第15話



 僕はコーラを一口飲んで続けた。

「霧絵ミルイの子供のころって、どんなだったの?」

 小鳥遊さんは頤に指を当てながら「そうですねぇ……」と、視線をやや上へ向ける。

「私は今のミルイを詳しくは知りませんが、人づてに聞く限りでは、今のミルイも子供のときのミルイも、そんなに変わっていないと思います。ただ――」

 小鳥遊さんはそこで言葉を詰まらせると、わずかに言い辛そうに声のトーンを落とした。

「ミルイがおかしな振る舞いをするようになったのは、私たちの関係がぎくしゃくし始めたころと同じ時期です」

 僕はそこで気付いた。霧絵ミルイといえば、おかしな言動や奇行を行うことがもはや当然のように思っていたけれど、考えてみれば、どうしてそんなことをするようになったのか、そもそもの理由や動機があるはずだ。そしてそれらの原因こそが、彼女と小鳥遊さんの間に溝を掘り、同時に僕と霧絵ミルイの奇妙な関係を築く要因になったのではないだろうか。

 ただの勘に過ぎないけれど、それを知ることは、僕と小鳥遊さんにとって霧絵ミルイとの関係性を考える上で重要なことのように思われた。

「そのころ霧絵に何があったの?」

「……分かりません。少なくとも私はミルイのことが変わらず好きだったし、二人の間で喧嘩や仲違いするようなこともなかったと思います」

「そういえば、そのころの霧絵は『これは自分の問題だから』みたいなことを言ってたんだよね」

 僕は以前バスの中で小鳥遊さんに教えてもらった話を思い出した。同時に図書館から出た後の霧絵ミルイとのやりとりを。

「ええ。……結局私には詳しい話をしてくれませんでしたけれど」

 小鳥遊さんは再び伏し目がちになって、わずかに肩を張らせた。

 店内は昼時にもかかわらず、がらんとしていて、有線放送から流れる明るいポップソングが寂しさに拍車をかけていた。視線を窓の外にやると、雨足は勢いを増しながら軒を濡らしていて、降り注ぐ雨粒が無遠慮にざらざらと音を立てる。

 外を眺めながら、自転車で来たのは間違いだったかなとぼんやり考えていたとき、向かいのスーパーから親子と思われる中年の女性と幼い女の子が揃って通りへ出てきた。二人は仲良く連れ立って歩き、傘を差した母親が時おり娘に柔らかく微笑みかけると、娘の方も喜びを身体で表しながら水溜まりを嬉しそうに跳ねる。

 ガラスに遮られているため、当然話の内容までは分からなかったけれど、その光景は実に幸せそうな親子のやりとりで、子供用の鮮やかな黄色い雨ガッパとピンク色のゴム長靴が、通りすぎた後も僕のまぶたに残った。

「……ミルイは、あまりお母さんとの折り合いが良くなかったんです」

 小さく呟く声に視線を戻すと、小鳥遊さんは僕と同じように親子を目で追っていた。

「母親と……?」

 それは、どうなのだろう。確かに僕は霧絵ミルイのプライベートなことは何も知らないし、小鳥遊さんから聞くことが出来れば、彼女のことを幾分なりとも知ることが出来るかもしれない。

 しかしそういった家庭内の問題に対して、他人がどこまで聞いてもいいものなのだろうか。

 僕の躊躇いを最初から分かっていたように、小鳥遊さんは間を置かずに続けた。

「私も詳しくは知らないんですけどね。私が家族の話をしていたときにミルイへ話を振ってみたら、遠回しにそんな風な意味のことを言っていたっていうだけで。

 当然私もそれ以上深くは聞かなかったし、ミルイも家族や家の中の話は全くといっていいほど話さなかったので、本当のところ、私はミルイのプライベートについてほとんど何も知らないんです」

 結局のところ、小鳥遊さんにも霧絵ミルイが何を考えているのかは分からないようで、それは彼女にとって親友と思っていた霧絵ミルイが、心の内に抱えた悩みや苦しみを決して小鳥遊さんには打ち明けず、二人のお互いに対する想いの違いを残酷なまでにはっきりと示すことでもあった。

