第16話




「はい。やめ!」

 監督をしていた先生の声が教室に響いた直後、テストの終了を告げるチャイムが鳴り渡り、緊張感に満たされていた空気が一気に弛緩した。辺りからは安堵とも諦めともつかないため息が方々から漏れ、騒がしさの中で「後ろから回答用紙を回収しろ」と、再びどら声が響く。

 流れる日々は、人の悩みにまったく頓着することもなく淡々と過ぎてゆく。僕が霧絵ミルイについてあれこれ考えているうちにも、テストは予定通りに始まり、そしてたった今終わった。結果は言うまでもない。

「いやっほぅーっ! 終わった終わったー!」

 クラス中が安堵と不安のざわめきで包まれている中、ひとりだけバカ騒ぎしていた杉原が僕の席に駆け寄ってきた。隣にいる半井は少し引き気味の苦笑を浮かべている。

「お前何でそんなテンション高いんだよ。そんなに自信あるのか?」

「テストが今日で終わりだからさ!」

 僕の問いに杉原は即答で――しかもウザ過ぎるほどにさわやかな笑みを浮かべながら――答えた。

「俺ら高校生の一番の憂鬱である期末テストが終わったんだぜ。気持ち切り替えろよ。もうすぐ待ちに待った夏休みなんだしさ!」

「でも僕ら受験生だよ?」

「ついでに言うとテストで赤点取ったやつは、たっぷり補習が待ち受けているだろうな」

 人のことは言えないけれども。

 半井と僕の冷静なツッコミに、杉原はまるでしぼむ風船のような姿勢で机に寄りかかった。

「何だよお前ら! せっかく俺が色々計画立ててきたっていうのに、ノリが悪過ぎだぜ!?」

「計画って?」

「そりゃ、もちろん遊びの計画に決まってんじゃん。海だろ? プールだろ? 花火だろ? 焼肉だろ? おっと! 夏祭りを忘れちゃいけねえよな!」

「……お前は本当に遊ぶことばっかだな。少しは将来のこととか、進路のこととか、考えたりしないのか?」

 心底呆れてというよりも、むしろ少し心配になるくらいの気持ちで杉原に問いかけたとき、ちょうど担任の先生が「みんなホームルーム始めるぞ。席に戻れよ」と言いながら教室に入ってきた。

 チャイムの音とみんなが席に戻る騒がしさの中で、半井がふと思い付いたように言った。

「ね、テストも終わったことだしさ。久しぶりにゲーセン寄ってかない?」

「お、いいね!」

 杉原が即答し、僕もまあ今日くらいはいいかと考えて同意すると、二人は「じゃ、またあとで」と言って自分の席へ戻って行った。

 ホームルームが始まっても教室はいつもよりざわついていた。杉原にはああ言ったものの、やはりテストが終わったという解放感は嬉しいもので、もうすぐ始まる夏休みに向けての期待も相まって、みんな少し浮わついているように思えた。

 連絡事項をほとんど聞き流すようにしながら、配られたプリントを何度か前から後ろへと送っていく。

「あぁ、それから杉原。話があるからホームルームが終わったらちょっと残っているように」

 先生が話のついでといった感じで言った。

「げえっ! 先生……、俺何かやらかしました?」

「ん? どうした。何をそんなに怖がっている? ははっ。心配するな。お前にとってきっといい知らせになるだろうから。きっとな」

 先生は異様なほどニコニコした笑みを杉原に返すと、ホームルームを続けた。

【やべーよ俺絶対何かやらかしてるよマジどうしよ】

 直後にマナーモードにしていた携帯が震え、杉原からメールが届いた。

 僕は小さくため息をついて【とりあえず落ち着け。半井とゆっくり先に行ってる】と返して、携帯を閉じた。


 ホームルームが終わった後、自転車置き場で半井とだらだら喋っていると、十分も待たずに杉原がやって来た。

「思ったよりも早かったね。もういいの?」

 杉原は答えず、俯いたまま答えない。浮かない顔で心ここにあらずといった感じだ。

「どうした? 先生から留年を言い渡されでもしたか?」

「……そのこと、なんだけどよ……」

 いつもならここで威勢のいいツッコミが入るところなのに、杉原は先ほどと変わらず、背中を丸めたまま絞り出すような小さな声で呟いた。心なしか顔色が青ざめているようにも見える。

「実は……」

 いつにない深刻な様子の杉原に僕と半井も知らず緊張してしまう。まさか本当に留年じゃないだろうなと本気で心配しかけたとき、突然大声で杉原が叫んだ。

「スポーツ推薦枠に入ることが出来ましたっ!!!!!!」

「は?」

「スポーツ推薦枠?」

 予想もしていなかった返答に僕と半井は呆気にとられた。その杉原は先ほどとうってかわって、心底嬉しそうに「おう!」と微笑うと、照れくさそうに続けた。

「俺、頭悪いから、勉強とか真面目にやったことはほとんどないけど、そのかわり陸上にはいつだって真剣に取り組んで来たんだ。だから大学行っても続けたいなって、ずっとそう思っててよ。……まあ、なんつうか、自分の可能性に挑戦? みたいな」

