第4話
霧絵ミルイの心は、誰にも解らない。
彼女についての印象やイメージは人によってまるで違うけれど、霧絵ミルイを知っている人全員に唯一共通する認識がそれだった。その認識は当然僕も心得ていたけれど、僕の最大の失敗は、まさか自分が直接彼女と関わることになるとは思ってもみなかったことだ。それは車が危険であるという事実を知っていながら、事故に逢うまで全く意識していなかったということと似ている。
「それで、どこまで行くんだ?」
前を歩く霧絵ミルイに、僕はなかばヤケになって問う。
「屋上」
「……本気か?」
「と言いたいところだけれど、きっと前よりも厳重に鍵が掛かっているだろうから、中庭で我慢しよう」
僕は彼女の身勝手さに少なからず頭にきていたが、霧絵ミルイはそんな僕の気持ちなんて気付きもしないのか、どこまでもマイペースを崩さない。あるいは知った上でお構いなしなのかもしれないけれど、だとすれば尚更質が悪い。
「というか今さらだけど、昨日あんなことがあったばかりなのに学校に来て大丈夫なのか?」
「身体のことなら心配いらないよ。どこにも怪我はないから。とはいえ、先生や親からは強制的に出席停止にさせられたけれどね。もちろん私はそんなことは気にしないし、キミにも話があったからこうして今ここにいる訳だけれど」
霧絵ミルイは僕の前を歩きながら、振り返ることなく淡々と答える。
僕は黙って歩きながら彼女の意図をさっぱり量れずにいた。正直に言えば彼女のような美少女から「運命の人」と呼ばれること自体は悪い気はしない。しかし相手はあの霧絵ミルイである。嬉しさよりも戸惑いや不安の方がどうしても大きくなってしまって、素直に喜ぶことは出来なかった。
「この辺りにしようか」
ベンチのひとつを指しながら彼女が言った。中庭には僕たちの他にも弁当を
食べている生徒やグループで騒いでいる生徒たちで賑わっていて、僕たちはその中に紛れるようにベンチに座った。
「さて、まずは自己紹介からしようか」
「それはいい。お前はこの学校じゃ有名人だから名前くらいは知ってる。それよりもさっき言ってた運命の人とかなんとか、あれはいったいどういうつもりなんだ」
「そのままの意味さ。キミは私の運命を大きく変える人」
「……そんな重いことをほとんど初対面で言われても困る」
「初対面とは心外だね。昨日屋上でキミと逢ったじゃないか」
「あれは」
僕は思わず言葉に詰まった。目の前でいきなり飛び降り自殺の真似事をしてみせた当の本人が、何事もなかったかのように再び僕の目の前に現れて、しかも運命の人とまで言われているこのおかしな状況は、あのときから既に始まっていたのかもしれない。
「……そもそもどうして屋上から飛び降りようなんて思ったんだ」
「キミはどうしてだと思う?」
「さあな。死ぬつもりには見えなかったけれど」
「へえ。それはどうして?」
また“どうして”か。彼女には昨日から何度も聞かれているような気がする。僕は再びため息を吐いて答えた。
「最初から死ぬつもりの人間が“大怪我を負う覚悟さえあれば”なんて、普通言わないだろ」
それに何となくそんな雰囲気には見えなかったし。とはあえて言わない。
けれども僕の言葉を聞いた霧絵ミルイは、さも意外だと言わんばかりの顔で驚くと、続けてとても満足したような柔和な微笑みを返してきた。
「いいセンスをしているね。やっぱりキミは他の人とは違うようだ」
「お前には言われたくないよ。というか、別に難しいことじゃないだろ。言葉に少し気を付けていればすぐに分かることだ」
何となく馬鹿にされたようで、ついムキになって答えてしまう。それでも彼女は満足気な顔を崩さない。
「いや、私が言っているのはそういうことじゃないよ。キミは私が自殺以外の目的を持って飛び降りたということを、無意識であれ認めてくれたんだ。普通の人なら例えそういう考えに至ったとしても、『そんな馬鹿な話がある訳がない。やっぱり自殺しようとしたんだろう』という結論に戻るのが自然な流れだろうにね」
言われて僕はハッとした。奇妙なことに、彼女に指摘されるまで僕は自分の考えがおかしいとは一度も思わなかったのだ。
放課後の学校で、屋上の柵を乗り越えたところに人が立っていたら、普通はただごとではないと思うはずだ。歩いていて迷い込むような場所では当然ないし、人気のない時間帯にそんな危険な場所に立つ理由など限られている。
にもかかわらず僕は霧絵ミルイが死ぬつもりでそこに立っていたとは考えもしなかったのだ。彼女が飛び降りた理由も分からないままだというのに。
ただ、それでも僕の中で“屋上から飛び降りること=死”というイメージは強くあって、そのごちゃごちゃした矛盾やジレンマが、昨日の迷宮的な悪夢による睡眠不足の原因だろうと思われた。
そんな僕の心中を察したかのように、霧絵ミルイは続ける。
