第3話



 霧絵ミルイが初めてその名前を轟かせたのは、彼女が一年のときだった。

 その容姿と文武両道の成績で、入学した当初から霧絵ミルイはなにかと目立つ存在として皆から一目置かれ、同時に妬まれてもいた。しかし本人は自分が他人にどう見られているのかなど全く気にもしない様子で、批判にも称賛にも全く関心を持っていなかった。

 そんな彼女の態度が、彼女に否定的な者たちを余計に刺激したのは当然の成り行きといえた。

 あるとき彼女のことを快く思わない女子のグループが彼女に嫌がらせを行った。それは、彼女がトイレの個室に入っているときにバケツに汲んだ水を扉と天井の隙間から思いきり浴びせかけ、なおかつ教室から彼女の机を運び出すという、かなり陰湿なものだった。周囲の人間はクラスの中で最も影響力を持つ連中からいじめの対象にされることを恐れ、見て見ぬふりをすることしか出来ない。

 そこへ当の霧絵ミルイが全身をぐっしょり濡らしながら教室へ入ってきた。

二時限目が始まる直前で、授業を始める準備をしていた教師が驚いて訊ねるが、彼女は涼しい顔で言ってのけた。

「私にもよく分からないのだけれど、さっきトイレに入っているときにいきなり誰かに水を浴びせられてね。しかもどういう訳か机まで無くなっているみたいだ」

 それを聞いた教師はサッと顔色を変えると「今すぐ保健室へ行って先生に事情を話して着替えを借りてきなさい」と言うが、彼女は変わらぬ無表情でさらに答えた。

「いえ、先生。私はこのままでいいよ。ペンもノートもないけれど、その分しっかりと授業を聴いてるから」

 教師がどんなに説得しても彼女は頑として譲らず、まるでモデルのような足取りで自分の席があった不自然に開いた小さな空間まで歩くと、腕を組み、長い脚をさりげなくポーズをとったようにして立った。冷たい水を頭から爪先まで全身に滴らせながら、視線は前の黒板だけを射るように見据えている。

 あからさまな侮辱を受けながらも、泣き言を言う訳でもなく、誰の目にも明らかな犯人を糾弾する訳でもなく、優雅でさえある凛とした彼女の態度は、その場にいた全員を唖然とさせた。しかも霧絵ミルイはその状態で一日のすべての授業を受けたのだった。後にも先にも彼女に対しての攻撃は、その一回きりに終わった。

 翌日から霧絵ミルイの名は多くの生徒の知るところとなり、かくいう僕もそのとき初めて彼女の存在を知った。


 そんなことを考えていたせいで、午前の授業中はずっと上の空だった。僕は今に至るまで霧絵ミルイとはクラスが一緒になったことはないので、全て人から聞いた話だけれど、多少の誇張はあるにしても、彼女が普通一般の人とは大きく異なっていることは確かなようだった。

 とはいえ、僕が知っているのはその程度に過ぎない。霧絵ミルイの個人的なことはいっさい知らないし、これからも知ることはないだろう。僕らは同じ学校の同級生――彼女は良くも悪くも目立つ存在として、僕はどこにでもいる平凡な学生として――という以外の関係性を持たず、卒業した後は僕はきっと霧絵ミルイを忘れるだろう。そして十年後の同窓会で僕は「そういえばそんな奴がいたな」と思い出す。彼女の方は僕のことなど最初から知りもしない。改めて説明するまでもなく、僕らは他人同士なのだ。

 ――そう思っていた。昨日までは。

 そして今。

「……え?」

「聞こえなかったのかい? 話があるからついて来てほしいと言ったんだけれど」

 昼休み、杉原の机で昼食用のパンを袋から開けようとしたとき、霧絵ミルイがいきなり教室にやってきた。昨日あれだけの騒ぎを起こしたにもかかわらず彼女は全く臆することもなく、教壇近くで一度立ち止まると、僕の座っている席までまっすぐ歩いてきて何の遠慮もなく言ってのけた。

「どうして、僕が?」

 教室は昼休みにあるまじき静けさに包まれている。クラスメイトの視線が僕たちに集う中、彼女はさらりととんでもないことを僕に告げた。


「キミが、私の運命の人だからさ」


 霧絵ミルイはそう言って、その無表情な顔にわずかに小悪魔的な笑みを浮かべまがら、そのまま振り返ることもなく教室を出ていった。

 僕と霧絵ミルイとの関係をあれこれ憶測する声でにわかに教室がざわめいてゆく。杉原と半井は目を口と同じくらいに開いて言葉を詰まらせていたが、僕も全く同じ気持ちだった。つまり「どうして」と「いつ」と「誰が」という言葉が頭の中を競い合っている感じ。

「お前! 霧絵といつからそんな親密な関係になったんだ!?」

「知らないよ。僕が聞きたいくらいだ」

「知らないじゃねえだろ。運命の人とまで言われて」

 杉原が僕の肩に腕を回しながらニヤけた顔を近付ける。

「びっくりしたなぁ~。意外とモテるんだね」

 普段あまりそういう話題を持ち込まない半井まで冷やかしてくる。あえて無視するように努めていたけれど、クラスの皆も表情には出さないものの、しかし気持ちの上では二人と同じなのだろう。さりげなさを装ってこちらを窺う視線が方々から突き刺さってくる。痛い。

「ほれほれ、正直に隠さず話してみ? どんなことでも相談に乗ってやるからよ」

「だから違うって!」

 今やクラスの全員が僕たちの会話に聞き耳を立てている。僕がどんなに否定しても誰にも信じてもらえず、好奇と羨望と軽蔑に満たされた教室の空気に堪えきれなくなって、僕は逃げるように教室を飛び出した。

 ――そして僕を待っていた霧絵ミルイと廊下でばったり鉢合わせた。

「それじゃ、行こうか」

 彼女はそう言って背をもたせ掛けていた壁から離れると、僕を先導するかのように歩き始めた。

 今さら断る訳にもいかず、僕はため息をひとつついて彼女に従った。妙な誤解が余計に拡がることは簡単に予測出来たけれど、僕にはもうどうしようもなかった。



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