第29話
水族館を出たあとも、ふわふわとした夢心地の気分は消えなかった。思い返してみてもどこか輪郭のはっきりしないところがあって、あの水族館であったことはもしかして夢の中の出来事だったんじゃないかと、あいまいな気持ちになってくる。館長さんは「またいつでもおいで」と言ってくれたけれど、再び訪れることはおそらくもう出来ないだろうという気がした。
霧絵ミルイも僕と同じ気持ちのようで、「何だか夢を見ているみたいな場所だったね」という僕の言葉に、小さく「うん……」と頷いたきり彼女は一言も喋らなかった。
僕たちを乗せた自転車は、見知らぬ道を再びあてもなく進んでゆく。
しかしその進みは、今まで感じていた迷うことを楽しむ気楽さよりも、舵を失った船のような不安と心細さに包まれて、ペダルを漕ぐ足も重かった。
浮かび漂う心持ちとは真反対に妙に頭は冴えていて、次に行くべき場所が分からない、目指す目的が見付けられないという現実が、水族館を出たあとから急にのし掛かってきていた。
スピードの落ちた自転車に風はなく、暑さでシャツがへばりつく。それが陽射しによるものではなく湿気によるものだと気付いたのは、どんよりと灰色に曇った空から、雨の滴がぽつぽつと顔に当たり始めてからだった。
「やばっ、降ってきた」
しだいに雨足が強くなってゆく中、僕たちは首をすぼめ、心持ち前屈みになるような姿勢で速度を上げていった。
僕たちが今いるのは、青々とした稲を伸ばした田圃や、古い民家がまばらに建つばかりの場所で、コンビニやファミレスがあればまだ雨をしのげただろうけれど、あいにくこの辺りには全く見当たらず、かといって突然見知らぬ家を訪ねて「雨宿りさせて下さい」という訳にもいかず、僕も霧絵ミルイも全身ずぶ濡れになってゆく。
僕の腰に回された霧絵ミルイの手が強く僕をつかむ。ペダルを漕ぐ足に力を加えながら、どこか適当な場所はないかと素早く辺りを見回すと、一軒の廃屋がぽつんと建っているのを見つけた。
「霧絵、とりあえずあそこへ行こう」
荷台に座る彼女に一声かけて自転車を寄せる。近くに寄ってみると、そこはずいぶん昔の日本家屋で、古びてはいたものの造りはしっかりしていた。
「問題は入れるかどうかなんだよな……」
案の定、玄関の引き戸には鍵がかかっていた。
「こっちから入れないかな」
霧絵ミルイが庭――というより荒れた小さな空き地――に面したガラス戸を指しながら言った。
戸の上を見るとわずかに隙間が開いていて、おそらく立て付けが悪くて閉まりきっていないのだろう。こういう戸は噛み合わせが悪くなって鍵をかけることを諦めている可能性がある。
とはいえ、鍵をかけなくても大丈夫だろうと思わせるくらいには固く閉まっていると思うけれど。
「霧絵、手伝ってくれないか」
彼女と一緒にガラス戸を思いきり何度も引いて、なんとか開けることに成功した。
家の中に入ると、畳の上にはうっすらと埃が積もり、所々カビ臭くはあったけれど、木が腐っていたり雨漏りがしていたりするような大きな損傷は見あたらず、とりあえずほっと一息つくことが出来た。
「二人ともびしょ濡れになっちゃったね」
「シャワーを浴びたいと思っていたから、ちょうどよかったよ」
土間の隅に束ねてあった古い新聞紙を抜き取ってタオル代わりにしながら、お互いに苦笑する。
シャツを脱いで腕や身体を拭きながら、横目でちらと霧絵ミルイを窺うと、彼女はブラウスやスカートの端を掴んで水気を絞っていた。際どいところから覗く白い肌が見え隠れして、扇情的に透けたブラウスがさらにその肌へ張り付く。
何だか見てはいけないものを見てしまった気がして、僕は慌てて視線を外へ逃がした。
