第6話


 襖ひとつ隔てた向こうから規則正しい包丁の音が聞こえる。僕はまどろみの中で目覚めながら、心地よい朝の涼しさに身を任せていた。眠い目を薄く開くと枕元の時計は八時過ぎを指していて、平日であれば完全に遅刻だけれど、土曜日にしては起きるには早すぎる時間だった。

 隣では寝相の悪い弟が寝ながらタオルケットを撒き散らしている。こいつは今年で中学校を卒業する歳だというのに、寝相の悪さは未だに直っていない。

公営住宅の一室であるせまい我が家には自分の部屋など持てるはずもなく、染みのついた古い壁紙と、箪笥や鴨居にハンガー掛けしてある洗濯物の群れが、寝室と居間と兄弟の部屋を兼ねていた。

 包丁の音が止んで、母は代わりにフライパンで何か炒めているらしい。ジューッというお決まりの音と、しょうゆかソースの焦げる匂いが漂ってきた。

 何となく目が冴えて眠れなくなったので、僕は起き上がった。

「おはよう」

 僕は母親に声をかけて、冷蔵庫から麦茶を取り出した。

「あら、おはよう。今日は早いのね」

「んー」

 ペットボトルに口を付けたまま鼻で返事をする。

「母さんは今日も仕事?」

「うん。昼は帰って来られないから適当に食べて」

「んー」

 僕はもう一口飲んでから冷蔵庫の扉を閉めた。その間も母は忙しなく自分用の弁当と僕たちの昼食を作っていて、それが終わると洗濯物を洗い、休む間もなく家を出て行く。

 父親のいない僕たちの家は僅かな生活保護費と、それよりもさらに僅かな母親のパート収入で何とかしのいでいる状態だった。

「ところで最近ちゃんと勉強してるの? こないだの休み明けのテスト、赤点ギリギリだったじゃない」

 どこの親もそうだと思うけれど、僕の母も話す話題がなくなると決まって勉強の話を持ち出してくる。僕たちの通う学校は普通科の進学校なので、この時期に赤点を取るとなると本格的に進路に響いてくることになる。

 中学のときまではまだ進学するか就職するか決めかねていたので、一応進学校である今の高校を選んだけれど、結局就職することに決めた僕は、今まであまりテストの点を気にしたことがなかった。それでも今回はさすがに遊び過ぎたかもしれない。

「これからするよ」

「いくら就職を選んだからって卒業できないと意味ないんだから。お母さんもあんまり勉強しろ、勉強しろとは言いたくないけれど、せめて平均くらいはとりなさい」

「はいはい」

 母は調理を終えると、フライパンの中身を菜箸で弁当箱に移し変えた。八時半までに家を出なければならないので、いつもより少し急いでいるようだった。

「お昼はいつもの戸棚の中にあるから。それと洗濯物を干しておいて頂戴」

 僕にそう告げて、母は身支度もそこそこに慌ただしく家を出ていった。

 その後僕はぼんやりとテレビを見ながらトーストを食べて、布団をたたみ、あくびをしながら洗濯物を干した。

 気が付くと時計の針は十時過ぎを指していて、穏やかな朝の日が差す窓辺に寝転がりながら、僕は再び眠気に誘われて微睡んでいた。首を巡らすと、真夏であっても決して半袖を着ない弟の寝巻き姿が、先ほどと同じ格好で布団に転がっていた。どうやらまだ起きてくるつもりはないらしい。

 霧絵ミルイから目的も動機も不明なまま一方的に“運命の人”宣言をされてからすでに一週間近くが経過していた。学校にいるときはいつ彼女の不意打ちをくらうかと気が気でないけれど、休日の今日だけは久しぶりにすり減った神経を休ませることが出来そうだ。

 今日一日をどんな風に過ごそうかウトウトと考えていたとき、傍らに置いてあった携帯が着信を告げる音を鳴らした。たぶん杉原だろう。あいつはいつも突然「遊びに行ってもいいか?」と聞いてくる。僕は目をつぶったまま手探りで携帯を取った。

