第5話



 霧絵ミルイが同学年の男子に告白したらしい。

 彼女に呼び出された次の日、僕と霧絵ミルイの仲は学年全土でそんな風に噂されていた。クラスメイト全員の前で運命の人などと言われたら、そういった誤解をされるのも無理もないことだけれども、朝教室に入るたびにクラスのみんなが会話や雑談を中断させて僕の方を見てくるのは、正直勘弁してもらいたい。晒し者にされている気分だ。

 そんな迷惑な噂を造り上げてくれた霧絵ミルイ本人はというと、まるで何事もなかったかのように、あれから何の音沙汰もない。今に始まったことではないけれど、正直、彼女が何を考えているのかさっぱり分からない。なお悪いことに、教室で顔を合わせるたびに杉原が「もうキスはしたのか」だの「ちゃんと順序を踏めよ」だの「次の土曜が勝負だな」だの、おせっかいな助言を与えてくれる。その都度僕は「彼女とはそんな仲じゃない」と否定するのだけれど、その程度で杉原が退くはずもなく、冷やかしに磨きをかけてさらに騒ぎ立てる。そんな杉原の言葉をクラスのみんなが聞くともなく聞き、誤解はさらに広まってゆく。

 それでも霧絵ミルイは全く意に介した様子もなく、僕ひとりが何だか気持ちを宙ぶらりんにされたまま、数日が過ぎたある日の放課後。


 そのとき僕は下足場で靴を履き替えるところだった。帰りのホームルームを終えて、あまりあてにならないバスの時刻表を思い出しながら、バス停まで小走りで行くかダッシュで行くかを考えていた。

 辺りは一日の緊張から解放された生徒たちの笑い声や喧騒で満ちていて、だから自分に向けられたその声に、最初僕は気付かなかった。

「あのっお話したいことがあるので少しお時間よろしいですかっ!」

 振り返るとそこには同じクラスの少女が立っていた。

 彼女は小鳥遊汐莉という名前で、新しいクラスになって男女で出席番号順に並んだとき、僕の隣になった子だった。彼女の最初の印象は、顔も身体も手も足もとにかく全てが小さくて、“小鳥遊”という名前はまさに「名は体を表す」な。というものだった。また大人しい性格で人見知りするらしく、親しい友人もいないようだった。同年代の女子たちが化粧をして着飾っているにもかかわらず、彼女はいつも控えめな面立ちに地味なおかっぱという姿が、どことなく幼いように感じられた。

 小鳥遊さんは頬を赤くしながらわずかに肩を上下させて息をしている。もしかしたらト書きのようなさっきの言葉を何度も僕に向けて言っていたのかもしれない。それでもその声は、周囲の騒がしさに紛れてほんの少ししか聞こえなかった。

「話……?」

「はいっ。その……、あまりお時間はとらせませんから」

 最後の方は消え入りそうな声だった。

「まあ、いいけど……」

 ほとんど話したこともない見るからに内気そうな少女が唐突に現れて、声を震わせながら僕に何か伝えようとしている。

 これで期待するなという方が無理な話だと思う。正直僕はこの後に続くであろう甘い瞬間の到来を考えて、内心の喜びが顔に表れないよう細心の注意を払って無表情を作った。

 放課後の校庭にはちらほらとカップルたちの姿も窺える。折しも夕焼けがロマンチックに燃える時間で、そういえばさっきから妙にあつい。

 小鳥遊さんもバスを利用するらしく、僕たちは校門を出てからバス停までの短い距離を二人並んで歩いた。

「この前は、休んじゃってごめんね」

 小鳥遊さんが前を向いたまま言った。

「日直、ひとりで大変だったでしょ」

「いや、別にそれほどでもなかったから」

 思った以上にぶっきらぼうな言い方になってしまった。もっと気の効いた返し方があるだろうと自分で自分にダメ出しをするも、すでに手遅れだった。小鳥遊さんは伏し目がちに「……そっか」と呟いて、そこから話が続かない。

