第7話
霧絵ミルイとの昼食を終えて、これからどうするかという話になった。彼女の誘いがあまりに唐突だったので、僕の方はどこに行くかなどは全く考えていなかったけれど、とりあえず電車で二十分ほど離れた街にある大型ショッピングモールへ行くことにして、僕たちは店を出た。
エアコンの効いた店内から蒸し暑さが通り抜ける駅構内を歩き、再びギンギンに冷えた車両に乗ると、暑くなったり寒くなったり、何だか身体の調子がおかしくなりそうだった。そんな僕とは対照的に、霧絵ミルイは汗ひとつかかず、ドア付近の二人がけの椅子に澄ました顔で座っている。
時間帯がそうなのか、構内の人の数に比べて車内は意外なほど少なかった。霧絵ミルイが座っている席も当たり前のように空いていたが、僕は彼女の横でドアに背をもたれて立っていた。
「そんなところにずっと立っていないで、私の隣に座ればいいのに」
「遠慮しておく」
この距離からでも香水の甘い香りが漂ってくるのに、隣になんか座れるわけがない。
「奥ゆかしいんだね。キミは」
ふふっと微笑む霧絵ミルイへ向けて、窓から射し込んだ夏の陽光が延びる。
明るく照らされた顔と、上目使いに僕を見る彼女の瞳がまぶしそうに細められて、再び気持ちがおかしくなってくる前に、僕は視線をさりげなく逸らした。
「そんなことより、このあとのこときちんと考えているのか」
「いいや。まったく考えていない。まあ適当に店を回ってみようよ」
「適当に、ね。女ってどうして買う物もないのにショッピングとかしたがるのか、理解に苦しむよ」
「わかってないね。買う物がないからこそ、意外な収穫があったときの喜びが大きいんじゃないか」
「女の買い物が長いのはそれが理由か……。最初から買うものを決めておけば短くてすむのに」
「もちろん目当ての品物は決まっているよ。だけど、せっかくなら色々と見て回りたいじゃないか。というか、男ならそれくらい許容するべきだよ。じゃないと器の小さい男だって思われちゃうよ」
「お前限定なら器が小さくてもかまわないと僕は思う」
「そういうの、何ていうか教えてあげよう。ツンデレっていうのさ」
「誰がツンデレだ!」
「ふふふっ」
そんな他愛もないやりとりを途切れ途切れにつなぎあわせながら、やがて電車は目的の駅に着いた。乗るときこそ人が少なかったものの、駅を通過してゆくにつれて徐々に乗客が増え始め、それらの人の多くが僕たちと同じ駅で降りた。おそらく目的地が同じなのだろう。
そのままロータリーからバスに乗り、案の定バスは通路にまで人をいっぱいに乗せて、住宅と雑木林がいり組んだ細い道を抜けてゆく。
「ほら、早く座らないと他の人の迷惑になるよ」
どこか嬉しそうに告げる霧絵ミルイにうながされて、僕はしぶしぶ彼女の隣に座った。香水の甘い香りに惑わされそうになりながら、僕は窓側に座った彼女を出来るだけ意識しないように通路側へ顔を向けた。
「ねえ見てよ。変てこな形の建物があるよ」
「ああ」
「あの綺麗な花は何ていう花なのかな」
「さあな」
「雲の合間から日の光が射して、とても幻想的な光景が拡がっているね」
「そうだな」
構ってもらいたい猫のように、何かしら理由をつけては自分の方へ意識を向けようとする霧絵ミルイだったが、僕は無視を決め込んだ。
「全然見てもいないのに適当な返事をしないで欲しいな。少しはこっちを向いたらどうだい?」
拗ねた声で彼女が言う。
「断る」
「どうしてさ? そんなに私のことが嫌いなのかい? 傷つくね」
「別に嫌いじゃない。ただ、お前と話しているといつもペースを奪われてばかりだからな」
僕が顔を背けたまま答えると、彼女は意味ありげに「ふうん……」と呟いて黙ってしまった。何かたくらんでいるのかもしれないが、彼女の方を向いて確かめたりはしない。
正直、話くらいはしてもいいように思わなくもないけれど、電車の中でそうであったように、このまま主導権を握られ続けていては小鳥遊さんのことを聞けなくなる。なんとしてもこちらの有利になるように会話を誘導しなくてはならな――。
「それで? 私からペースを奪ってどうするつもりなのかな?」
すぐ耳元で声がして首筋から鳥肌が立った。身体が通路側を向いたまま硬直してしまって振り返ることが出来ないが、霧絵ミルイはかなり近くに顔を寄せているのではないだろうか。
「どうって、それは……」
