霧絵ミルイと物語の神隠し
宵待なつこ
第1話
『霧絵ミルイと物語の神隠し』
霧絵ミルイは世界にひとりだけの少女だった。
この先の僕の長い人生において、彼女のような人間にはおそらく二度と逢えないだろう。憂いを秘めた切れ長の瞳も、挑発的な少し低めの声も、そして何よりも世界を言葉で構築していった彼女の存在そのものが、今でも僕の心に残火をくすぶらせている。
彼女は周囲から理解されることを拒むように、理解されることを諦めているかのように、いつもひとりだった。
大抵の人は彼女のことを変わった娘、何を考えているのか分からない娘、あるいはもっと露骨に頭のおかしな奴と呼ぶ者さえいた。彼女がどれだけ繊細で、どれだけのかなしみに耐え、そしてどれだけ魅惑的であったのか、結局のところ誰ひとりとして知らないのだ。
だから僕は彼女のことを綴ろうと思う。彼女の本当の姿を知っているのは、きっと僕だけだろうから。
誤解しないで欲しいのは、僕と彼女が生まれる前から赤い糸で結ばれた、いわゆる運命の人であったとか、そういうことを言っているんじゃない。彼女の方は僕のことを「運命の人」といってきかなかったけれど、それだって一般に想像するような甘い話じゃない。もっと痛くて、可笑しくて、切実な話だ。僕が本当の意味でそのことに気が付いたのは、ずっと後のことだったけれど――。
六月の末。じめじめとした梅雨が次第に遠のいて、早くも本格的な夏が近付いてきたその日、僕は日直としてクラス全員のプリントや提出物を集めて整頓するよう担任から頼まれていた。
みんなこちらの都合にはおかまいなしで、気ままに持って来たり来なかったりするせいもあって、ようやく終わった頃にはすでに陽は大きく傾き、夏の暑さを残した放課後の教室は僕の心を気だるく憂鬱にさせるには十分だった。
「暑い……ていうかみんなもう少しこっちのことも考えてくれればいいのに」
職員室へ向かって廊下を歩く途中、僕以外に誰もいないと分かっていながら、ついひとりごちる。杉原も半井も、いつ仕事が終わるか分からない友人を手伝うよりも、さっさと家に帰って漫画を読んだりゲームをしたりする方が大事らしい。
「薄情な、奴らだ、まったく……」
プリントの束と宿題のワークブックをひとりで全員分持って歩くのは、正直かなりキツい。本来であれば女子の日直がもうひとりいるけれど、あいにく体調不良で欠席している。
渡り廊下を通り、階段を降りて、僕は職員室へ着いた。「失礼します」と声をかけて中に入ると、まずクーラーの冷気が、続いてガヤガヤごちゃごちゃの雑然とした空気が身体と感覚を侵す。どちらも僕の苦手なものだ。
「今日の提出物です」
中年を越して腹の出かかった担任の机の上に荷物を置く。
「おう。ごくろうさん」
そのまま立ち去ろうとすると、「あー、ちょっと悪いんだが」と先生が声をかけてきた。
「さっき鍵の数を確認したら、屋上の鍵が見当たらなくてな。おおかた天文部が使ったまま忘れているんだろうが、一応確認してきてもらえんか」
「あ、はい。分かりました」
鍵の管理も日直の仕事に含まれるのかと愚痴を言いたい気持ちを抑えつつ、僕は職員室を出た。
「あー、また上まで上がらないといけないのか……」
僕たちの教室は三階にあって、職員室は一階にある。提出物を届けた後で鞄を取りに戻るのも面倒なので、提出物と一緒に鞄を背負って職員室まで来たのだ。それなのに。
ため息をひとつ吐き、日焼けした腕で額の汗を拭ってから、僕は夕陽が照り返す廊下を再び歩き始めた。
夏の暑さは陽が傾いてもそれほど変わらない。それでも僕は人気のない校舎の、さびしいような、少し怖いような雰囲気が嫌いではなかった。
誰もいない教室や、紅く染まった渡り廊下、足音が虚ろに響く階段を通り過ぎてゆくと、まるで世界から置いてけぼりにされたような、自分だけが違う場所にいるような、一度も訪れたことのないはずの場所へ不思議な郷愁を感じるのにも似た感慨が僕の胸に迫ってくる。
そしてそんなとき、僕はいつも「このままここにいてもいいのだろうか」と、訳もなく焦りに駆られてしまう。
未だ逢ったことのない誰かをずっと探し求めているような胸の疼き。自分でもどうしてこんな風に想うのか分からないけれど、その痛みは確かにあって、甘く、優しく、深く僕の心に突き刺さる。
