第8話




「んっ……」

 霧絵ミルイが小さく伸びをして、本を閉じた。店に置いてあるレトロな柱時計がボンとひとつ鳴って、四時半を指している。僕たちは黙りこくったまま、気付けば一時間以上が経過していた。

「つい読み耽ってしまったね。そろそろ出ようか」

 彼女が本を読んでいる間、僕は頭の中で何度も言葉をこねくりまわしていたけれど、やはりどう考えても終わってしまった話題を再び会話に持ち出すことは無理があるようで、小鳥遊さんと霧絵ミルイとの過去について、具体的なことは何ひとつ聞き出すことが出来ないままだった。霧絵ミルイがどうして小鳥遊さんを突き放してしまったのか、肝心の部分は未だ彼女の心の中だけに隠されていて、結局、本当のところは何も分かっていない。

「どこか行きたい所があるかい?」

 それでもひとつだけはっきりしたことがある。彼女は決して小鳥遊さんのことを嫌いになった訳ではないということだ。

「ねえ聞いてる?」

 しかし嫌いになっていないにもかかわらず、親友と半ば絶交しなくてはならない理由とはいったい何なのだろうか。

 彼女がさっき言っていた“友達がなぜ自分の友達なのか”という問いに何か重要なヒントが隠されているように思えるけれど――って。

「近い近い近い!」

 いつの間にか霧絵ミルイの顔が目の前に迫っていた。対面の椅子から身体を乗り出して、屈み込むように僕をジッと見つめている。というか、あまり前屈みになるな。胸元が気になって仕方がない。

「もう、何をボーっとしているんだい。せっかくキミの行きたい所はないか聞いてあげたのに」

「え……? ああ、悪い。……でも特にないかな」

 それ以前に思考の切り替えが急には出来ない。

 霧絵ミルイは小さくため息をつくと、少しだけ残念そうな顔を浮かべて言った。

「それじゃ、もう帰ろうか。電車の時間もあるし、テストも近いから勉強もしなくちゃいけないし」

 そうだ。彼女の言う通り、そろそろ試験週間に入る。僕は進学しないと決めた時点で勉強を半ば放棄したので、当然のごとく成績が芳しくない。受験をする連中から比べればいくぶん余裕があるとはいえ、遊んでばかりもいられない。単位を取らなければ卒業も出来ないし、今朝母親に言われたばかりでもある。

「……そうだな」

 勉強のことを思い出した途端、気が滅入ってきた。

 仕方がない。今日のところは霧絵ミルイが小鳥遊さんのことを嫌っていないということが分かっただけで、良しとしよう。……あまり成果とはいえないけれど。

 それから僕たちは店を出ると、バスに乗ってショッピングモールを後にした。十分ほどで駅に着き、湿っぽい風が停滞するホームに並び立って次の電車を待つ。わずかな数しかないベンチはすでに最初に来た人たちに占められていて、多くの人は僕たちと同じように立っているか、壁や自販機に寄りかかって電車を待っていた。

「そういえば」

 ふと思い出して僕は霧絵ミルイに向いた。彼女が小首をかしげて疑問形の顔になる。

「結局、お前の書いた物語は現実にならなかったな」

「仕方がないさ。キミに信じてもらいたかったけれど、現実になるかならないかは私が決める訳じゃないし」

「意外だな。もっと慌てたり残念がると思っていたのに」

「残念である気持ちに変わりはないよ。でもこういう事態も予測していたし、次の機会に楽しみが伸びたと思えば」

「また僕を巻き込むつもりかよ!」

 霧絵ミルイはクスクスと上品に微笑う。けれどもその笑顔はいつもの悪戯っぽい笑顔よりも少しだけ翳りを帯びていて、どこか寂しそうに思われた。

 今日一日付き合わされて気付いたことがある。霧絵ミルイはふとした瞬間に――それは何でもない会話の途中だったり、僕のことをからかって笑った後だったり、あるいは単に黙っているときだったりと様々ではあるけれど――隠しようのない憂いを見せる。

「なあ――」

 と、彼女に声をかけたところで、電車が来たことを告げるメロディに遮られてしまった。

 続く言葉は、電車のブレーキが発する金切り音や、開くドアの音、乗客の足音などにかき消されて、仕事帰りの人たちで混む車内の空気にまぎれていった。

 わずかに空いたひとり分の座席へ霧絵ミルイを座らせると、彼女は疲れていたらしく、すぐに寝息を立て始める。知らない乗客の間にはさまれて、買い物袋を膝に抱えて揺られている霧絵ミルイは、どこか孤独に耐えているようにも見えた。



 駅を降りると、紅かった空は薄墨色に染まろうとしていた。辺りはまだ明るさを残しているものの、所々で影が濃くなり始めている。

「今日は私に付き合ってくれてありがとう。とても楽しかったよ」

 霧絵ミルイは自転車を押しながら駐輪場の入り口へ向かう。

「キミはどうだった? 私と一緒にいて楽しかったかい?」

 どうなのだろう。正直よく分からない。ただ、不快ではなかったのは確かだ。

 僕は彼女に付き添いながら、少し考えて一言「まあ」と曖昧に返事をした。

「その様子だと、やっぱり迷惑だったみたいだね。ごめんよ。私のせいでせっかくの休日を台無しにしてしまって」

 霧絵ミルイが自嘲気味に苦笑いする。寂しそうな、申し訳なさそうな顔が暗くならないよう、必死にごまかしながら。

「あ、いや……」

「それじゃ、今日は本当にありがとう。また学校でね」

 それは違うと言う前に、霧絵ミルイは自転車に乗って夕闇の中を去って行った。そんなつもりじゃなかったのに。思いもよらないことで僕は彼女を傷付けてしまったのかもしれない。

 思えば今日一日、僕はずっと霧絵ミルイにつらく当たりすぎていたのかもしれない。彼女が時おりみせる悲しそうな顔は、僕の知らないところで彼女が本当に傷付いていたからではないだろうか。

 そもそもどうして僕は彼女に対して刺々しい態度を取り続けていたのだろう。やたらと絡まれて、翻弄されて、遊ばれているから? しかしそれらが決して不快ではなかったことを今さっき自分で認めたばかりではないか。

 そんな自分の気持ちさえはっきりとしない中で、霧絵ミルイに対する自分の態度だけは、後悔という名の小さな棘ではっきりと僕の心を刺し、ジワジワと膿を拡げるのだった。

 自転車で去ってゆく霧絵ミルイは、棒立ちで見送る僕の視界からどんどん小さく離れていって、やがて黄昏時の陰に溶け入るように見えなくなった。



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