彼女からペースを奪うと決心した途端にこれでは先が思いやられる。ここで流されてはいけない。凛とした態度で冷静に対応すれば問題ないはずだ。
僕は息を吸い込んで振り返った。
「お前な――」
瞬間、目の前に霧絵ミルイの顔があった。二〇センチも離れていない距離でお互いの視線がぶつかる。睫毛の長い、黒目の大きい瞳に見つめられて、僕は次の言葉を失った。
「やっと私の方を向いてくれたね」
僕は悟った。何をやっても彼女には勝てそうにもない。
うなだれた僕の前で、勝ち誇るでもなく、皮肉でもなく、素直に嬉しそうに彼女は小さく微笑う。
正直その笑顔は反則だと僕は思った。言い返してやりたい気持ちや悪態を含んだ言葉が一瞬で奥の方へ引っ込んでしまう。
わずかに残った不愉快な気分も、バスが大きくカーブしてショッピングモールの停留所へ止まると、他の乗客のざわめきや周囲の雑踏にまぎれて、すぐにかき消えていった。
ショッピングモールは二階建ての吹き抜け構造になっていて、長方形の建物の中にいくつもの商店が軒を連ねている。その数はゆうに百を越え、一日で全てを回ることは不可能なくらいの規模を持っていた。
天井部分には磨りガラスの天窓がはめこまれ、突き刺すような真夏の暑い日射しも、ぼんやりとやわらいだ明かりになって店全体を照らしている。それらの穏やかなひかりと所々に置かれた観葉植物が、大勢の人でごった返しているモール内の緊張をときほぐし、圧迫間や閉塞感を感じることもなく、来た人たちはリラックスした気分で各店舗を回れるのだった。
とはいえ、それらはあくまで建物の構造の話に過ぎない。人混みが苦手な僕にとっては、いくぶん緊張感は和らぎはするものの、やはりまいってしまうことに変わりはなかった。
「さて、まずはどこから巡ってみようか」
霧絵ミルイはそう言ってマイペースに歩き始めた。軽快な曲にのせて「毎月十日と二十日は五%引きデー!」と流れるアナウンスや、レストラン街の雑多な料理のにおいが漂う中、目の前を行き交う若いカップルや子供連れの夫婦、初老のおじさんから中年のおばさんに至るまでの人の流れを、彼女は器用にすり抜けてゆく。
僕は何度も川のような人の壁にぶつかり、その度に「すみません」と繰り返しながら何とか彼女の後を追った。
「やっと来たね。あんまり遅いから、ひとりで入ろうかどうしようかと考えていたところだよ」
ようやく霧絵ミルイに追い付いたとき、彼女はレディースの服やアクセサリーを取り扱っている店舗の前で僕を待っていた。
「ひとりで入っても何も問題ないと思うが?」
「大ありさ。まだまだ立ち寄りたいお店がたくさんあるんだから、買い物袋を持ってもらわないと」
僕はお前の荷物持ちじゃないと言いかけてやっぱりやめた。というかこの後のことは何も考えていないと言っておきながら、しっかりと予定を立てていたらしい。相変わらず素直じゃないというか、ひねくれているというか。
「ほらほら。早く行くよ」
こうなったらとことん付き合う他ない。僕は今一度諦めのため息をはいて、彼女に従った。
その後、ブティックを何軒か回り――強引に連れて入られそうになったけれど、下着ショップだけは何とか踏み留まった――雑貨やぬいぐるみを扱う店、CDショップやゲームセンター、楽器店にも行ってみた。それらの店に入るたびに店員に恋人同士と間違われ、僕はいちいち否定しなくてはならず、面倒になって最後の方は適当に流しておいた。
それでも彼女は僕が思っていたほど買い込むこともなく、時々服を自分に当てては「これ、似合うかな?」と僕に聞いて来たり、気に入ったぬいぐるみを抱きながら値札を見てがっかりしてみたり、楽器店に置いてあったピアノを弾いたりしていて、その様子には奇抜な言動をする“学校の霧絵ミルイ”の面影は微塵もなく、どこから見ても普通の女の子だった。
また、彼女の言う「物語が現実になる」という話も、それとなく注意していたけれど、霧絵ミルイが意図的に自分の創った物語と現実が重なるように僕を誘導したり、ありふれた出来事や物事を都合のいいように拡大解釈するようなことも一切しなかった。
僕は霧絵ミルイの横を歩きながら、いったい彼女の目的は何なのだろうかという、最初の疑問を再び考えていた。
「物語を現実にしてしまうということを信じてもらう」今日の目的はそういうことなのだろう。問題はその後だ。
――僕にそれを信じさせた後、彼女はどうしたいのだろうか?