「けれども私が屋上から飛び降りたその理由を理解してもらうには、先にキミに話しておかなければいけないことがあるんだ。信じられないかもしれないけれど、今から話すことは全部真実だからね。キミを騙すつもりもからかうつもりも一切ない」
霧絵ミルイはそう言って僕に向き直ると、秘密を打ち明ける猫のように前のめりになって真剣な顔を近付けてきた。屋上から飛び降りる直前の憂いを秘めた瞳が僕のすぐ目の前に拡がり――こいつ何でこんなにいいにおいがするんだ――意識をどこか遠くへ持っていかれそうになる心へ向けて、彼女はささやきかけてきた。
「私にはね、自分で考えた物語を現実にしてしまう能力があるみたいなんだ」
そんな、突拍子もないことを。あたかもこれから一緒に犯罪を行う共犯者へむけて自らの前科を暴露しているかのような口ぶりで。
「物語を、現実にしてしまう……?」
霧絵ミルイは姿勢を戻すと、風にそよぐ髪を揺らせながら、正面を向いたまま続けた。
「正確に言えば物語の一場面と言った方が正しいかもしれないね。
私はよく、前後の脈絡を無視して物語のワンシーンを空想したりするんだけれど、そのうちのいくつかが現実になってしまうことがあるんだ。
もっとも、全てがそうなる訳じゃなくて、現実になるのはあくまで私に関わることで、実現可能な範囲に限られるけれどね」
彼女が何を言おうとしているのか、理解するのに三〇秒ほどかかった。
少し恥ずかしい話ではあるけれども、僕も前後の脈略を無視した妄想はたまにすることがある。例えば自分が戦士になったつもりで、絶体絶命におちいった仲間を救うために「ここは俺に任せて先に行け!」と多数の敵に立ち向かってゆく姿だとか、崖から落ちそうになっている女の子をギリギリのところで救い上げるとか、いわゆる中二病的な空想だ。
しかしそれらはあくまでも空想であって、現実に起こり得ると本気で思ったことはない。霧絵ミルイの言っていることは、現実と非現実の境界がまだはっきりと解っていない幼子の夢のようなものだ。
「……ちょっと待て。それはただの偶然じゃないのか? たまたま自分が頭に思い描いたことが現実になったというだけで」
馬鹿馬鹿しく思う気持ちを抑えて諭すように言っても、彼女はそんなことはとっくに考えたことがあると言わんばかりのそっけない口調で答えた。
「最初は私もそう思っていたんだけれど、偶然にしては空想と現実が重なることが多いんだ。現に今だって」
「今?」
そう言って霧絵ミルイは、周到に計画を練った殺人犯のような顔で僕に微笑む。もちろん今から殺されるのは僕だ。
「キミと出逢えたのも物語のおかげなんだよ」
彼女は軽く息を吸い込みながら目を瞑ると、自ら考えた物語を詠うように読み上げ始めた。辺りの空気が急に緊張感を帯びてきて、中庭の草花や噴水、周りにいる生徒たちや空に浮かぶ雲までもがくっきりと輪郭を強調されたようだった。変わらぬ景色であるはずなのに異世界のようでもあり、それはあたかも
世界と世界の狭間に入り込んだかのようでもあった。
『――空が茜から薄紫へ徐々に姿を変えていく時刻、少女は学校の屋上にひとり佇んでいた。夕暮の涼しい風に長い黒髪を流されるまま、少女は何処とも知れない世界をじっと見つめながら、何かの/誰かの訪れを待っている。それは少女自身にも曖昧にしか分からない存在で、しかしその存在が少女の運命を大きく変えることだけは、不思議な確信とともに少女の心の中にあった。
紅く大きい夕陽が遠くの山々の稜線を燃やしながら沈んでゆく。不意に背後の扉が開く音がして、何者かの足音が少女に近付いてくる。足音は一定のリズムで大きくなり、始まったときと同様に不意に止まった。少女はそこで初めて振り返った。
「やあ。遅かったね」
目の前に立つ彼に少女は問いかける。
「キミが、私の運命の人なのかい?」
彼は答えず、夕暮れ時の淡い光がつくる陰の中にじっと佇んでいる。そういえば今の時間帯を逢魔刻というらしいことを、少女はふと思い出す。
「……いや、愚問だったね。キミが何者であるかは、確かめてみれば済むことだ」
少女は屋上の柵を乗り越えて縁に立った。吹き抜ける風に身を晒したまま視線を下に移すと、改めてこの場所の高さを思い知る。
それでも少女は立った場所から動かない。何故なら少女は知っているからだ。彼が少女の運命の人であるのか、偶然訪れた無関係の他人なのか、あるいは黄昏時に出逢った妖なのか、確かめるには自らの生命を賭けてみるしかないということを。
少女は振り替えって告げた。
「キミが妖の類いならここから飛び降りた私は死ぬだけだ。けれど、もしキミが私の運命を変える人ならば、この高さであっても私は絶対に死なない。キミと一緒なら、死ぬという運命さえ変えてしまうことが出来るはずさ」
分かりきった答えをあえて口にしたときのように、沈みかけの夕陽を背に浴びながら、少女は微笑んでいる。試すような口ぶりとは裏腹に、少女の顔はある種の確信に満ちていた。
――そして少女は、軽やかにその身を空へ落とした』
