずっとその調子でね。こちらも困ってるんだよ」
ため息混じりに口を挟んだのは、いかにも面倒くさいといった態度を隠そうともしない中年の巡査だった。
「この少年を殴ったことは一応認めているみたいなんだが、どうして殴ったのかを聞くと途端にだんまりでね。ウンともスンとも言わないんだ」
僕はとにかく「すみませんでした」とひとりずつ全員に頭を下げ、今一度出来るだけ優しく弟に問いかけた。
「真人……、どうして彼を殴ったんだ。何か理由があるんだろう? 話してくれないか」
やはり弟は何も言わず、俯いた顔をわずかに背けた。しかしその拍子に影になっていた顔の部分が少しだけ明かりに照らされ、少年と同じように赤く腫れ上がった頬が露になった。
「まあ、このまま黙っているつもりなら、署の方で話を聞くことになるけどね。親御さんや学校にも連絡を入れて――」
「ちょ、ちょっと待って下さい。母や学校にも連絡を入れるって、たかだかケンカじゃないですか。そんな大げさな……」
「そうは言ってもねえ。こちらも呼ばれた以上は調書ってもんを書かなきゃいけないんだよ。何も答える気がないんなら、家庭や学校での弟さんの生活態度や言動、振る舞いなんかを参考にしながら、少しずつ問い質してゆくしかないじゃない。そうなるとずっとここにいる訳にもいかんでしょ?」
巡査は眼鏡の奥からいやらしそうな上目使いで僕を見ると、弟に「それでもいいんだね?」と念を押すように問い詰めた。
けれども真人は何も答えず、無言で立ち上がって巡査と共に外へ出ようとする。
「ま、待って下さい!」
僕は慌てて扉の前で二人を止めた。
「お願いです! それだけは勘弁してやって下さい。弟には僕から言って聞かせておきますので、どうかお願いします!」
弟が今何を考えているかは正直分からない。それでも、ただでさえ不登校であるというのに、暴力を振るったことが学校側に知られたら、卒業後の進路に深刻な影響を与えることは分かりきっている。そうでなくても噂が同級生たちに広まれば、真人はよけいに学校へ行きづらくなって、ますます孤立してしまうに違いない。
問題はそれだけじゃない。母のことだ。
元々母は体力的にも精神的にも強い人ではない。むしろ僕たちのために、何とか弱さをひた隠しながら頑張っているだけで、本質的には弱く、繊細で優しい人なのだ。
それなのに自分の息子が他人に暴力を振るったなどと知ったら、倒れたり入院するとまではいかなくとも、その心にとても大きく深い傷を負うことは間違いない。弟がいじめを受けていると知ったときがまさにそうであったように。
「あの、本当にすみませんでした。弟は僕が厳しく叱っておきますので、どうか警察沙汰だけは勘弁してやって下さい」
僕は今一度少年に向き直って深々と頭を下げた。
「いや……、おれもそこまで
僕が思いのほか下手に出たと感じたのか、さっきまでふてくされていた少年は、急に視線を泳がせて戸惑いながら答えた。
頭を下げたまま、その視線の先を目だけで追うと、巡査がさらに横目で店長を窺っていた。
「うちとしては何か盗られたり壊されたりした訳でもないので、当人同士がいいのなら、私からは何も言うことはありませんが……」
自分に発言を促されていると感じたらしい店長が少し慌てた口調で答えると、巡査はさもわざとらしく偉そうにため息をつく。
「まあ、そういうことなら、厳重注意に留めておくけどね、今度似たようなことがあったらこうはいかないからね」
僕は頭を下げていたので巡査の表情までは窺えなかったけれど、その顔にはきっと“やれやれ。これで面倒な仕事をしなくて済む。たかが子供同士のケンカにいちいち時間をとられてたまるか”と書いてあったに違いない。
コンビニの自動ドアの前で改めて三人に頭を下げ、巡査と少年が帰ってゆく姿を見送ってから、僕は弟を連れて帰路についた。