――別の言い方をすれば、彼女は何の理由で僕にそんなことを信じさせようとしているのか?
――なぜ僕が“運命の人”で、それが彼女の目的とどう結び付くのか?
霧絵ミルイと中庭で話したときは「そのうちわかる」と言ってはぐらかされてしまったけれど、これからも僕につきまとってくるのなら、一度きちんと問い質しておくべきかもしれない。
とはいえ、まずは小鳥遊さんのことを聞くのが先決だ。霧絵ミルイに振り回されているうちに、いつの間にか僕自身も居心地がよくなって、小鳥遊さんのことをほとんど忘れかけてしまっていた。色々と気になることは多いけれど、これ以上彼女のペースにのまれる訳にはいかない。
「少し本屋へ寄って行かないか」
本を口実にすれば小鳥遊さんのことを聞き出せるかもしれないと思って、僕は霧絵ミルイに声をかけた。
「いいね。私も今そう言おうと思っていたところだよ。ここの本屋は大きいから好きなんだ。ここへ来たら必ず立ち寄るようにしているんだけれど、いつ来てもワクワクするね」
僕の横を歩きながら彼女はわずかに高揚した様子で、語りかけるようないつもの口調も少し上擦っている。思っていたとおり本が好きなようだ。
店舗は扉がなく、通路に面したオープンな造りで、着くなり彼女はまっすぐ文庫コーナーへ早足で行った。
「なあ、お前って普段どんな本読んでるんだ?」
霧絵ミルイは、その白く細長い指を頤にあてて、心持ち前屈みになった姿勢で本のタイトルを追っている。
「特にこれといったジャンルはないよ。あらすじを読んで面白そうなやつをそのときの気分で読んでいるんだ。夢野久作や江戸川乱歩といった怪奇小説から泉鏡花や内田百間といった幻想文学、宮沢賢治や稲垣足穂、児童文学なんかも好きだね」
彼女は視線を本棚に向けたまま、普段より饒舌な言葉をさらに続けた。
「小説や映画が好きな人っていうのは、大きく分けて二種類の人がいると私は思うんだ。ひとつは現実に近い物語を好む人。もうひとつは現実には絶対に起こり得ないような物語を好む人」
「なるほど。お前は後者ってわけか」
「いいや」
霧絵ミルイは手にした文庫本から視線を僕に移すと、どこか得意気な微笑みを浮かべながら言った。
「私が好きなのは、そのふたつの狭間の物語さ。現実と非現実が曖昧になった中に私の物語があるのと同じようにね」
「結局そこに行き着くのかよ」
嘆息混じりの僕の反応に、霧絵ミルイは得意気に片眉を上げて答えた。
僕たちは一時間ほど店内を巡って回り、その後レジで精算を終えると、買った本を読むことにして、本屋と地続きのブックカフェに入った。
カフェは簡単な間仕切りと数脚のテーブルにカウンター席があるだけの小ぢんまりとしたもので、床も壁もレンガ色のパネルで覆ってあるせいもあってか、大勢の人を見ながらも、どことなく秘密基地のような佇まいがあった。
僕たちは適当な席に対面で座り、彼女は紙袋から今買った一冊を取り出した。
「アイスティーをお願い」
「僕はコーヒーを」
シックなエプロンを着けた若い女性店員が無言でお辞儀をしてカウンターへ戻って行く。シナモンとナツメグのスパイシーな香りに乗せることで、僕は頭の中で考えていた台詞を何気なく言えた。
「お前が創った物語のノート、もう一度見せてくれないか?」
「どうして?」
「今のところ、お前の言う物語に符号するようなことが起こってないから、もう一度確認しておこうと思ってね」
霧絵ミルイは本に視線を落としたまま答えた。
「見せてもいいけれど、前の方のページは見ないでおくれよ」
「それはかまわないけれど、どうして?」
「まだ物語を書き始めたばかりのころの作品が詰まっているからね。未熟で稚拙だから読まれるのは恥ずかしいんだ」
「へえ。お前にも人並みに恥ずかしく思うことがあったのか」
「失礼だねキミは。私だってうら若き乙女なんだよ?」
「分かった分かった。前の方は見ないよ。ていうか、自分で乙女とか言うな」