「もしもし……」

「やあ。いかにも眠たそうな声だね。まるで休日をどう過ごしていいか悩みながら居眠りをしているみたいな声だ」

 冷水を浴びた気分というのはこういうことをいうのだろう。全身に寒気が走って、僕は反射的に跳び起きていた。

「霧絵、ミルイか?」

「嬉しいね。初めて私の名前を呼んでくれた」

「どうやって僕の番号を知ったんだ」

「キミの友人に聞いたんだよ。キミの携帯の番号を知らないかと聞いたら喜んで教えてくれたよ。何ていったっけ。松……」

「杉原だ」

「そう。確かそんな名前だった。キミは良い友人を持ってるね」

 杉原のやつ、人に無断で、しかもよりによって霧絵ミルイに番号を教えるなんていったい何を考えているんだ。ややこしいことになるのは目に見えてるというのに。

 僕は小さくため息をこぼして続きを促した。

「それで、何の用だ」

「うん。大した用事ではないのだけれど、今日私とデートしないかい?」

「なっ――!」

 デートという単語に不意打ちをくらわされて、僕は言葉を失った。

 杉原が霧絵ミルイのことでやたらと話しかけてきたのはこれだったのかと今更ながら気が付いて、僕の顔は色んな意味で熱くなっていった。

「突然デートとか、どういうつもりだ」

「そのままの意味さ。それとも“二人きりで何処かへ行かないか”と聞いた方がよかったかな?」

「一緒だ! むしろそっちの方が響きがヤバい。いやそうじゃなくて、いったい何が目的なんだ。どうしていきなりデートとかいう話になるんだ」

 まずい。自分でも分かるくらい相当焦ってる。早口で呂律がきちんと廻っているのかも怪しい。

「私たちはお互いをもっとよく知るべきだと思うんだ。気付いてないようだからあえて言うけれど、キミが私の運命の人だということは、私もキミの運命の人だということなんだよ?」

「そっちこそ気付いてないようだから言わせてもらうけどな、お前の勝手な妄想に僕を捲き込むな。はっきり言って迷惑だ」

 僕がそう告げると、霧絵ミルイはわずかな間沈黙したあと、急に声を潜めて小さく呟いた。

「……うん。そのことは本当に申し訳なく思ってる。いずれ必ずお詫びをさせてもらうよ。でも今はまだ私に付き合ってもらえないかな。

 いつでもいい。キミの都合のいい時間に駅へ来てもらいたいんだ。……私はずっと待っているから」

 そう言って彼女は電話を切った。いつもの彼女らしくない殊勝な物言いに僕は毒気を抜かれて、しばらくの間切れたままの携帯をずっと耳に当てていた。

 ツー、という音がようやく頭に入ってきたころ、僕は携帯から耳を離した。

「……なんだよ」

 まるでこちらが悪いことを言ったかのようで、苛立ちと戸惑いとを当て付けるように、僕は携帯の電源ボタンを乱暴に何回も押し続けた。

 そのまま仰向けに寝転がって窓越しの蒼い空を見上げる。本領を発揮し始めたばかりの夏の空には真っ白な入道雲が広がっていて、今日も暑くなりそうだなと思ったら、ふいに寂しそうに独りで佇んでいる霧絵ミルイの姿が思い浮かんだ。

「ふん……」

 僕は右手に握ったままの携帯へ向かって言い放った。

「絶対に、行かないからな」



 現在の時刻、十一時五〇分。一日を焦がし始める太陽は高く空に輝き、アスファルトに陽炎を揺らめかせている。僕は上下から熱放射を浴びて粘りつくシャツを何度も扇ぎながら、駅から溢れ出る人の流れに逆らって気の向かない足を構内へ向けた。

 どこかのホームに電車が停まったばかりらしく、改札を抜ける人の群れが絶え間なく流れをつくる。そのうちの何割かは駅の商店街へ向かい、飲食店が立ち並ぶ通りは徐々に賑わいを見せ始めていた。

 僕は同年代の学生らしき男女のグループが騒ぎながらマクドナルドへ入ってゆく姿を見送ってから、今の自分を省みた。

「何やってんだ、僕は」

 ため息混じりの台詞はこれで何回めだろう。駅は人口の割に比較的大きく、また休日であることもあってか、構内は老若男女さまざまな人たちでごった返していた。吹き抜け構造になっているはずなのに、通り抜ける風は熱気で湿っぽく、汗で張り付いたシャツだけが冷えてかえって気持ち悪い。大声ではしゃぐ子供をたしなめる親子連れや、ハンカチで汗を拭くサラリーマンの群れが目の前を横切ると、気だるさがいっそう助長されてゆくようだった。

