第2話
次の日の朝、僕は通学途中のバスの中で三半規管と必死に格闘していた。もともと朝に弱いため、めまいや貧血を起こすことはよくあったけれど、今日は特にひどく、加えてバスが道路を走るときの低いうなり声と振動で耳鳴りまで聞こえる。寝不足による深刻なダメージが、一日の始まりから襲いかかってきているようだった。
バスは三つ目の乗り場を通り過ぎたところで、学校の前まではあと四つの停留所を越さなければならない。時間にすれば十分にも満たないけれど、それでも満員の車内で、気分の悪さと人の熱気に堪えるのは苦行といってもいいくらいだった。
気だるげなサラリーマンと騒がしい学生たちとやる気のない扇風機の間に挟まれて、早くも気合いを入れ始めている太陽の日を浴びながら、僕はぼんやりと昨日のことを思い返していた。
あの後、僕は急いで屋上を駆け降りて霧絵ミルイの所まで走って行った。そこには騒ぎを聞きつけた先生や生徒たちが群れになっていて、彼女の姿は何処にも見られなかった。おそらく保健室へ運ばれたのだろうと考えて行ってみると、そこにもやはり数人の先生が保健室の入り口をガードしていて、野次馬になった生徒たちを押し返していた。
「先生、誰か飛び降り自殺したって聞いたんですけど」「怪我とかヤバいんじゃないですか」「ていうか飛び降りたのって誰なんですか」
次々と収拾なく広がるざわめきと動揺に、ひとりの先生が生徒たちをなだめるように言った。
「大丈夫だ。何も心配いらない。お前たち今日はもう帰れ」
その後もしばらくの間は押し合い圧し合いが続いていたけれど、どうやら飛び降りたのは“あの”霧絵ミルイらしいということと、彼女があまり大した怪我を負っていないということが分かると、集まっていた生徒たちも、やがてまばらに解散していった。
周りにいた生徒たちが白けたように帰って行く中、僕は呆然と立ち尽くしたまま、何が起こったのかを理解しようと頭をフル回転させていた。
けれどもどうしても思考と結論をうまく結び付けることが出来ず、ある意味で僕は直接その瞬間を見ていない人間よりもはるかに混乱していた。頭の中では、まるでだまし絵のように、飛び降りる霧絵ミルイとマットの上に仰向けになった彼女自身の姿が何度もねじれてループしていて、それに従うように、思考も結論から逸れて何度も最初へ戻って繰り返す。
先生に「お前も早く帰れ」と注意されるまで、僕はぼんやりとした頭を抱えたまま、日が暮れるまで保健室の前へ立っていた。
バスのアナウンスが次の停留所は学校前であることを告げる。後ろの方で騒いでいた同じ学校の生徒のひとりがボタンを押すと、ピンポーンという音とともに『つぎ止まります』と書かれたランプがいっせいに紫に灯った。
僕はあくびをひとつかみ殺すと、気だるい身体に喝を入れて、重たい鞄を抱え直した。
教室はいつもの朝の喧騒とは違うざわめきに満たされていた。なかば予想していたことではあるけれど、すれちがうクラスメイトたちの会話の端々に「霧絵ミルイ」という単語が出てくるところをみると、どうやらこの騒がしさは昨日の屋上の一件で間違いないらしい。うんざりする気分だ。
「おはよっす」
「おはよー、草壁」
自分の席へ着くと、友人の杉原雄二と半井祐介が一緒に近寄ってきた。僕は「おはよう」と答えて教科書を机に入れると、前にのめるようにして机に臥せた。
「何だよ、ずいぶん眠たそうだな」
「まあな」
「なに? 新しいネトゲを徹夜でやってたとか?」
「いや」
「なるほど。若さを持て余して、興奮して眠れなかったと」
僕の肩に手を置きながら、杉原がニヤニヤした顔を近づけてくる。高い身長にやせ形の体型、短く切った髪はいかにもスポーツマン然とした感じで、実際つい最近まで陸上部の短距離ランナーとして活躍していた。
いかにもモテそうな要素が詰まっている杉原であるが、いかんせん単純バカで始終エロいことばかり言っているせいで、女子たちからは袖にされてばかりいる。まあ、悪いやつでないのは確かだ。
「でも気持ちは分かるな~。僕もネットで頼んでいたフィギュアが届く前日にはもう、ソワソワして眠れないもん」
半井は杉原とは正反対のぽっちゃりした体型で、丸い顔に丸い眼鏡をかけている。頭はそれなりに良いみたいだけれども、その知識はネットやいわゆるオタク方面にばかり向いていて、僕や杉原にはついていけないようなマニアックな話を滔々と語るときの顔つきといったらもう……。
「ていうか、そんなことより今日はもっと大変なことが起こってるじゃない」
半井の言葉に杉原は「おう! そうだった!」と大袈裟に反応してみせた後、わざとらしく声をひそめて言った。
「お前さ、霧絵の話、聞いたか?」