彼女は少しふくれた顔をしながらも「約束だよ」と言って、鞄からノートを取り出した。それから自分で一番新しいページを開いて僕に渡すと、再び本に視線を戻した。
僕は彼女のノートに書かれた物語をもう一度読んでみた。
僕と霧絵ミルイに見立てた少年と少女――名前は書かれていない――が、何かに追われるように、囃し立てられるように路地を駆け抜けるところから“物語”は始まっている。走る二人の先、二十メートルほど前を、男とも女ともつかない奇妙な出で立ちをした人物が朧気に佇んでいる。彼は二人との距離を一定に保ちつつ、近付いては遠ざかり、遠ざかっては立ち止まりを繰返しながら、二人を誘うように薄暗い路地を進む。
少年と少女は彼を見失わないようなんとか追いかけて行く。あたかも逃げ道を先導する仲間に必死で追いすがる脱走者のように、路地を右へ曲がり、左へ曲がり、迷い込み、誘われ、たどり着いたその先は――。
そこまで読んで僕はノートを閉じた。いつの間にか彼女の物語に引きずり込まれそうになっていて、踏み込んではいけないラインのギリギリ一歩手前で止まったという感じだ。
そもそも物語と呼ぶにはあまりにも中途半端な、掌編ですらない、空想から切り取られただけの一場面でしかない散文が、どうしてこうも気を惹き付けるのだろう。主人公の目的も世界観の設定も不明で、ストーリーすらなく、始めから突発的で、行き当たりばったりな展開であるにもかかわらず、霧絵ミルイの書いた“物語”には何か得体の知れない現実味があった。喫茶店で最初に読んだとき、あまり深く読み込まず流し読みで終わらせたのも、無意識のうちに警戒していたのかもしれない。
「アイスティーとアイスコーヒーお待たせしました」という店員の声で、僕はハッとした。どうやらまたも本来の目的を見失いかけていたらしい。いいかげん、小鳥遊さんのことを切り出さなくては。
「……なあ、お前って普段からこういうのばかり書いてるの?」
ノートを借りたのはこの言葉のための布石だったが、そのノートは今僕の掌の下で封印されている。
「そうでもないよ。どちらかといえば、いつもは本を読んだり映画を観たりしている方が多いと思う」
「友達と遊んだりとか、しないのか?」
「しないね。私にはそんな親しい友人もいないし」
「そんなはずはないだろ」
澱みなく静かに文字を追っていた霧絵ミルイの手が、ページの端を掴んだまま一瞬止まった。俯き加減の顔にどんな表情を浮かべているのかは、よく見えない。
僕は内心、しまったと思った。しかしもう後には退けない。ここから切り込んでいくしかない。
「一緒に買い物したり本や映画の感想を言い合ったりする友達とか、誰かいるだろ」
「……どうして、そんなこと聞くの?」
彼女の声のトーンが、ひとつ下がっている。
「別に。何となく気になっただけだけど」
霧絵ミルイは本に視線を落としたまま何も答えない。アイスティーの氷がピシッとひび割れる。
そのまま二人の間に気まずい沈黙が流れ、やはり失敗したかもしれないと僕が焦り始めたとき、彼女がぽつりと呟いた。
「……いたよ」
「え?」
「友達」
霧絵ミルイの声はほとんど聞こえないくらい小さく、店内に薄くかかった音楽にさえかき消されてしまいそうなほどだった。彼女がページをめくる音が、どこか棘を含んだように聞こえる。
「へえ。やっぱりお前みたいに変わったやつだったのか?」
緊張に速まる鼓動を感じながら、僕は努めて明るく茶化すように言った。
「それともお前の奇行を赦してくれるような菩薩みたいな人だったとか?」
勘のいい霧絵ミルイに不審がられないよう、慎重にいかなくてはならないが、遠回しな表現を使い過ぎても満足な答えは返ってこない。
いずれにしてもここで霧絵ミルイが何と答えるかで、彼女が小鳥遊さんのことをどう思っているか、あるいは小鳥遊さんに対する態度や姿勢というものがある程度推し測れる。