帰り道を歩く間、弟は終始黙ったままで、前を歩く僕が時おり振り返ってついてきているかどうか確認しなくてはならないほど静かだった。
「母さんには黙ってろよ。何か聞かれたら“兄ちゃんとケンカしただけだ”って、そう答えるんだ」
いいな? と念を押しても、弟に変化はない。傾き始めた陽を背中に受けて、長く伸びた自分の影をじっと見つめるように俯いている。
そうした弟の態度に僕は段々腹が立ってきて、立ち止まって弟に詰め寄った。
「お前いいかげんにしろよ。誰のために謝ったと思ってるんだ」
真人は頑なに口を閉ざしたままやはり何も答えない。
「何とか言ったらどうなんだ。イヤミなおまわりや年下のガキに頭を下げてまで許しを乞うたのはのは誰のためだと思ってる。みんなお前のためじゃないか。それなのにお前は謝るどころか、何があったのか話そうともしない。おまけにこっちが言ったことには無視ときた。ふざけんのもたいがいにしろ!」
一度口を開いたら、相手を攻撃する言葉は澱みなく溢れてきた。さっきまで弟に対する自分の態度を反省していた分、失望もより大きかった。
「自分がどれだけバカなことをしたか分かってるのか? いろんな人に迷惑をかけて。また母さんを泣かせる気か? あの時だって――」
「……たんだ」
ほとんど聞き取れないくらい小さな声で、弟が何かをぽつりと呟いた。頭に血が上っていた僕でもかろうじて気付くことが出来たのは、それが弟が初めて見せた反応らしい反応だったからだ。
俯いていた真人が顔を上げ、今度は強く、はっきりとした声で言った。
「あいつは僕に、“おごってやる”って、そう言ったんだ」
挑むような弟の眼差しには、予想外の“怒り”が込められていて、しかし言っていることの意味が分からない。
真人は自嘲するように鼻で笑って、続ける。
「あいつは同じクラスで、僕をいじめてるグループのひとりだよ。コンビニで偶然会って言われたんだ。“学校には来れなくてもコンビニには来れるんだな”って。……にやけた笑いを顔に浮かべながら。
僕が逃げようとしたら、あいつは僕の肩を掴んでさらに続けて言ったよ。“まあ待てよ。もっと話していこうぜ。ジュースおごってやるから”って……」
浅く、速い呼吸を乱れるままに、真人が鋭く僕を睨んだ。
「はっ! “おごってやる”だって? 何様のつもりだっての。それで偉くなったつもりか? それとも僕が憐れだから恵んでやろうってことか? ふざけんな! 僕は……! 僕は誰かに施しを受けるほど落ちぶれちゃいない!」
吐き捨てるように叫んだ声は、不意打ちのように僕の心を殴った。
「何で僕がこんな思いをしなくちゃいけないんだよ! 僕が何したっていうんだ!? 僕はただみんなと仲良くしたかっただけじゃないか! それなのにどうしてみんな僕をいじめるんだよ! 家が貧しいってことがそんなに悪いことなのかよ!?」
慌ただしい夕暮れの通りに、弟の慟哭はかき消されてしまう。
目の前の大きい幹線道には自動車やトラックが黒い煙を吐きながら何台も行き来し、スーパーやコンビニの暴力的な明かりが傷付いた心を強引に押し流してゆく。僕たちのすぐ脇を自転車に乗った女子高生の集団が通り過ぎ、それでも彼女たちは自分たちの話に夢中で、弟のことなど気にもとめない。
「くそっ……!」
かすれた声で精いっぱいの悪態を吐いて、真人は僕の視線を避けるように後ろを向いた。背中越しでも分かるほどに、その細い肩は小刻みに震え、両腕が何度も顔へ持っていかれる。
「まさ――」
僕の声が最後まで届かぬうちに真人は走り出し、そのまま振り返ることなく去って行った。
中途半端に上げかけた手を力なく下ろし、僕はただ遠ざかってゆく弟の背中を見つめたまま、あとを追うことも出来なかった。
真人にどんな言葉をかけようとしていたのか、僕には本当のところ、それすら分からなかったのだから。
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