雨が軒先を伝って流れてゆく。あんなにも冷たく暴力的だった雨が建物に入った途端その気配を遠ざけて、ノイズ混じりの不愉快な雨音は、今では逆に静けさを運んで来る。針の止まった時計、めくられることのない色褪せたカレンダー、何も映さないブラウン管テレビ、埃の積もった食器棚、綺麗に並べられた文学全集……。
かつての住人と共に生活を歩んできたであろうそれらの品々が、時間を閉じ込めて変わらない瞬間を保ち続けていることに、僕は何だかさびしい思いがした。
「あのネコ……、どうしてるかなぁ」
霧絵ミルイが不意にぽつりと呟いた。
「風邪引いてなければいいけど」
「ネコは隠れ家が多いから大丈夫だよ。きっと今ごろはどこかの家の軒下で毛繕いでもしてるさ」
そうだねと頷いて彼女はふふっと微笑う。
「キミ、意外と優しいんだね」
「ただ事実を言っただけだよ。こう見えてもネコ好きなんだ」
「じゃあ、あの子が幸せになれるように“物語”を一緒に考えよう」
彼女は雨でよれよれになった物語のノートを取り出して僕の隣に座ると、得意気な顔をしてノートに向き合った。
「懐かしいなぁ。昔も汐莉とこんな風にお話を創ったっけ……」
上機嫌な彼女の言葉を聞いて、そういえば小鳥遊さんから大事な頼み事を引き受けていたことを今さらになって思い出した。
ポケットの中に手をいれてそっと確認すると、小鳥遊さんから預かったペンダントはちゃんとそこにあって、なくしたり壊れたりしていなかったことに僕はほっとした。
ここ数日あまりにもバタバタして身の回りが慌ただしかったこともあって、すっかり忘れていたけれど、これは今霧絵ミルイに渡すべきなのだろうか。
小鳥遊さんはこのペンダントのことを“お守り”と言っていた。今、霧絵ミルイに必要なのだと。だから渡してくれと。
しかし――と僕は思う。
お守りというものは、不幸や厄が訪れませんようにと身に付けるものであるけれど、一方で祈りが届きますようにと願をかけるために持つこともある。霧絵ミルイの場合はもちろん後者だ。
そしてそれらの願いは苦悩や葛藤から生じることがほとんどだ。つまりこのペンダント/お守りを渡した瞬間、嫌でも現実の苦悩や葛藤と向き合わざるを得なくなる。それは“夢”の終わりを意味し、“現実”への回帰を意味する。
僕は霧絵ミルイに悟られないよう、ポケットの中に入れたままの手でペンダントをぎゅっと握った。彼女は変わらずニコニコとした顔でノートに向かっていて、その楽しそうな様を見ていると、つい渡すことを躊躇ってしまう。
……楽しそう?
「……霧絵?」
僕が声をかけると彼女は一瞬はっとなって、あははと苦笑いする。
「何だかうまく書けないよ。……駄目だね、私は。いつまでもこんなこと続けてても意味がないっていうのは分かってるのに」
そう言った彼女の声は、しだいに小さく、細くなってゆく。伏し目がちの視線の先にあるノートには、何も書かれていない白紙のままのノートが、濡れてしおれたまま開いている。
「霧絵、お前は自分の“能力”のことを本当はどう思ってるんだ?」
夕暮れの土手で思いもかけず彼女の“能力”の正体――それは霧絵ミルイの両親が彼女の書いた物語を忠実になぞってみせるというものだった。幼かった彼女のかなしいくらいささやかな願いを叶えるために――が分かったとき、そのあまりの唐突さに僕も霧絵ミルイもはっきりとした答えを出せなかったけれど、だからこそ、今彼女がそのことを知った上でどう思っているのか、明確にしておきたいと思った。
「……私が物語を書き始めたのは、不仲だった両親に仲直りしてもらいたいからだった。幼かった私は、願いを物語に託すことで現実から逃げていたんだ。
そんな私の姿を見て反省した両親は、私が物語という形で表した願いを自ら演じてみせた。私は二人の姿を見て“自分には物語を現実にする能力がある”と思い込んだ。けれど――」
「けれど?」
「所詮それは私の思い込みに過ぎなかった。だってそうだろう? 自分の考えた物語が現実になるなんて、そんなことあるわけがない。“普通”に考えれば当たり前のことじゃないか」
