第28話
霧絵ミルイを乗せて知らない町を自転車で巡る。
「次はどっちだ?」
「うーん、さっきは右に曲がったから今度は左へ行こう」
「了解っと」
そんな風にして僕たちは気ままに――そして行き当たりばったりに――ふらふらとさすらいゆく。
さして特徴のない平凡な町で、見えるものといえば、代わり映えのしない家々が立ち並ぶ団地、ありきたりのコンビニ、見分けのつかない道路に半端な緑といった、どこにでもあるような、ありふれた風景ばかりだった。
それでも僕たちにとっては“初めて見る”団地であり“初めて見る”コンビニであり“初めて見る”道路や緑で、それらの景色のひとつひとつがとても新鮮で楽しかった。澄んだ蒼い空の下、後のことは何も考えず、しだいに強くなってゆく夏の陽射しを正面から浴びて、汗をかき、笑い合いながら、このままどこまでも迷い込んでゆけば物語の中へだって行けるような気がした。
「あっ! ネコだ!」
霧絵ミルイが唐突に嬉しそうな声で叫び、荷台から飛び降りた。
「ちょっ、おい!」
僕が止める間もなく、彼女はネコが入り込んだ路地へ向かって駆け出した。
「ほら、キミも早く!」
家々の間に挟まれた小さな道で、彼女が一度振り返って手招きする。僕がためらっている間にも、霧絵ミルイはその細い身体を器用に翻して、ひとりで奥へ奥へと進んでゆく。
鉢植えやガラクタが並ぶ小さな道を、僕は自転車を手押ししながら仕方なく彼女の背中を追った。
細長い空、湿ったにおい。いくつもの隘路を右に曲がり、左に折れ、薄暗い道を彼女と二人で走っていると、不安と期待の混じった気持ちの中に、二人の子供たちを追った、あの小路がふと頭に浮かんでくる。
けれどもそのイメージは、霧絵ミルイの「ああっ、待って!」という声によって、はっきりと像を結ぶ前に崩れてしまった。
しゃがんだ姿勢で「にゃあにゃあ」と呼びかける彼女の先に、その三毛ネコはいた。家と家の間、ごそごそした細い隙間から首だけをこちらに振り向けて、綺麗な金色の瞳で僕たちのことをどう思っているのか。ネコは今にも立ち去りそうな姿勢のまま、しかしその場に踏み留まっている。
「おいで」
霧絵ミルイが手を差し伸べようとした途端、ネコは一瞬のうちに藪の奥へ走って逃げてしまった。
「むぅ……」
「残念だったな」
僕が少し皮肉っぽく声をかけると、彼女はジト目で僕を見つめ返してきた。
「せっかく仲良くなれると思ったのに」
「そんなうらめしそうな目で見られても」
「キミ、ネコに嫌われる体質なのかい?」
「いや、僕のせいなのかよ!?」
「それはそうさ。だって私はネコに好かれるからね」
そう言って彼女はネコのように微笑う。その様があまりにも似合っていたので、僕は二の句を失って苦笑いするしかなかった。
「さあ、そろそろ行こう」
彼女はまだ未練があるようにネコが去った方を見ていたけれど、小さくため息をついて立ち上がった。その流れで霧絵ミルイの後ろにある建物が見るともなく見えて、そこで僕は初めて気が付いた。
「何? どうかした?」
「水族館、見つけたかも」
きょとんと首を傾げる彼女に、僕は顎で後ろを見るように促した。
「こんなところにあったんだ……」
その水族館は路地の間に挟まれるようにひっそりと建っていた。普通の民家ほどの大きさしかない古びた建物で、縁の錆びた看板には、日に焼けて剥げかかったペンキで紅い魚が海を泳ぐ姿が画かれている。
「金魚専門水族館、“蜜のあわれ”」
入口にかけられた案内板――看板と同じく薄くなったペンキで手書きされていた――を、僕の隣で霧絵ミルイが読み上げる。
「入館料、大人三〇〇円、小人一五〇円」
彼女は、どうする? と目で聞いてくる。
ここまで来ておいて素通りするというのも何か違うような気がするし、何より金魚専門の水族館という物珍しさが僕の興味を引いた。
「せっかくだから入ってみるか」
受付で居眠りをしていた初老のおじさんにお金を払って、僕たちは入口をくぐった。
予想した通り中はあまり広くはなく、手狭なスペースに水槽が並んでいる様は、水族館というよりもペットショップのようにも見える。金魚専門というだけあって水槽にいるのはどれも金魚ばかりで、その紅い色ゆえに華やいではいるものの、僕たちの他に客はおらず、館内はがらんとしていた。
それでも室内はきちんと手入れが行き届いていて、手作りらしい木製の飾りや置物、そして何より、吹き抜けになった二階の磨りガラス窓から届くぼんやりとした陽光が、静謐な暖かさを溜めていた。
「なんだかおとぎ話に出てきそうな場所だね」
