第30話



 早朝の田舎道は、朝もやと静謐さに包まれていた。昨日から降り続いていた雨が嘘のように澄んだ空へ向かって大きく伸びをすると、心地いい清々しさが全身に満ちてゆくのが分かった。

「おまたせ」

 霧絵ミルイの声に、僕は振り返って「もういいのか?」と問う。

「うん。……さっきは、その、いきなりビンタしちゃって、ごめん」

 彼女は気まずさと気恥ずかしさに目をそらせながら、ばつが悪そうにこめかみをかく。

 明け方、早くに目が覚めた僕は隣で眠る霧絵ミルイの寝顔を幸せな気持ちで眺めていた。胸の辺りにかかる彼女の柔らかな吐息をくすぐったく思いながら、彼女の長い髪先を指で弄んでいると、ぼんやりと目を開いた彼女と視線が合った。

「おはよう」

 声をかけた瞬間。絶叫とともに飛んできた手のひらが僕を襲った。

「出てって!」

 じんじんする頬を押さえて、訳も分からず頭の上に“?”マークをいくつも浮かべていると、霧絵ミルイは背を向けて身体を隠し、耳まで真っ赤にしたしかめっ顔で僕を睨みながら「服、着るから!」と続けた。

 いや、この場にいたって恥ずかしがるとか今さらじゃね? とか、服を着るから出てくれって、普通逆じゃね? とか、思うところは色々あったけれど、

とりあえず僕は言われたとおり外へ出て、彼女を待つことにしたのだった。

「別にかまわないよ。レアな表情も見られたしね」

 僕が少し得意気に答えると、霧絵ミルイはますます顔を赤らめながら、猫みたいに目をとがらせて「もう! 知らない!」と先を歩く。どうやらちょっとした意趣返しは成功したようだ。

「待ってよ。一緒に行こう」

 僕は笑いを堪えながら、自転車を手押しして彼女の隣に並んだ。

 霧絵ミルイと二人連れ立って人気のない通りを歩いてゆく。

 少しさびしくはあったけれど、それでも辛気くさい雰囲気はなく、どこか非日常的な光景が心地よく感じられた。

 その中で僕たち二人分の足音に自転車のホイールが回る音が絡まると、大げさとは分かっていても“旅をしている”という感慨が胸に迫ってくるようだった。

「ね、何だか私たちだけが世界の片隅に取り残されたみたいだね」

 霧絵ミルイがまるで内緒話をするように僕に囁く。彼女もきっと今の神聖な空気感を汚したくないと思っているのだろう。

 それでも浮き立つ気持ちは抑えられないのか、彼女は上機嫌に続けた。

「私、朝のにおいって好きなんだ。前日に溜め込まれた、色んな人の想いや気持ちや感情が混じり合った空気を、リセットして0に戻してくれているみたいで」

 た、た、たんっ、と自転車を手押しながら歩く僕の前へ、霧絵ミルイは躍り出る。

 時刻は六時前。あと少しすればサラリーマンや学生が無遠慮に通りを埋めつくし、あっという間に静けさは失われてしまうだろう。まるで新雪に足跡をつけるみたいに。

 僕たちが今いるのは、太陽が一日の暑さを唄い出し、町に日常という活気が戻ってくる直前の、わずかなモラトリアム。

 僕たちの近くでちょこちょこ歩きをしていたセキレイが澄んだ空へ飛び上がり、視線で行き先を追うと、あの高架道が、まるで巨大な城の廻廊のように霞の向こうへ浮かんでいた。

 その光景を見た瞬間、僕の中で何かが吹っ切れた。

「霧絵」

 彼女はステップを踏む足を止め、振り返る。

「あの橋を越えて、もっと遠くへ行こう」

 何の気負いも抵抗もなく、自然にそんな言葉が出た。

 彼女は優しく微笑んで、頷いた。


 鮮やかな夏空の下、僕たちを乗せた自転車は穏やかに進んでゆく。大きな道からそれて、再び田舎道を走る僕たちの他にほとんど人はおらず、林から響いてくるセミの合唱と、道脇の果樹園から漂う白桃の香りが、夏の瑞々しさを讃えていた。

 お互いに言葉はなかった。どちらが言うともなく、次に向かう場所が最後になると何となく分かっていたからだ。

 けれども僕はそれを惜しいとは思わない。後悔とか未練とか、不安とか憂鬱とか、かなしさとかやりきれなさとか、そういった気持ちは不思議なくらい何もなく、ただ純粋に、澄んだ蒼い空や、山のような白い入道雲、草いきれを濃く放つ田圃や、暑い日射し、川のせせらぎ、身体を流れる汗など、それらすべてを、いつか季節がめぐったときに、夏の残響として心に留めておこうと思った。

「この瞬間が、ずっと続けばいいのに――」

 呟いた霧絵ミルイの声は、夏の白い風に吹かれて儚く散ってしまう。ばらばらになったその言葉の欠片を手繰り寄せようとするかのように、彼女は僕の腰に回した腕の力を強めると、まるで幼い子供のように僕の背にぴったりと身体をよせて、そのぬくもりを僕に預けた。前を向いた僕からは彼女がどんな表情をしているのかは分からなかったけれど、きっと彼女も同じことを考えているのだろう。繋がり合った部分からお互いの想いが流れ、混ざり合い、僕は彼女へと、彼女は僕へと、境界はあいまいになってゆく。


 ――霧絵。


 ――なに?


 ――僕は、あの高架道がずっと目障りだったんだ。


 ――うん。


 ――最初は分からなかった。ただいつのころからか、目にするたびに妙に胸がざわついて、イライラして、心を囃し立てられるようになって。それなのにそんな僕の気持ちとはまるで関係なく呑気に悠然と突っ立っているその姿が、何ていうか、すごく腹立たしく思えてきてさ。


 ――うん。


 ――けれど、ああ、あの高架道は、きっと世界に何が起ころうと、例え人類が滅んでしまっても、あのまま変わることなくずっと立ち続けているんだろうなって思ったら、何か不意に怒りが治まってさ。


 ――どうして急に?


 ――多分、世界にはどうあっても変わらない/変えられないものがあるんだって知ってしまったからだと思う。個人の意思や希望、願いなんかは、世界にとって本当にちっぽけなものでしかなくて、どんなにあがいても世界の片隅にいる僕たちのまわりさえびくともしないんだ。


 ――……。


 ――僕が自分の将来とか未来を諦めて、母さんや弟のために働こうって決めたのも、少なからずそういった考えが影響していたんだと思う。

 だけどあのとき、霧絵が言った「仕方がないの一言ですべてを諦めなくちゃいけないの?」って言葉を聞いて、自分がどれだけ自分自身を誤魔化してきたかっていうことに気付いたんだ。

 僕はまだ物分かりのいい大人になりたくない。

 人生は思い通りにいかないなんて知りたくない。

 僕はまだ、諦めたくない。

 ……そういう想いを持っているってことを。


 ――そっか。だから目指すんだね。あの高架道の向こうの世界を。


 ――ああ。あの高架道を越えれば、きっと世界を動かせる。それはほんのわずかで、一時的なものでしかないのかもしれないけれど、きっと価値のあることに違いない。


 ――キミが連れていってくれる“そこ”には、何があるのかな……。


 ――……分からない。だけど“ここ”には手に入らないものが、きっとあるはずさ。



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