 これ以上小鳥遊さんに霧絵ミルイのことを聞くのは、それ自体が酷なことなのかもしれない。それでも僕は、どうしてもまだ彼女に確かめなければならないことがある。すなわち。

「……霧絵と、父親の関係はどうだったの?」

「ミルイとお父さんの?」

 僕は頷く。

 あの路地裏で、幼いころの霧絵ミルイは父親を捜していた。それはいったいどういう意味だったのか、彼女の目的、あるいは彼女自身の本質にどんな結びつきがあるのか、答えに繋がるピースのように僕には思えた。

「……ごめんなさい。それも私には分かりません。ミルイは一度もお父さんの話をしたことがなかったので……」

 それきり僕たちは黙り込んでしまった。

 外を眺めると、雨足は幾分弱くなってきたものの、降り続けるのか止みそうなのか見通しの分からない天気なのは変わらないままで、僕は心許ない気分をごまかすようにコーラを飲み干した。注がれてから大分時間がたっているにもかかわらず、苦い炭酸の泡は喉の奥でひっかかり、違和感と不快感を伴いながら胸を流れていった。

 小鳥遊さんはまるで時を止めてしまったかのように微動だにせず、静かに沈んだ視線で外を見つめていた。彼女が注いだアイスティーには、一度も口をつけることもなく。



 その後僕たちは、適当に食事をとりながらテストのことやお互いのことを話し合って、気付けば時計の針は一時過ぎを差していた。

 もっと時間をとって霧絵ミルイのことを色々聞いてみようかとも思ったけれど、テスト期間中ではあるし、何よりこれ以上のことは小鳥遊さんもおそらく知らないのだろうという気がした。

「それじゃ。忙しいときに急に呼び出したりして、悪かったね」

「いえ……」

 会計を終え、店を出てから別れの挨拶をするも、小鳥遊さんはどこか浮かない顔をしたまま、何か考え事をしているようだった。

「どうかしたの?」

 彼女は俯いて、どこか躊躇うように何度もその小さな口唇をわずかに動かしていたが、やがて意を決したように「あの」と僕を見上げた。

「自分から頼んでおいて、こんなこと言うのは気が引けるんですけど……、やっぱりミルイへは私が直接話をしようかと思うんです」

「えっ?」

 突然のことに驚く僕へ、彼女は「いえ、あの」と慌てて付け加える。

「決して草壁君に不満があってとか、そういうことじゃありませんから」

「それはいいんだけど……、でも急だね。どうかしたの?」

「……草壁君にお願いしたときから、気にはしてたんです。草壁君は私とミルイのために色々調べたり動いたりしてくれているのに、私は何もしないままでいいんだろうかって。

 元はといえば、ミルイと顔を会わせづらいっていう私のわがままから来ている訳だし、仮に草壁君に私とミルイの関係を直してもらったとして、私は本当にそれでいいの? やっぱりこういうことは人任せにするんじゃなくて、自分で直接聞かなきゃいけないことなんじゃないの? って。だから……」

 小鳥遊さんは澱むことなく、小さいながらもはっきりとした口調で答えた。心なしか眼にも力が入っているようで、おそらく彼女にとってはとても勇気が必要なことだっただろう。

 それでも小鳥遊さんは一歩前に進むことを決意したのだ。親友と仲直りするために。再びお互いが笑い合える日を信じて。

 僕は羨ましいような、眩しいような気持ちで彼女に微笑みかけた。

「そっか。でも小鳥遊さんがそう思って決めたのなら、多分、それが一番いいんだと思う」

「いえ、私の方こそ草壁君をふりまわすだけで終わっちゃって」

 ごめんなさいと小鳥遊さんは頭を下げる。いやいやと僕も頭を下げ、さっきと同じことを繰り返してるねとお互い苦笑する。

 雨足は来るときと同じくらいになっていて、このくらいなら濡れても大丈夫

なように思われた。

 パーカーのフードを被り、自転車に跨がりながら小鳥遊さんへ片手で挨拶する。彼女も同じように返すと、無地の大きめな傘を開いて、僕とは反対の方向へ歩いて行った。その姿を見送り、雨と湿気と汗でねばりつく身体に風を送るため、僕は強くペダルを踏みだした。


