第43話




 彼女が背を向ける直前に見せた顔は、“物語”が現実になる瞬間の霧絵ミルイの姿と驚くほどよく似ていて、僕は小さくなってゆく小鳥遊さんの背中を見送りながら、彼女と重なり合った霧絵ミルイを思い返した。

 図書館裏の路地。宵の口の公園。どしゃ降りの雨が降る廃屋。──そして黄昏時の空地。

 “物語”が現実と交差する間際の霧絵ミルイは、いつも何か言葉に出来ない想いを抱えていたように思えた。彼女は普段からそうした素振りがあったけれど、そこには彼女が言っていた願いとは別の、僕だけに宛てた心の内の葛藤があったのではないだろうか。

 自身の能力を確かめたいという欲求と、そのために他人を利用しているという罪悪感。

 理解して欲しいという願いと、軽蔑されるかもしれないという不安。

 どこまでも逃げてしまいたいという夢想と、元の場所へ戻るしかないという現実。

 そうしたに、彼女の“物語”は現実と重なり始めるのだった。現実と非現実の極地がひとつになることで、どちらでもあり、どちらでもない、境界の世界が垣間見えるように。

 そしてその三つめの条件は、ある事実を僕に突き付ける。

「霧絵……、お前は消えることを望みながら、どこかで僕に助けを求めていたんだな……」

 霧絵ミルイの最後の“物語”が現実になったとき、彼女はすべての真実を知り、この世界から消えてしまいたいと願っていた。

 しかし三つめの条件に当てはめて考えるのなら、彼女は同時に反対のことも強く願っていたはずだ。すなわち『世界から消えてしまうなんてイヤだ。私を見付けて、救って欲しい』と。

 にもかかわらず、彼女は消えてしまった。僕自身が彼女が消えてしまうことを望んだせいで。

 自分のことを損得なく、理屈も関係性も捨てて、ただ、誰かに愛して欲しい。という彼女の心の叫びに、僕が気付かなかったせいで。

 僕は顔を上げて、大きく息を吐いた。土手の下の公園から、遊んでいる子供たちの楽しそうな声が届いてきて、のどかな休日の晴れやかな朝に似つかわしくない僕の憂鬱が、誰にも知られず陽の下にこぼれ落ちた。

〈僕は霧絵ミルイの、小鳥遊さんの力になれたのだろうか〉

 僕は今でも時々考えてしまう。

〈彼女は孤独だったんだ。“家族”への愛惜あいせきが強すぎたために、失った“家族”を諦めることが出来ず、霧絵ミルイは壊れた玩具を直そうとする子供のような切実さと純粋さを胸に抱きながら、きっとまた“家族”を取り戻せると信じて“物語”を創り続けた。それが彼女の心の見えない部分に傷を付けてゆくとも気が付かずに〉

 あるいは小鳥遊さんのこともそうだ。もっと上手に立ち回って、二人のすれ違いを早く解消していれば──。

 もっとこうしていれば、という後悔は無数の別の未来を描き、同時に無力で何も出来なかった自分へと、いつも着地してしまう。

 あるいは所詮、人は誰かを救うことなど出来ないのかもしれない。つまずいた人に手を差し伸べたところで、怪我を治すことは出来ない。結局のところ、痛みを我慢しながら歩く決意をするのは自分以外にいないからだ。

 そうした諦めと、かなしみと、深い傷が重なり合った心に、新しい希望を生み出すもの。それもまた、僕たちを取り巻く“現実”なのだ。

 もしかしたら、物語にもそうした力があるのかもしれない。霧絵ミルイの能力のように、現実と非現実を引き寄せる力はなくとも、正面からぶつかってくる強すぎる現実の緩衝材として、自分や、自分の置かれた環境と向き合うことが出来るようになる力が。

〈僕は、誰も救えなかった。何ひとつ現実を変えることも。ただそれでも──〉

 それでも、ひとつだけ言わせてもらえるのなら。

〈霧絵、お前はその力を逃げるために使ってしまったんだ〉

 霧絵ミルイを救えなかったこと、それは僕の罪だ。しかしそこに、彼女自身の逃げたいと思う気持ちがあったことは間違いない。彼女の母親を助けるためにとはいえ、消えてしまいたいという霧絵ミルイの願いは、大切な人との関係性を恐れる彼女の臆病な心そのものでもあり、自分と向き合う覚悟を持ちながら、けれども現実に立ち向かう勇気のない、彼女自身の弱さの表れなのだ。

 彼女はそのことに気が付かないまま、現実を非現実で塗り替えようとした。そしてそれが叶わないと知るや、彼女は自らの“物語”へと逃避した。

〈でもな、霧絵。それは間違っているんだ〉

 何故なら──。

「僕たちは現実で生きるしかないんだ。誰も物語の登場人物にはなれないんだから」



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