 僕は自販機と並んで背中を壁に預けた。そのままずるずると座り込んで、右へ左へ流れてゆく人たちを眺めながら、改めて今自分がここにいる理由を思い返した。

 あの日、小鳥遊さんに「霧絵ミルイが自分を嫌いになった理由を聞いて来てほしい」と頼まれたとき、僕には黙って頷くことしか出来なかった。正直に言えば霧絵ミルイとはもう係わりたくなかったけれど、それでもそこで無下に断ることは、小鳥遊さんにとってあまりに酷なように思えたのだ。たったひとりの親友から一方的に断絶宣言をされ、理由も分からないまま何年も孤独に過ごし、ようやく僅かな希望を見出だしてすがるような思いで僕に話しかけて来たというのに、どうして断ることなど出来るだろう。

 霧絵ミルイから電話がかかってくるまでは「とはいえ、どんな風に聞き出せばいいんだろうか」と悩んだけれど、考えようによっては今の状況は渡りに船だともいえる。――デートという呼び方が大分アレではあるけれども。

 ともかく、今日一日で出来る限り霧絵ミルイが小鳥遊さんについてどう思っているかを聞き出さなくてはならない。そのためにあえて誘いに乗ったのだから。

 目の前を横切る人の波に針を刺すように、彼女が少し離れたところから真っ直ぐ僕の方へやって来る。俯いた姿勢のままでも、霧絵ミルイの存在は確かにそこに感じられた。

「キミもいじらしいね。着いたのなら電話のひとつくらい寄越してくれればいのに」

 その声に顔を上げた僕は、彼女の私服姿に驚いた。裾の片方を絞ったデザインシャツに細身の七分丈パンツ。足元はヒールの高いミュールで固め、細い首や手首を大振りのネックレスや重ね着けしたブレスレットが飾る。まるでファッション雑誌からモデルがそのまま抜け出したかのようで、僕は思わず言葉を失ってしまった。

「どうしたんだい? まさか私の姿に見とれてしまって声も出ないとか?」

「そんなんじゃない」

 霧絵ミルイは、おどけてモデルのポーズをとりながら僕へ流し目を向けてくる。元々容姿が優れているので、その様がいちいち似合っていて、僕はどぎまぎする心を立ち上がる動きにごまかして、目を逸らした。

「へえ……そう。それは残念」

 彼女は訳知った風にクスクスと微笑う。薄く重ねた頬紅と淡い口紅が彼女の整った目鼻立ちを際立たせ、濃い化粧よりもかえって大人びて見える。それに比べて僕の方は垢抜けのしないTシャツに安物のデニムで、何だか並んで立つのが恥ずかしくなってきた。

「ずっとここにいても仕方がないから、とりあえず食事にでもしようか」

 そんな僕の気持ちにはおかまいなしに、霧絵ミルイは飲食街へ向けてさっさと歩き始める。

 会ってから一分足らずで既に主導権を握られてしまったことに情けないため息をひとつつくと、僕は小走りに彼女の後を追った。

 ふと、僕が来なかったら霧絵ミルイは本当に何時間でも待ち続けるつもりだったのだろうかと、彼女のほんの少し後ろを歩きながら、そんなことを思った。



 霧絵ミルイに付いて入ったのは、多分僕ひとりだったら一生縁がなかっただろうと思うようなおしゃれなカフェで、華やかさに気後れしている僕を尻目に彼女は慣れた風に席に座ると、やって来たウエイターへメニューも開かずに注文をした。慌ててメニューを開こうとする僕に、彼女は「キミの分も頼んでおいたよ」と席から離れるウエイターを目で追う。このときばかりは彼女の横暴さに少し感謝した。何せ僕にはこの店の名前さえ――流麗なアルファベットの筆記体で書かれていた――英語なのかフランス語なのか、さっぱり分からなかったのだ。

「今日は突然呼び出してすまないね。どうしてもキミに確認しておきたいことがあったんだ」

 霧絵ミルイは特に悪びれた様子もなく言った。彼女に小鳥遊さんのことを聞くにはどんな風に話を切り出せばいいか、そればかりを考えていたためについ失念しかけていたけれど、彼女は何らかの思惑があって僕を呼び出したのだ。