 滲んだ景色が雨粒とともに流れてゆく。太陽の暑さは今は退いて、代わりに蒸し暑さが辺りを覆っている。もわん、とした息苦しさはあたかも丸くなった空気が目に見えるかのようで、通りを歩く人々や建物の輪郭を曖昧にしていた。

 そんな夢見心地なぼんやりとした頭でいたせいか、駅前に差し掛かったときに長い黒髪の女性の後ろ姿を見付けた瞬間、僕は本当に幻を見た気分になって、思わず声を出しかけた。通り過ぎたあとで道を渡るふりをしながら振り返ってみると、その女性は昼休憩に出掛けたOLのようで、霧絵ミルイとは何の関わりもない赤の他人だった。

 ほっとしたのか残念なのか自分でもよく分からない気持ちを抱えながら、それでも僕は今もこうして彼女のことばかり考えている。

 思えばみんながいる教室で堂々と「運命の人」と宣告されてから、彼女には振り回されっぱなしだった。こちらの都合などおかまいなしに強引に自分のペースへと巻き込んでおきながら、未だハッキリとは目的を明らかにしない。それでいて不意に寂しそうな悲しそうな顔をするものだから、こちらも戸惑い、気になって、つい彼女のことをもっと知りたくなってくる。しかしこちらから歩み寄り、近付こうとすると、今度は唐突に突き放し、距離を取られてしまう。運命の人なんていうのは嘘だ、キミとは所詮赤の他人に過ぎない、と。

 自分勝手で気まぐれで、そのくせ繊細な寂しがり屋。まるで猫だ。

 そしてその猫に翻弄され、捉えられずに右往左往している愚か者がこの僕だ。

「運命の人、か……」

 家の間近の交差点で信号を待ちながら、僕は呟いた。アスファルトは黒く染み、雨の日のにおいが空気に漂う。トラックがやる気のない音を立てながら通り過ぎると、後には静けさと侘しさが残って、けれども不思議なくらい心は穏やかだった。

 ふと中庭で霧絵ミルイと話したときのやりとりを思い出す。あのとき彼女は僕のことを「運命の人」と呼んだ。そして今度は「運命の人というのは嘘だ」とまるで真反対のことを言う。

 僕は少し違和感を感じていた。

 僕を逃がさないための口実として“運命の人”という言葉を選んだのは少し遠回しというか、まどろっこしいような気がする。それこそ「好きだからつきあってほしい」とか「キミとずっと一緒にいたい」とか、もっとストレートで強力な表現がいくらでもあるにもかかわらず、どうして直接そう言わなかったのだろうか。今までの霧絵ミルイの言動からして、単に恥ずかしかったからそういった表現を避けたとは考えにくい。

 もしかしたら“運命の人”という言葉の中には、彼女自身も気付いていない無意識から生まれた別の意味が含まれているのではないだろうか。

 それともやはり霧絵ミルイと特別な関係にありたいと願う僕の願望に過ぎないのだろうか――。


 霧絵ミルイの真意がいったい何処にあるのか探し出せないまま、それでも今の僕には戸惑いも憤りも焦りもなく、ただ、彼女が何を考えているのかを知りたいと思った。


 どんな苦悩を抱えているのか。

 ――これは私の問題だから――


 何を求めているのか。

 ――私の望んだことはどうして現実にならないのだろう――


 僕に何が出来るのか。

 ――キミが私の運命の人――


「結局お前は、僕のことをどう思っているんだよ」

 空に向けて吐いたため息は濡れた路面から立ち上るもやに混ざり、何処へ行くあてもなく、すぐにかき消えた。

 気付けばいつのまにか信号は青になっていて、僕は霞掛かった頭を抱えながら、自転車を手押しして行った。



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