 僕たちは黙ったまま足を進めた。気まずさから僕は無意味に頭をキョロキョロさせてしまうけれど、見える景色といえば、荒れた空き地や、古い建物のドラッグストア、まばらに点在する民家といった話の種にさえならないものばかりで、だから僕たちが停留所に着いたとほとんど同時にバスが到着したのには、心底ほっとした。

 バスの中にはお年寄りと、他の学校の生徒が二、三人の他は誰もおらず、僕たちはがらんとした車内の隅の席へ並んで座った。

 僕は徐々に速まる鼓動に落ち着きを奪われながら、そういえば女子と並んで座るなんて小学校の遠足以来だなとか、他人から見たら僕たちはどんな風に見えるのだろうとか、そんなことばかり考えていた。横目で小鳥遊さんを窺うと、彼女は窓側の席に行儀よく座ったまま、思い詰めたような顔をして俯いている。バスが動き出し、停留所をひとつ、ふたつと通りすぎても、彼女はずっと黙って何かを考えているようだった。

「……それで、話って?」

 真綿で首を絞められるような空気に堪えられなくなって、僕は意を決して小鳥遊さんに聞いてみた。彼女は一瞬ハッとした表情になると、恐る恐るといった風に呟いた。

「私の、友達のことで相談したいことがあるんです」

「友達のこと?」

 彼女が頷く。僕は高まっていた熱が急に冷めるのを感じて、ガッカリしたようなホッとしたような複雑な気持ちになった。

「でも、どうして僕に?」

 僕は今まで小鳥遊さんと会話らしい会話をしたことがほとんどない。大人しくて内気そうな彼女にとっては、異性である僕に話しかけることさえ勇気がいることだったろうに、そうまでして僕を相談相手に選んだ理由がさっぱり分からなかった。

 小鳥遊さんは僕から視線をそらしながら、独り言のように小さく呟いた。

「彼女が、あなたを選んだから……」

「彼女?」

 今にして思えば、もっと早く気付くべきだったと思う。告白するのならわざわざバス停なんかを選ばなくても他にふさわしい場所がいくらでもあるし、小鳥遊さんがなぜ急に、このタイミングで僕に話しかけてきたのかということにももっと注意を払うべきだった。

 けれども僕は、彼女に話しかけられたときから告白されるものだとばかり思い込んでいて、ひとりで舞い上がっていたためにそういったことに全く考えが至らなかったのだった。

 バスの窓からは、紅く大きくにじんだ太陽が顔を覗かせている。建物の間に挟まれて、窮屈そうに射し込む夕日を後光のように浴びながら、小鳥遊さんは僕に顔を向けた。

「ミルイはあなたのことを“運命の人”って呼んでいました」

 ミルイ。思ってもみなかったその単語を聞いて、僕は髪の毛がぞわりと逆立ったような気がした。僕の知っている人の中で“ミルイ”と呼ばれる人間はひとりしか知らない。

「霧絵ミルイのこと……?」

 逆光によって黒くなった小鳥遊さんの影が頷く。彼女がどんな表情をしているのか、僕からはよく見えなかった。

「いや、ちょっと誤解してるみたいだけど、僕と彼女はなんの関係もないから。運命の人がどうとかっていう話も向こうが勝手に言ってるだけで、むしろ僕が迷惑してるくらいなんだ」

「迷惑、ですか……」

 小鳥遊さんはどこか期待を裏切られたような、何かに失望したような落ち込んだ顔をして、またも押し黙ったまま俯いてしまった。その思い詰めた顔を見ていると、僕は何も悪いことはしていないはずなのに、あたかも悪気なく彼女を責めているかのような気分になってくる。

 しおれた花のような彼女に何と言って繕えばいいのか、僕が答えあぐねていると、小鳥遊さんは少しだけ首を強く振って、決心したようにはっきりと言った。

「それでも、私は草壁君の他に頼める人を知らない。お願いです。話だけでも聞いてもらえませんか」

 彼女の言葉は“お願い”というよりも“助けて”と言っているように聞こえた。そのすがるような切実な想いに答えるために、僕は姿勢を正すと、さっきからの浮わついた気分ではなく、真摯に受け止めようと心構えをしたうえで、小鳥遊さんに頷いてみせた。