「……確認したいこと?」

 嫌な予感を感じつつ問うと、霧絵ミルイは少し身を乗り出して上目使いに僕を見た。どことなく怒っているような、拗ねているような曖昧な顔つきをしている。

「キミは私の言ったことを信じているかい?」

「……いや」

 彼女の言ったこととは、僕が彼女の運命の人ということだろうか、それとも

物語を現実にしてしまうという彼女自身の能力のことだろうか。どちらにしても信じられるような話でないことは確かだ。

「そう言うと思ったよ」

 ため息混じりに霧絵ミルイは持っていた手提げのバッグからノートを取り出した。それをぱらぱらとめくり、最新のページを出すと、開いたままのノートを僕に見せるように渡してきた。

「これは?」

「今日のために書いてきた物語だよ。キミに私のチカラを信じてもらうにはどうしたらいいか色々と考えた結果、私と一緒に一日を過ごしてもらうのが最善なんじゃないかって思ったんだ。そしてそのためにはあらかじめ物語を知っておいてもらう必要がある。先に物語を提示しておけば、後から書いたとは言えないだろう?」

 突然「デートをしよう」などと言って人を動揺させ、次の瞬間には急に素直に謝罪してますますこちらを戸惑い、混乱させて、それでも「駅に来てほしい。ずっと待っているから」と寂しげに僕に頼んできた霧絵ミルイ。

 相も変わらず何を考えているのかわからない彼女に振り回されて、それでも僕は今ここにいる。

「……それじゃ、今日呼び出したのもその“チカラ”を僕に信じさせるために?」

「そのとおりさ」

 彼女が不敵に微笑う。あまり腹が立たないのは、小鳥遊さんのことを聞くためにこの機会を利用したという、若干のうしろめたさがあるのかもしれない。

 交換条件として彼女に小鳥遊さんのことを聞いてみようかとも思ったけれど、小鳥遊さんはどことなく自分のことを秘密にしておいてもらいたい様子だったので、今は黙っておいた。そうでなくてもデリケートな問題であることに違いはなく、気軽に話題にすることは出来ない。

「とりあえず読んでみて、感想を聞かせてみてくれないかな」

 渡されたノートには、霧絵ミルイによって創られた「物語」があった。そこには少年と少女が奇妙な人物に誘われて街路をさまよい、不思議な場所へたどり着くという話/場面が描かれていて、前回の「屋上で運命の人と逢う」という話と比べてみても、かなり現実離れしているように思えた。

「何だかずいぶんファンタジックな話だな。『不思議の国のアリス』じゃあるまいし」

「そのアリスをモデルにして書いたんだよ。言っただろう? キミに私のチカラを信じてもらうって。あまり簡単な話じゃ、また偶然で片付けられるし、私の方が物語に合わせて行動しているととられても心外だ。だから少々非現実的な物語を創ったのさ。これが現実になったとき、他に言い訳が立たないようにね。もっとも、キミの言うとおりいささか現実世界から剥離したようなお話だから、どの程度まで現実になるかは分からないし、全く何も起こらない可能性も十分あると思う。それでも、今日一日付き合ってくれるかい?」

「……そのつもりでなければ最初から来てないよ。家を出るときに覚悟してきた」

 ある種の諦念を込めて僕が言うと、霧絵ミルイは「本当かい?」と少しほっとしたような声で、ぱっと無邪気に相好を崩した。

「ありがとう。正直にいってキミは怒って帰っちゃうんじゃないかと不安だったんだ。私は今とてもうれしいよ」

 僕としては、小鳥遊さんとのことを聞くために霧絵ミルイと一日過ごすことを決めたのだけれど、子供みたいに微笑う彼女を見ていると、胸の奥の方で生まれた小さな罪悪感が心を揺さぶった。

「……まあ、少しくらいなら付き合ってやってもいいか……」

 どのみち小鳥遊さんのことを聞くには、ある程度、間が必要だ。唐突に質問しても不自然だし、警戒するかもしれない。

 時間はある。適当に彼女に付き合って、タイミングを見極めながら話の出来る流れに持っていくとしよう。



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