霧絵ミルイはそこで小さく深呼吸して目を開けた。同時に世界が元に戻ってゆく。
「……つまり、お前は“運命の人”とかに逢うために、自分自身が主人公の物語を創って、それを実行したってことか?」
「少し違うね。私の創る物語はいつも私自身が主人公であることは違いないけれど、実現させているのは私じゃなく、私のチカラがひとりでに行っていることなんだ。だから物語を実行するという意識は、私自身にはないよ。
ともあれ、これが物語の始まりさ。率直な意見を是非聞きたいね」
「下らなくて古臭い手品を聞かされている気分だよ。その物語が昨日以前に書かれたものだということを証明するものがないし、僕とお前が出逢ったのも、単なる偶然に過ぎない」
「証明の仕方についてはキミの言うとおりだ。ノートには書き綴っているけれど、このことを人に話そうと思ったことはほとんどなかったからね。言っても誰も信じないだろうし。まあそれについてはキミにも信じてもらえるように何か方法を考えるよ」
しかし霧絵ミルイは穏やかな顔つきを変えない。その余裕にまだ何かありそうな予感がして、僕は奇妙な寒気を感じた。
「それじゃ屋上から飛び降りて、そこへたまたまマットが運ばれてきて無傷で済んだことも偶然だと思うかい?」
「それは――」
僕は思わず言葉に詰まった。事実、その通りのことを考えていたからだ。
仮に彼女が立っていた場所からマットを運んでくる一年生たちが見えたとして、そこに向かって飛び降りることなど出来るだろうか。ひとつタイミングを間違えば一巻の終わりだし、あるいはあらかじめ一年生たちに段取りを取らせておいた「やらせ」の可能性もあるけれど、それだって危険なことに変わりはないし、まず一年生たちも了承しないだろう。
そしていずれの方法であれ、霧絵ミルイは背中から飛び降りたのだ。
彼女が助かったのはまさしく奇跡としか言いようがなかった。まるで――。
「ちょっと待て、それじゃ何か? 助かることをあらかじめ知っていて飛び降りたとでも? それもお前の筋書き通りだって言うのか?」
頭の中で出そうになった言葉を慌てて振り払う。いや、別に慌てる必要なんかない。そんなバカな話がある訳がないのだから。
そんな僕の反応が楽しいのか、彼女は先ほどよりもさらに、どこか得意げにも見える顔で言った。
「さあね。私が意図して物語を現実にしている訳じゃないから。私はただ、自分の考えた物語が現実になるかもしれないということを知っているだけ。だから、筋書き通りといえばそうだとも言えるし、そうでないとも言える」
霧絵ミルイは本気で彼女の言う『物語』を現実にしてしまう能力があると考えているようだった。ただしそれは彼女の思ったことが全て現実になるという訳ではなく、どうやら彼女の意思とは関係なしに実現されるものらしい。
「もし助からなかったら、とは考えなかったのか?」
「もしそうなっていたら、私はきっと死んでいただろうね。だけど私はキミが私の運命の人だと確信していたよ。だって細かな違いはあっても、昨日の状況はほとんど私が考えた物語と瓜二つだったんだもの」
「たったそれだけの根拠で屋上から飛び降りるやつの気が知れないな。だいたい、お前の『能力』はお前自身に関わることだけが現実になるんだろう? だったらお前ひとりでやってればいい。他人を巻き込む意味が分からない。そもそも“運命の人”っていうのはいったい何なんだ」
僕がうんざりした心持ちで一息に言うと、霧絵ミルイは得意気な顔から一転して、夏の夕風のような、どこか寂しげで遠い目を蒼空へ向けながら答えた。
「……キミに迷惑をかけてしまうことには、素直に申し訳なく思っているよ。
それでも私はね、ずっとキミのような人を待っていたんだ。私の考えた物語は現実になる可能性を持っているのに、私が本当に望んでいることはどうして現実になってくれないのだろうと、来る日も来る日も憂鬱に思いながらね」
「望んでいることって?」
彼女はかすかに自嘲的な微笑みを浮かべると、人をくったような元の顔に戻って言った。
「まあ、それはそのうち分かるだろうさ。それよりもう戻らないとそろそろ昼休みが終わるころだよ」
言う間に霧絵ミルイは中庭を駆けてゆく。小さくなる背中へ向かって、僕は声を上げて問いかけた。
「おい! 結局僕はお前の何だっていうんだよ」
彼女は噴水の所で振り返った。陽の光を浴びてキラキラと輝く水しぶきが、たなびく彼女の長い髪に跳ね返る。にじんだように淡く、幻想的な風景を背にして、彼女は思い出したように言った。
「そういえば、私もキミにひとつだけ聞きたいことがあったんだ」
霧絵ミルイは謎めいた微笑を返す。チャイムの音も生徒たちのざわめきも不思議に遠のいて聞こえる中、彼女の言葉だけがはっきりと僕の耳に届いた。
「キミの名前は、なんていうんだい?」
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