バカだよね私。と、彼女は小さく首を横に振り、自嘲的な、乾いた微笑みを浮かべる。
「いやでもお前は言ってたじゃないか。偶然にしては重なることが多いって」
彼女が口にした“普通”という言葉に妙な胸騒ぎを覚えて、僕は内心の焦りを堪えながら言った。
「それも全部思い込みさ。都合のいい事柄を都合のいいように解釈していたに過ぎないよ」
「それじゃ、あの子供たちはどうなんだ。幼いころの自分自身だってお前も認めてたじゃないか」
「キミは幼いころの自分自身の姿を正確に覚えているかい? 他の子供と見分けがつくくらいに? そしてその幼い自分が目の前にいるという、ありえないことを信じられるくらいに?」
「それは……」
「あの子たちはきっとどこかで遊んでいて、親とはぐれてしまったんだよ。迷子になってあちこちさまよっているうちに私たちと逢ったんだ。そう考えるのが“普通”だろう?」
また“普通”という言葉が出てきた。霧絵ミルイにとって一番似合わないその言葉を、彼女自身が何度も口に出すということが何だか取り返しのつかないことを言っているように思えて、僕はいよいよ焦りを抑えられなくなってきた。
「なら、あの異質な夜は!? オウマガドキノシシャは!?」
「夜が暗いのは自然なことさ。私を襲って来たのも通り魔か変質者の類いだろう」
あまりにもあっさりと落ち着いて答える彼女を見て、僕は悟ってしまった。
――ああ、そうか。彼女はもう諦めたんだ。父親に戻ってきて欲しいという願いも、母親に期待することも、自分自身の“チカラ”さえも。
「私には、特別な能力なんて最初からなかったんだ」
まるで春の日の木漏れ日のような微笑みを浮かべながら、彼女は言った。
それは至極当たり前の、人によっては失笑さえ禁じ得ないことを言っているに過ぎなかったけれど、僕にとってそれは、あたかも物語の中の「霧絵ミルイ」という際立って魅力的な登場人物が「霧絵美涙」という特別でも何でもない平凡な少女に成り下がったように思えて、悔しさと、不甲斐なさと、かなしみでいっぱいになった。
「……お前はそれでいいのか? お父さんのこと、あんなに――」
「いいんだ。もう」
彼女は穏やかに首を横に振り、僕たちの間に沈黙が横たわる。輪郭のはっきりしない曇天の陽がぼんやりと辺りを包み込み、辺りに漂う灰色の湿ったにおいと、どこか遠くの方から響く子供たちの笑い声が、よけいにさびしさを募らせるようだった。
その声を追うように、不意に霧絵ミルイが小さく微笑った。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと小さいときのことを思い出したんだ」
幼稚園に入る前のことさと前置きして、彼女は語り始めた。
「何がきっかけだったかはもう忘れたんだけれど、あるとき家族で潮干狩りに行こうって話になったんだ。そのときはまだ父さんと母さんは仲がよかったからね。私は“しおひがり”が何なのかさっぱり分からなかったけれど、三人でおでかけすることが嬉しくてはしゃぎ回っていたんだ。両親もそんな私を見て微笑っていたよ。
ところが浜辺に来て、両親から教わったとおり熊手で砂浜を掘り返してみても、一向に貝が見付からなくてね。大分後になって知ったんだけれど、イベントで潮干狩りを行う場合は、あらかじめ浜辺に貝を埋めておくらしいね。そういった事情は当時の私はもちろん、両親も知らなかったらしく、ばつが悪そうに苦笑いしていたよ。
それでも幼かった私には穴を掘ること自体が楽しくて、そのうち綺麗な石や小さなヤドカリを探すことに夢中になっていってね。しかも幼い私はどういう訳か“ヤドカリ”と発音出来なくて、ずっと“ヤドカニ”って言ってたみたいなんだ」