あんな騒ぎを起こした次の日だから無理もないけれど、どこへ行っても彼女の話がつきまとってくる。昨日は結局家に帰った後も霧絵ミルイのイメージがずっと頭から離れなかった。夕食をとっているときも、風呂に入っているときも、寝ている間の夢の中にさえ、飛び降りてはマットに落ちる彼女のイメージが鮮烈に繰り返されて、その度に僕は目を覚ましては混乱していた。おかげで今になっても気分は夢心地だ。
「2組の霧絵ミルイのことだよ。あいつ昨日の放課後、学校の屋上から飛び降りたらしいぜ」
僕が黙ったまま答えないのを見て、杉原は僕が話を知らないのだと思ったようだ。
思わず「知ってるよ。その場にいたから」と言って続きを打ち切ってやりたい衝動に駈られたけれど、一瞬考えて僕は黙っておいた。昨日の霧絵ミルイとのやりとりを話したりすればまず間違いなく面倒なことになるし、妙な誤解を与えないとも限らない。
とはいえ、これ以上話を無視することも出来なさそうだったので、僕は諦めて顔を上げた。
「あんまり驚いてないな」
「まあな。彼女が問題を起こすのはこれが初めてじゃないし」
霧絵ミルイの存在は、その名前自体が「思いもよらない奇抜な行動」というひとつの意味を持つほどに学年に広く知れ渡っていた。彼女が問題行動を起こしたのも一度や二度ではなく、そうかといって教師に真っ向から反発するような不良でもない。むしろ普段は真面目で品行方正な優等生ですらあるのに、時おり今回のような突拍子もない行いをしては、先生たちの頭を悩ませるのだった。
「それで、怪我の具合はどうなの?」
「いや、怪我自体はたいしたことなかったらしいぜ。ほら、陸上部が高跳びに使ってるでっかいマットがあるだろ。何でもそのとき1年生たちがたまたまそれを運んでいたらしくて、偶然そのマットの上に霧絵は落ちてきたって話だ。……まったく、運がいいというか何というか」
「でも屋上から飛び降りるなんて、何があったのかな」
僕としては適当に話を合わせて早々に切り上げるつもりだったのだけれど、杉原が何気なく言った次の言葉が、思いがけず僕の心をとらえた。
「さあな。けど何にしても死ぬつもりだったんだろ。それ以外に考えられないじゃん」
昨日から何度も繰り返されてきた霧絵ミルイの残像が、再び僕の頭をかすめる。
――そうだ、あのとき彼女は何て言っていた?
――大怪我を負う覚悟さえあれば、いつでも飛び降りることは出来る――
「……そうかな」
昨日から今に至るまで“飛び降り=死”というイメージが、その衝撃性ゆえに何度も僕の頭の中で繰り返されてきた訳であるけれども、考えてみれば最初から死ぬつもりの人間が「大怪我を負う覚悟さえあれば」なんて言葉を使うとは思えない。
それにどんな人間でも死を間近に思ったとき、もっと恐怖や焦りのようなものが出てくるはずだ。それらは決して隠したりごまかしたり出来るようなことではないと思う。
にもかかわらず、飛び降りる直前の霧絵ミルイはある種の悲壮感こそ漂っていたものの、そういった動揺は微塵も感じられなかった。むしろ落ち着き払ったその態度はどこか現実味を欠いていて、まるで映画のワンシーンを彼女自身が演じているかのように見えた。
目の前で屋上から人が飛び降りるというショッキングな場面に遭遇して無理もないことではあるけれど、僕は今初めてそのことに気が付いたのだった。
しかし死ぬつもりで飛び降りたのではないとすれば、どんな理由/目的で?
「そうかなって、他に何か心当たりでもあるの?」
「いや、心当たりなんてないけど……。でも死ぬつもりだったとしても、理由はいったい何なんだろうと思って」
「それが、動機については一切喋ろうとしないんだってよ。親や教師がどんなに問い質しても、霧絵は黙ったままで、まったくお手上げなんだと」
杉原が肩をすくめてみせる。
僕は想像してみた。まわりにいる大人たちから強く叱責され、あるいは優しく諭され、そのいずれにも変わらぬ無表情と澄んだまなざしで答える霧絵ミルイを。彼らにも、そして他の誰にも、彼女の瞳がどこを見つめているのかを知る者はいない。
「まあ、あの霧絵の口を割らせるのは骨だと思うけどな。何せ普段からして何考えてるのかさっぱりだし」
「何度目だっけ、彼女が騒ぎを起こすのは」
「細かいエピソードを追えばそれこそ無数にあるんだろうが、大きめの事件で言うと4、5回目ってところじゃないか」
二人と話し合っているうちに、ふと視線を変えるといつの間にか一時限目の教師がやって来ていた。どうやら霧絵ミルイの話で盛り上がっていたせいで、三人とも予鈴に気が付かなかったようだ。担当教師が僕たちを見て「おーい、授業始めるぞ」と声を上げる。
「おっと、続きはまた休み時間にな」
慌てて自分の席に戻る二人を視線で見送り、日直の号令に合わせて身体を動かせながらも、僕が考えていたのは霧絵ミルイは今どうしているのだろうということだった。
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