 たはは、と後ろ頭をかきながら、杉原は恥ずかしそうに、それでもしっかりとした声で。

「どうせやるなら専門的なことを教えてくれる環境で本気でやってみてえじゃん? だけど俺の頭じゃ、まず試験に受からないし。だったら陸上で結果残して、一か八かスポーツ推薦で入るしかねえなって。

 で、まあそこからは結構マジに頑張ってさ。もう、がむしゃらに走って走って走りまくってたら、大会とかでもだんだん上位に入賞出来るようになって。これイケるんじゃね? って内心期待してたら、さっき先生から推薦枠が取れたって聞かされてよ。いや~、やっぱなんだかんだ言って頑張るってのは大切だよな」

 あははと、なおも照れ隠しに笑う杉原とは対照的に、僕は友人の突然の意外過ぎる告白に言葉を失っていた。隣にいる半井も驚いた様子で、しかし立ち直りは僕よりも早かった。

「びっくりしたなぁ。普段の言動がアレだから、先のこととか全然考えていないのかと思ってたけど、意外とちゃんと考えてたんだね」

「ふふん。能ある鷹は爪を隠すっていうだろ?」

「それで今まで黙ってたの?」

「いや、それは何て言うかその……何となく恥ずかったから」

「まあね。何せ“自分の可能性に挑戦”だもんね」

「うっせーよ! さすがにオリンピック目指すとか、そこまで大それたことは言わねえけど、どこまで出来るのか俺はもっともっと自分を試してみてえんだよ悪いか!」

「あはははは」

 二人の会話を聞きながら、僕は言い様のない戸惑いを感じていた。単なる驚きだけではない、もやもやとした気持ちが胸の奥で膨らみ続けて、しかしその理由が判然としない。

 南中にさしかかった太陽は照り付ける輝きを増してゆき、暑さが駐輪場の日除けの隙間から入り込んでくる。目の前にある楠の林からは蒼空を覆うほどのセミの合唱が響き、手押ししてゆく自転車のホイールの音がそれに絡まると、今の僕には何故か空々しく聞こえた。

「でも推薦に選ばれたってだけで、合格が決まったって訳じゃないよな。何か妙に浮かれてるけど」

 言った後で僕はすぐに後悔した。例えそれが事実であっても、そんなことは今言わなくても良かったはずだ。しかもまるでケチをつけるような言い方で。

 友人ならまずは「良かったな」と言ってあげるべきなのに、どうしてこんな言葉が口をついて出たのか、自分でも分からなかった。

 それでも杉原は気を悪くすることもなく、幾分落ち着いた様子で言った。

「まあな。ライバルは日本中にいる訳だし、本気でオリンピックとか目指してるやつは高校からして専門的なところへ行ってるんだろうし」

「大丈夫だって。そういうエリートたちをノンエリートの主人公がぶっちぎっていく展開はアニメとかでよくあるし。むしろここからが見せ場だよ! そうしてトップの成績を持つ嫌味なやつからライバル宣言されたり! ああでも、そいつには過去に悲しいトラウマがあって、やがて互いを認めあった二人は熱い友情で結ばれることに……いや、後々のメディアミックスを考えればいっそBL的な仲の方が……」

「おーい。現実に戻ってこーい。それから人の人生を勝手に妄想アニメ化すんなー」

 普段はあまり騒いだりしない半井がやけにはしゃいでいるのは、杉原が推薦枠に選ばれたということが嬉しいのだろう。友人であればそれが当然であるし、僕のように動揺する方がどうかしている。

 ――動揺?

 僕は動揺しているのだろうか? 杉原がスポーツ推薦枠を取ったことに?

「いや、そんなバカな」

 洩れたひとりごとと共に僕は苦笑した。

 そんなことがあるはずがない。仮に僕が杉原と推薦枠を取り合うような間柄であれば、動揺したり焦りを覚えたりしても不思議ではない。しかし僕は運動はからっきしダメで、推薦なんて取れるはずがないことは分かりきっている。

 それ以前に僕は進学する気はないし、例えその気があったとしても、ただでさえ苦しい家の家計にこれ以上経済的な負担はかけられない。奨学金という手も考えたけれど、負担がゼロになる訳ではないし、将来の夢やなりたい職業があって進学するならまだしも、そういったことを強く願ったことのない僕が大学に入ったところで、それこそ経済的な負担がかかるばかりだ。