ゆらめく無数の金魚たちを、霧絵ミルイはうっとりと見つめる。紅白の中にときおり黒を混ぜながら、金魚たちは奔放に、危うげに、浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ。
「リュウキン、ワトウナイ、ランチュウ、オランダシシガシラ……。へえ、金魚っていってもいっぱい種類があるんだな」
順番に水槽を覗き、祭りの金魚掬いでよく見かけるのはいったいどれだろうと考えていると、それらの中でもとりわけ華やかに泳ぐ一匹の金魚に、僕は目を奪われた。
彼女は――金魚は間違いなく女性だ――艶かしく、挑発的に、美しく優雅な尾ひれを踊らせて、すました顔でひとり泳いでいた。
すり鉢に似た、いかにも金魚鉢といった風な水槽にゆらゆらと漂いながら、彼女はまるでお姫さまのような上品さと奔放さで、時にコケティッシュに、あるいはまったくこちらに構うことなく、勝手気ままに振る舞っている。
その様がどこかの誰かに似ている気がして視線だけを隣にやると、霧絵ミルイはどこか切ないような真剣なまなざしで、金魚をじっと見つめていた。
「それはトサキンだよ」
後ろから声をかけられて振り向くと、入口のところにいたおじさん――ここの館長だろうか――が後ろに立っていて、穏やかな微笑を浮かべながら教えてくれた。平日の昼にもかかわらず、制服姿の僕たちを特に訝ることもなく、彼は続ける。
「土佐金、あるいは土佐錦魚ともいうけれど、名前の通り江戸時代に今の高知で創られた金魚さ」
僕たちと視線を近くするために、背の高い頭を心持ち屈みこむようにして、彼は続ける。
「通常、トサキンは上から鑑賞するんだけど、僕はそうしたくなかったから目線の位置に水槽を置いてるんだ」
「それはどうしてですか?」
「確かに上から鑑賞した方が尾びれや背びれをより美しく楽しむことは出来るけれど、でもそうすると“彼女”の顔が見られなくなるからね」
金魚に詳しくない者からすればどれも同じような顔に見えるけれど、館長さんにとっては違うのかもしれない。それぞれの金魚に名前を付けているのかもしれないし、顔を見れば何を考えているのか分かるのかもしれない。
そんなことを館長さんに問うと、彼は「まさか」と苦笑いして首を横に振った。
「そこまでは分からないよ。でも分からないからこそ、彼女たちが何を考え、どんな風に世界を見ているのか知りたいと思って、どの水槽も顔を見られる位置に置いてあるんだ」
「どんな風に世界を見ているのか、か……。僕には、閉じられた水槽よりも広い海を泳ぎたいと望んでいるように思えますが」
言ったあとで、少し皮肉めいた言い方になってしまったと反省したけれど、館長さんは気を悪くすることもなく、小さく苦笑いして、変わらず穏やかな、それでいてほんの少し寂しそうな微笑みで答えた。
「金魚はね、自然界には存在しない、ヒトが創り出した生き物なんだ。だから水槽の外では生きられないんだよ」
「水槽の外では、生きられない……」
その一言は実際の言葉以上の重みを持って僕の心に沈み込んできた。
入口の剥げかかった看板に画かれていた絵が不意に思い起こされて、いたたまれなくなって金魚から視線をそらすと、水槽に映り込んだ霧絵ミルイの顔が目に留まった。
慈しむように金魚を愛でる館長さんとは対照的に、ガラス越しに見える彼女にはどこか憐れむような物憂げな瞳が瞬いていて、金魚を見つめる視線にも、ぼんやりと部屋を照らす陽光と同じ色の霞がかかっていた。
「この子は、ひとりぼっちなんだね」
金魚を見つめたまま、彼女はかなしげに呟く。
「トサキンは弱いからね。他の子たちと一緒の水槽には入れられないんだよ」
目の前を泳ぐ金魚は、短い生命を惜しむこともせず艶やかに舞う。それはトサキンだけではなく、他の水槽にいる全ての金魚にも言えることだった。ハッカ水にも似た、閉じられた幻想の海を、それを海ではないと知らず、また海そのものを知らず、それでも金魚たちはまるで花火のように美しく壊れそうなその身をゆらめかせる。
館内はシンと静まり返り、水槽の水に反射してにじんだ光が、割れかけた氷の幻灯のように辺りを彩っている。
「金魚も、夢を見るのかな……」
水の底を思わせる景色の中で、霧絵ミルイの声が夢現に響く。
「見るよ。きっと」
僕たちと一緒に金魚を見つめながら、館長さんは独り言のように答えた。
「淡く、儚い、シャボン玉のような夢を」
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