かわいいだろう? と彼女は少し得意気な笑みを浮かべて、つられて僕も笑う。
「最初は両親も指摘していたんだけれど、そのうちに可笑しそうに笑いだしてね。私も何だか分からないまま嬉しくなって、わざとヤドカニ、ヤドカニ、って何度も言い続けて両親を笑わせていたよ。
……父さんと母さんと私、“物語”ではなく、私たちが心から屈託なく笑い合うことが出来た、私にとってたったひとつの思い出」
彼女は大切な宝物をそっとしまうように、優しく目を閉じる。雨に濡れた彼女の前髪から、雫が一粒流れ落ちた。
僕はポケットの中のペンダントを握りしめながら、彼女にそれを渡すときが来たのだと思った。非現実的な夢想から醒め、現実に還るときが来たと霧絵ミルイ自身が認めた今こそが最適のタイミングなのだと。
にもかかわらず、彼女に声をかけようとすると、まるで暗示にかけられたようにのどが詰まって声を出すことが出来なかった。彼女にペンダントを渡し“その一言”を伝えてしまうと、あたかも全ての魔法が解けて“物語の世界”が粉々に砕け散ってしまうかもしれないと怖れているとでもいうように。
いや、本当は最初から分かっていたのだ。目的も、理由も、動機さえ曖昧なまま勢いまかせに彼女を連れて飛び出したところで、どこにも行き場所なんてないということを。僕も。そして彼女も。
僕はペンダントから手を離し、蜃気楼のように揺れ動く霧絵ミルイを消してしまわぬよう、彼女の手に僕の手を重ねた。
「……ね、このまま本当にどこかへ行っちゃおうか」
雨に煙る滲んだ世界の先、雨雲のさらに向こうの景色を覗くような遠いまなざしを空へ向けて、霧絵ミルイは何でもないことのように言った。
「……それはいい考えだ」
彼女と並んで同じ空を見上げ、遊びに行く場所を決めるときの気軽さで、僕も答える。
「痛みも、かなしみも、苦しみも、怒りも失望も泣きたい気持ちも全部置き去りにして――」
“物語”を話す語り口で、霧絵ミルイは滔々と言葉を紡ぐ。
「誰にも、何にも、どんな夢にも希望にも縛られることなく――」
彼女の声に唱和するように、僕も“物語”を綴る。
「私たちを妨げる障害はすべて消え去り――」
彼女が僕に触れる。薄く開いた瞳が僕を見つめ、肩に乗っていた彼女の長い黒髪が、はらりと落ちる。
「自転車に乗って、どこまでも――」
僕は目を閉じて、彼女と口唇を重ねた。お互いの想いがあふれ出して、それらをひとつも逃がさぬように、僕らは強く抱き合った。濡れたブラウスを通して彼女のぬくもりが伝わってくると、ひとつになりたいという願いがより強く加速していって、彼女のことをもっともっと知りたいと思った。
「ねぇ……、キミのこと、私に教えてくれないか」
抱き合ったまま、彼女が僕の耳元へ囁く。
「私はずっとキミに甘えていた。話すのはいつも自分のことばかりで……。そのくせキミが私に歩み寄ってくれようとすると、途端に怖くなってキミから逃げようとした。
……私はずっと怖れていたんだ。大切な人から裏切られること、大切な人を裏切ってしまうこと、その両方を。でもそれじゃ、いつまでたっても前に進めないって分かった。だから――」
霧絵ミルイは僕の顔を正面から臨んで、ため息のように言った。
「……私、キミのこと、もっと、知りたい」
彼女は恥ずかしそうに頬を朱に染め、雨音にかき消えてしまいそうな声で、僕の手に指を絡める。僕は彼女が僕と同じことを思っていると知って、笑いたいような、泣きたいような、自分でもよく分からない感情の波に襲われながら、むやみに叫びたいほどの気持ちになった。
湿った汗と熱っぽい吐息の狭間で、嬉しくも切ないこの気持ちは言葉にすることが出来ず、僕は彼女の願いに、再びくちづけをすることで答えた。
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