「……分かった。僕で力になれることなら協力するよ。でもその前に、どうして僕なのかもう一度説明してもらえないかな。君と霧絵ミルイの関係も」

 小鳥遊さんは「ありがとうございます」と表情を明るくして続けた。

「私とミルイは、小学校のときからの親友だったんです。

 もともと人と話すことが苦手な私はクラスの中で孤立していて、誰かから話かけられることもなく、かといって私の方からも何と言って話かけていいのか分からなくて、一日中ずっと黙ったまま毎日を過ごしていました。特に嫌いだったのが昼休みの時間で、クラスのみんなが運動場へ遊びに行く中、私だけはいつも何をしていいか分からなくて、手持ちぶさたな時間を埋めるために、図書室で過ごすことがほとんどでした」

 小鳥遊さんはそこで小さく呼吸を整えた。

「昼休みの図書室は、外であまり遊ばなくなった今の私たちにはそれなりに賑わう場所ですが、身体を動かすことに夢中な小学生にはほとんど疎遠な場所でした。そして人のいないその部屋だけが、私の唯一の安らぎの場所だったんです。

 ところがある日いつものように図書室へ行ってみると、そこには私と同じ歳くらいの女の子が、私と同じようにがらんとした部屋でひとりで本を読んでいたんです。戸惑う私に、その子は読んでいた本を持ち上げて私に話しかけてきました。『ねえ、あなたはこの本読んだことがある?』って」

「それが、霧絵ミルイだった?」

 小鳥遊さんは頷いて続けた。

「彼女は私に話しかけるというよりも、まるで物語の登場人物みたいなしゃべり方で、どこか非現実的な、それでいて他の人にはない独特な存在感を持っていました。クラスは違いましたが、彼女も友達がいないらしく、私たちはすぐ誰よりもお互いを信じあう仲になりました。けれど――」

 彼女はそこで再び影を落とす。

「私たちが中学に進む少し前からミルイはだんだん私と距離を置くようになって、帰り道も、休日も、彼女は私を避けているみたいでした。久し振りに会って話をする機会があっても、彼女はいつも何か思い悩んでいる様子で、私が『悩み事なら私が相談に乗るよ』と言っても、ミルイは『ありがとう。でも大丈夫、これは私の問題だから』と答えるばかりで悩みを打ち明けてはくれませんでした。

 そしてあるとき言われたんです。『汐莉のことは、もう友達としてみれない』って……」

 バスの機械式アナウンスが終点を告げ、停留所がだんだんと近付いてくる。

 小鳥遊さんはずっと押し黙ったまま、バスの音や通りすぎるビルの影、傾いた日射しや町の騒音など、周囲を取り巻くあらゆるものから逃げるかのようにその存在感を希薄にさせて、目を離した瞬間に消えてしまいそうなほどに儚い顔で遠くを見つめていた。

 バスが停留所に着いた。機械ではない車掌の声が車内に響き、ドアが開く。

 小鳥遊さんはまだ話を終えていない。けれど僕は言うべき言葉を探し得ることが出来ずに、やむなく席を立った。

 小鳥遊さんも無言で後に続く。

 まだ暑さを引きずったアスファルトに僕が足をのせた瞬間、彼女は後ろで何かを囁いた。

「――え?」

 振り返ると、沈みかけた夕日が影を長くする中、僕たちの間に寂しげな夕風が通り過ぎて、どこからか漂ってくる甘い花の香りとディーゼルの黒い濁った煙が混ざり合う。僕より少し高い位置にいる彼女は、心持ち俯いて、前髪でわずかに顔を隠しながら、ためらっているのか勇気を出しているのか判然としない声音で言った。

「ミルイがどうして私のことを嫌いになったのか……、その理由を、聞いて来てもらえませんか」

 小鳥遊さんの声は震えていた。まるで彼女ひとりだけがバスに取り残されたかのように。

 置いてけぼりにされた子供のように。



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