 だから僕は就職を選んだのだ。動揺したり焦ったりする必要なんかない。

 それなのにどうして、僕は二人を遠くに感じてしまうのだろう。まるで僕だけが取り残されたような、今まで同じ位置で歩いていた二人が僕を置いて急に走り出したような――。

「おーい。何やってんだよ。置いてっちまうぞ」

 その声にハッとして顔を上げると、校門で杉原と半井が僕を待っていた。どうやら考え込んでいたせいで、いつのまにか二人から大分遅れていたらしい。

「悪い。今行く――」

「あっ! 杉原先輩!」

 僕が校門へ向かって走りかけたとき、横から出てきた四、五人の男子生徒たちが、僕より先んじて杉原の元へ駆け寄って行った。

「スポーツ推薦枠取れたそうっスね! おめでとうございます!」

「おおぅ!? 何だお前ら。もう知ってんの? 早いな!」

「さっき部室で先生に会って聞いたんスよ」

 どうやら男子生徒たちは杉原の陸上部の後輩らしく、みんな体操服に着替えているところを見ると、部活に行く途中のようだった。

「先輩って国立のN大志望でしたよね? すごいじゃないっスか!」

「いや、まだ受かるって決まった訳じゃないけどな」

「先輩なら絶対大丈夫っスよ!」

「そうそう! そんで国体とか出て優勝して、俺らの自慢になって下さい!」

「俺たちみんな、先輩のこと応援してますから!」

 後輩たちの熱烈な支持に押されて、杉原もとうとう綻ぶ顔を隠しきれなくなったようだった。

「お前らありがとよ! 合格したらみんなに焼肉おごってやるからな!」

 杉原が高らかにそう宣言すると、盛り上がりは頂点に達した。生徒たちが行き交う校門のど真ん中で何だかよく分からない合唱が始まったり、掛け声の三三七拍子が意味もなく演舞されたり、果てはオリンピックの応援かと思われるような変てこな焼肉ソングを歌い出したりと、溢れるテンションに押し流されるまま、周囲の奇異な視線を気にすることもなく、彼らは大いに騒ぎまくっていた。

「こういうの見せられると、杉原もちゃんと“先輩”やってるんだなって思うよね」

 僕の横に並んだ半井が、杉原たちを見ながら言った。その視線は穏やかで、どこか見守っているようにも見える。

「あいつ、いつもはちゃらんぽらんだけどさ、結構後輩に慕われてるみたいなんだよね。面倒見はいいし、怒鳴ったり威張ったりしないし、それでいてきちんと結果も残してるし。まあ、後輩たちからすればノリのいい兄貴分みたいな存在なのかもしれないね」

 半井の言葉を聞き流しながら、僕は全く別のことを考えていた。

 彼らを見ていると妙に胸がざわざわして、落ち着かなくなってくる。普段の僕であれば杉原たちのバカ騒ぎをもっと冷めた目で見ていたはずなのに、まるで僕だけが落ちぶれているみたいな気持ちになってくるのはどうしてなのだろう。

「……ただの気のせいだ」

「何か言った?」

「いや別に」

 あえて言葉に出したのは、そうすればこのもやもやした気分を多少なりとも吹き飛ばすことが出来るかもしれないと期待してのことだったけれど、ただの強がりに過ぎないことは、かなしいくらい自分でもよく分かった。

 杉原たちは笑い合い、恥ずかしげもなく熱く夢を語り合い、その姿は輝いてみえた。とても眩しかった。僕の胸に重くのしかかってくるようだった。

 だから僕は――。

「半井」

「なに?」

「悪いんだけど、用事思い出してさ。ゲーセンは、また今度」

 ――そう告げて、返事も待たず、杉原たちを振り返ることもなく、僕は逃げるように走り出して校門を後にした。汗がこめかみを伝い、窮屈な襟元に滲み、シャツにへばりつく。脚を上げ、腕を振り、速鐘を打つ鼓動のままに、息が切れるまで全速で走り続けた。

 そうして家々が少なくなり、周囲が強い草いきれのする稲の穂ばかりになったあたりで、僕はようやく立ち止まって息を整えた。

「はあっ……はあっ……はあっ……」

 膝に手をついて頭を上げると、霧絵ミルイと見たあの国道が、きらめく日射しを受けた真っ白な雲と澄んだ蒼空の下、高く真っ直ぐに伸びていた。

「こんなところからでも見えるのか……」

 陽炎に霞む高架道は、あのときと変わることなく悠然と僕を見下ろしている。

 まるで興味がないといった風に、あくまでも無関心で、どこまでも冷徹なその姿を見ていると、何故かしら僕はふつふつと沸き上がる苛立ちを抑えきれなくなっていた。その理由が何処にあるのか、自分でも判然としないまま――。

「くそっ!」

 こぼれた落ちた言葉に答える者はなく、ただセミだけが、夏のわびしさを唄っていた。




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