第27話



「ほら! 朝だよ! 起きて!」

 まだ眠気が醒めていない頭へ、はしゃぐような誰かの声が響く。ピクニックの日を待ちきれなくて早く起きてしまった子供みたいな声だった。

「ほら早く!」

 肩を揺すられ、薄く開いた目に焦点が戻ってくると、そこには霧絵ミルイの笑顔が間近にあった。

 一瞬パニックに陥りそうになりながら思わず身体を引くと、身体の節々に寝違えた痛みが起き上がってきて、その痛みとともに、僕の意識も徐々に覚醒していった。

「おはよう」

 彼女がやわらかく微笑む。

「……おはよう」

 みっともない姿をさらしていることは何とか自覚しつつも、僕にはまだ取り繕うほどの余裕もないまま、思いきり寝起きの顔とかすれた声で、彼女にそう答えた。

 僕はいまだ醒めやらぬ頭をフル回転させて、現状を把握しようと努めた。

 霧絵ミルイと勢いまかせに飛び出した後、僕たちはとりあえずファミレスで夕食をとり、しばらく時間を潰してから、このネットカフェへ来たのだった。

 まったくの無計画だったので、財布にあまりお金は入っていない。けれども僕ひとりならともかく、霧絵ミルイも連れて野宿という訳にもいかなかったので、とりあえず安くて安心して眠れる場所というと、こういう場所しか思い浮かばなかった。

 高校生だと泊まるのは無理かと思ったけれど、ダメもとで入ってみたらその辺りのチェックはかなり緩く、特に咎められるようなこともなかった。もしかしたらそういう若いカップルを何組も泊めたことがあるのかもしれない。

「これからどうする?」

 二人がけのソファの隣で、女の子座りをした霧絵ミルイが楽しそうに聞いてくる。

 昨日は炎天下の下、何時間も自転車をこぎ続けて二人とも疲れきっていて、シャワー室を使った後もお互いを意識する余裕もなくすぐに眠ってしまったのだけれど、こうしてあらためて近くに座られると、Yシャツから覗く鎖骨とか、スカート下の無防備なふとももとか、髪や首筋から来る甘いにおいといった、彼女の“女の子っぽさ”が嫌でも感じられてめまいがしそうになる。

 そういった下心を彼女に悟られないよう、僕はわざとそっけなく言った。

「やけに嬉しそうだな」

「だって学校をさぼるなんて初めてのことだから、何だかうきうきしちゃって。キミはそう思わないのかい?」

 言われて気が付いた。そうか。僕たちはもう自由なんだ。

 学校にも、家庭にも、将来にも、人間関係にも縛られず、今を好きに生きられるというのは、今までの僕たちには決して持ちえなかったものだ。

 そう考えると、急に晴れやかな気分になってきて、じっとしているのがもったいないような気がしてきた。

「よし。じゃあ、とりあえず出るか」

「うん!」

 満面の笑顔を浮かべた霧絵ミルイを僕は初めて見た。クールでどこか挑発的な普段の姿とは正反対に、今の彼女はとても子供っぽく、幼いように感じられて、そのギャップに僕は綻ぶ顔を隠せなかった。

「早く早く!」

 たたたっ、と霧絵ミルイは小走りに入口へ向かう。彼女の長い黒髪が背中で跳ねて、生き生きとした躍動感か彼女の全身を満たしているのが分かった。

 僕は何となく嬉しくなってきて、浮わつく心をそのままに、彼女の後を追った。


 外へ出ると、スーツ姿のサラリーマンや見慣れない制服姿の学生たちが徐々に現れ始め、行き交う車もしだいに数を増していった。

 その中にまぎれて僕たちを乗せた自転車は自然に進んでゆく。鞄はないし、二人とも変にテンションが高いせいもあって、時おりうろんな目で見られたけれど、何も気にならなかった。むしろみんなが真面目に学校へ向かって歩く中を、さも同じように登校する振りをしながら、霧絵ミルイと二人で堂々とサボっているこの状況は、かえって清々しかった。