いつもにぎやかな校舎に今は僕だけの足音が響いている。ほとんどの生徒は帰宅するか部活に行くかしていて、周りの教室に人影は見られず、運動部の掛け声や、文化部、委員会で残っている生徒たちの遠い声が響いてくると、校舎内の静けさが一層際立つようだった。階を上がるごとに夕焼けはよりいっそう美しく射し込み、僕は鍵を閉める前に屋上から今の光景を眺めてみたくなって、立て付けの悪い扉に手をかけた。
――そこに、彼女はいた。
扉を開くと、柵の向こう側、縁のギリギリに立って、黄昏時の淡い光を全身で受け止めながら、彼女は此方に背を向けて空を見上げていた。
雲に隠れた夕日が空の合間からにじんだ梯子を降ろし、町全体がセピア色の海の底に沈んでいるかのような光景の中心で、彼女はまるで夢の中の登場人物のように儚く、現実離れした特異な存在感を放っていた。
屋上の風が彼女の長い黒髪をなびかせながら通り過ぎて、彼女は振り返った。物憂げな視線が僕をとらえる。
「やあ。まだ人がいたんだね。校舎に残っているのはもう私だけだと思っていたんだけれど」
少しアルトな声音と、少年のような口調。切れ長の瞳、ツンとした鼻、シャープな顎のラインに沿って絶妙なバランスで配置された口唇は夕陽よりも紅く、しっとりと濡れたような黒髪と対照的な白い肌は、夏の日差しに当てられているにもかかわらず滑らかに透き通っていて、どこか艶かしい。
霧絵ミルイ。それが彼女の名前だった。
彼女とはそれまでにも廊下やクラスの合同授業のときに何度か見かけたりすれ違ったりしていたけれど、僕は一度も話しかけたことはなかった。というより彼女に話しかける生徒も、彼女と親しくしている生徒も、僕は見たことがなかった。声を聞いたのもこれが初めてだった。
「ここは風が気持ちいいね。空を飛ぶ鳥はいつもこんな気持ちなのかな」
無感情な声から発せられた言葉は僕への問いかけなのか、あるいは自問しているのか定かではなかったけれど、僕はとりあえず言うべきことを言おうと思った。
「鳥の気持ちは分からないけれど、危ないことは止めた方がいいんじゃないかな」
「危ないこと?」
「そこから落ちたら死ぬかもしれないって思わないの?」
彼女は小首をわずかに傾げて一度下を覗いた後、まるで今そのことに気がついたとでもいうように、小さく頷いてから再び僕に振り返った。
「そうだね。でも木の枝がクッションになって助かるかもしれないし、ひょっとしたら鳥が助けてくれるかもしれないよ」
「そんなことはありえない」
「どうして? 実際に落ちてみないと分からないじゃないか」
「そんな無茶なこと、出来るわけがない」
「どうして?」
「どうしてって……」
からかわれているのだろうか。そう思って彼女の顔を窺ってみると、霧絵ミルイは変わらぬ無表情のまま、しかし瞳だけは真剣な眼差しで僕を見つめ返してきて、彼女が決してふざけている訳でも冗談を言っている訳でもないことが分かった。
「確かにこの高さから落ちれば大怪我をするかもしれないね。けれどもそれは、落ちることが不可能ということを意味しない」
「……どういうこと?」
「簡単だよ」
そこで彼女は初めて微かに――ほんの微かに――微笑った。
「大怪我を負う覚悟さえあれば、いつでも落ちることは出来るってことさ」
そう言って霧絵ミルイは此方を向いたまま、躊躇いもせず、背中から倒れこむようにしてステップから足を離した。
「――っ」
驚く間もなく彼女は僕の目の前から実にあっけなく消えた。一瞬理解が及ばず身体が硬直する。直後に響いた叫び声に、僕は夢から覚めたように駆け出して地面に目を向けた。
そこには大きなクッションマットの真ん中で、長い黒髪と制服のブラウスとスカートを乱れさせながら、細い肢体を十字に仰向かせている霧絵ミルイの姿があった。それは高跳びの練習用に陸上部が使っている大きなマットで、倉庫から運んでいた陸上部の一年生たちがちょうど曲がり角を曲がったところだった。
彼女がどんな顔をしていたのか、この高さからは判別出来なかったけれど、僕を含めたその場の全員が呆然とする中、彼女一人だけは変わらず涼やかな顔をしているであろうことは容易に想像することが出来た。
その日、夕闇が迫る屋上で、僕は初めて霧絵ミルイが霧絵ミルイであることの一端を覗いたのだった。
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