僕はコーヒーを一口飲んで答えを待った。口の中に苦みが徐々に拡がってゆく。
「……そうだね。私は小さい頃から、いわゆる普通の人とはかけ離れていたから、好かれることよりも嫌われることの方が多かったんだけれど、彼女だけは変わらず私を慕ってくれた。私にとってはたったひとりの親友だった」
霧絵ミルイの声には、昔を懐かしむ想いとは別に、どこか痛みを我慢しているような、切実な響きがあった。
「一緒に本を読んだり、食事をしたり、出掛けたり、笑ったり、喜んだり……。彼女との想い出は楽しいことばかりで、私は彼女のことが大好きだった」
――それなのにどうして――。という言葉をぎりぎりで飲み込んで、僕はさりげなさを装いながら核心に触れる言葉を口にした。
「……それで、その娘とは今どうしてるの? 気になっていたんだけど、ずっと過去形で話してたよね」
これで霧絵ミルイが何らかの答えを聞かせてくれれば小鳥遊さんとの約束を守れる。そのことが小鳥遊さんにとって良いことなのか悪いことなのか、今の僕には判断がつかないけれど。
「喧嘩でもしたの? それとも嫌いになった、とか」
「嫌いになんてなるはずがない。彼女はいつだって私を笑顔で迎えてくれた。私たちは姉妹も同然だったんだ」
それまで消極的にぽつぽつと話していただけだった霧絵ミルイが、このときだけは強く首を左右に降り、はっきりとした声で否定した。
小鳥遊さんを嫌っていないことはこれで確かになったけれど、彼女を遠ざけるようになった理由がますます分からなくなった。
「なら、どうして……」
霧絵ミルイは再び黙ってしまう。相変わらず俯いたまま、しかし本に視線はそそがれていない。彼女の視線の先は、自身の心の奥に向けられているように思われた。
「……キミは友達に対して、“この子はどうして自分の友達なのだろう”と考えたことはあるかい?」
迷っていたのか、言葉を探していたのか、霧絵ミルイは僕の質問には答えず、逆に謎めいた問いかけをしてきた。俯いていた顔が、今は真正面から僕をとらえている。
何か答えなくてはいけない。彼女たち二人の間に横たわった確執の源を、霧絵ミルイは僕の返事の中に指摘してもらいたがっている。
そこまで分かっていながら、しかし情けないことに、僕には彼女が言うようなことなど考えたこともなかった。
だから僕は自分の正直な心情と、彼女が言ってもらいたがっているであろう言葉を推測して加味しながら、霧絵ミルイの瞳から視線を反らさずに言った。
「さあね。そんなこと考えたこともない。でも友達になるのに“どうして”なんて理由が必要なのか? お互いがお互いを必要としていれば、それでいいと僕は思うけれど」
霧絵ミルイは曖昧に頷くと、肯定とも否定ともつかない寂しそうな微笑みを浮かべた。視線は再び落とされ、しかしその先はやはり本には向いていない。
「……そうだね。その通りかもしれないね」
どこか自嘲気味に呟く彼女に、僕はさらに踏み込んでいった。
「いったい何があったのか、話してみないか? 力にはなれないかもしれないけれど、誰かに話すだけでも楽になると思う」
今度の沈黙は長かった。霧絵ミルイは彫刻のように微動だにしなかったが、やおら手を伸ばすと、彼女は逃げるようにアイスティーで言葉を飲み込んだ。
「……甘いね」
半分ほどになったグラスには、ひび割れ、溶けかかった氷が浮き沈みしている。
汗をかいたグラスを握りしめて、彼女は表情を変えることなく呟いた。
「私もコーヒーにすればよかった」
それきり霧絵ミルイは再び本に意識を向けて、僕には何も語ろうとしなかった。僕が何か話のきっかけを探ろうとしても「すまないけれど、読書に集中したいから少し静かにしてもらえないかな」と、とりつくしまもなく、ただ時間だけが静かに過ぎていった。
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