「今の私たちって、どんな風に見られてるのかな」

 霧絵ミルイが僕の背中越しに聞いてくる。

「朝から二人乗りで登校するお熱いカップルってところじゃないか」

 少し悪ふざけっぽく答えると、彼女は「きゃーっ」と、恋の話に盛り上がる女の子そのままの黄色い声で、身体を揺らす。

「お、おい! 危ないから! ちょ、マジでやめて!」

「あははははは!」

 緩い下り坂になっている道は何もしなくても速度が上がる。にもかかわらず、彼女はわざと自転車を不安定にさせるように姿勢を動かし、僕は必死にそれを食い止める。

 彼女は心から楽しそうな笑い声で、ハンドルとブレーキに意識を集中していたはずの僕自身も、気付けば同じような気持ちで声を上げて笑っていた。

 それから少したって十時を過ぎた頃、僕たちは小さな公園で休憩を取ることにした。

 自転車を停めて、コンビニで買ったおにぎりやパンや飲み物をカゴから取り出し、手近なベンチへ座る。

「今ごろみんな終業式の真っ最中かなぁ」

 ペットボトルの紅茶を一口飲んで、霧絵ミルイが言った。

「そうか。今日終業式だっけ」

「噂になっているだろうね、私たち。……駆け落ちしているとか思われてたりして」

 いつもの悪戯っぽい微笑みを取り戻して、彼女は僕に近寄る。

「それはおそろしい話だな。杉原や半井、クラスのみんなに何て言われているか、想像するだけでくらくらしてくるよ」

「へえ、言ってくれるじゃないか。でも私を連れ出したのはキミだよ?」

「分かってるよ」

 “くらくらする”っていうのは、何もネガティブな意味合いとは限らないだろう? と、心の中で付け足す。

「それなら良かった」

 彼女がベンチを立って「それで?」というかけ声とともに、くるんと振り返る。

「どこへ連れていってくれるの?」

「どこがいい?」

 霧絵ミルイは腕を組んで「うーん」と考えこんでいたけれど、ふいに閃いたという風にぱっと顔を明るくさせると、自転車のカゴに入れていた彼女のノートを持って、子供のように勢いよく僕の隣に座った。

「一緒に考えよう!」

 物語を? と、のどまで出かけた言葉を、僕はギリギリで飲み込んだ。彼女は彼女の「物語」が書かれたノートを“普通に”使っていたのだ。

 そのことにどんな意味があるのかを考える前に、僕は「いいね」と相づちをうって、彼女と一緒にノートを覗き込む。


 行きたい場所

  ・ゲーセン

  ・カラオケ

  ・遊園地

  ・動物園

  ・水族館


 やりたいこと




 行きたい場所をいくつか書き終えたあと、二人して再び「うーん」と頭をひねってしまう。僕も霧絵ミルイも、“すべきこと”や“しなくてはならないこと”ばかりを考えてきたせいか、いざ自分自身にやりたいことを問いかけてみても、いまひとつピンとこないのだ。

 行きたい場所にも問題があった。

「ゲーセンやカラオケもお金がいるし、この辺りには動物園もないみたいだし」

「補導員もきっといるだろうね」

「水族館は……どうだろう?」

 自分たちが今どこにいるのかよく分かってはいなかったけれど、時おり風に乗って微かな潮の香りが運ばれてくることがあった。

「探せばきっとどこかにあるよ。海が近いみたいだし」

「でもいったいどこにあるやら。下手をすると、知らない町で迷子になりかねない」

「別にいいじゃない。迷子になったって」

 霧絵ミルイはそう言って微笑む。朝の穏やかな陽射しがベンチ脇の木立を通り抜け、木漏れ日と共に爽やかな萌木の香りを運んでくる。

 やさしさに彩られた彼女を見て、僕は面倒な思考を捨てて頷いた。

「それもそうだな」

 元々行くあてなんかない逃避行なのだ。そんなに予定を詰める必要もない。

「よし。それじゃ、善は急げだ。行こう!」

「えぇ!? ちょ、まだ食ってな――」

 彼女が急かし、腕を引っ張るので、僕は仕方なく食べかけのおにぎりを無理やり口に頬張った。

 案の定口の中がいっぱいになって、頬がリスみたいにパンパンになる。そんな僕の顔を見て、霧絵ミルイはおなかを抱えて爆笑している。

「もぐもぐもぐ! もぐもぐもぐもぐ!」

 僕は抗議の声を上げるも、自分でも何を言っているのか分からない。彼女はさらに笑いの度を強める。

「あはははははっ!!」

「もぐもぐもぐもぐもぐ! もぐもぐもぐんぐっっっ……!!」

 僕がおにぎりをのどに詰まらせると、さすがに彼女も慌ててお茶を渡してくれる。……それでも半分は笑っていたけれど。

 何か悔しくなって、僕はすばやくサドルに跨がると、自転車を急発進させた。

「あはは……うわぁっ!?」

 僕の後ろで荷台に腰かけていた霧絵ミルイが、声を裏返しながら危うくひっくり返りそうになる姿を想像して、僕はニヤつく顔を隠せなかった。

「ひどいことするじゃないか」

 背中越しに恨みがましい声で彼女が言う。

「あれ? さあ行こう、って急かしたのは誰だったっけ?」

「ぐぬぬ」

「それより道はこっちでいいのか?」

「さあ? いいんじゃない?」

「適当だな……」

「さっき言っただろう? いいんだよ。適当で。あとはそう……、交差点があったら曲がる感じで」

 僕は苦笑しながら「了解」と答え、ペダルを踏み込んだ。


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