第42話




「……っ!」

「霧絵は言っていた。父親と母親が仲直りし、また家族三人で仲良く暮らしたいと。しかしたったそれだけの願いが、どれだけ“物語”を創ってもどうしても現実にならなかった、と。それは霧絵の父親が戻って来ることを君が望んでいなかったからじゃないか?」

 幼かった霧絵ミルイが切実な願いを込めて書かれた“物語”は、彼女の両親が罪滅ぼしのために内容をなぞっていただけだったと、彼女は以前言っていた。

 しかし僕は疑問に思った。霧絵ミルイは彼女の両親が離婚したあとも家族が仲直りする“物語”を書き続けていたはずで、にもかかわらず現実にならなかったのは、やはり“物語”が現実になるための条件が絡んでいるのではないかと。

 根拠のない勘ではあったけれど、僕が指摘すると、小鳥遊さんはあからさまに動揺して、僕を睨んでいた視線も弱々しく泳いで定まらない。

 僕から顔をそむけたまま、俯いた前髪に隠されて、彼女が今どんな表情をしているのか分からなかったけれど、その沈黙が、僕の問いかけを言外に肯定していた。

「君は知っていたんだ。さっき僕が言った二つめの条件を。だからこそ、霧絵の父親には絶対に戻って来て欲しくなかった。霧絵の心が不安定でいる限り、霧絵は君を求め、君たちは二人だけの世界に閉じこもっていられる。君はそう考えたんだね」

 最後の文面から考えてみても、おそらく霧絵も“物語”が現実になるための条件を何となくは分かっていたのかもしれない。そして小鳥遊さんの考えていることも気付いていたのだろう。だからこそ、霧絵ミルイは自身の真実だけではなく、二つめの条件の記憶も一緒に小箱へ封印したのだ。言葉にはしなかったものの、小鳥遊さんのそうした考えに、彼女も傷付いていたに違いない。

 土手の下から舞い上がった風が僕たちの間を吹き通り、新緑のにおいを運んで来る。小鳥遊さんは不意に肩の力を抜いたかと思うと、大きな声で「アハハッ」と乾いた笑い声をあげて、前髪をかき上げた。

「ええ、そう。よく分かったわね。ご明察よ。私にはミルイだけがいればよかった。他の人間なんてどうでもいい。だってミルイと私は世界に二人だけの特別な関係だったんだもの。いくら親とはいえ、私たちの間に誰かの存在があるなんて考えられない。

 ……それなのに、ミルイはいつも家族みんなで仲良く出来ないことを悲しんでいた。でもその憂鬱が、ミルイの美しさをいっそう引き立たせていたことも分かっていた。……本当、ままならないよね」

 小鳥遊さんは小さく首を振って自嘲気味に微笑う。

「でもひとつだけ教えてくれない? どうしてそこまで分かったの? いくらミルイのノートを見たからって、普通そこまで考えるかな。それともやっぱりノートに書かれていた? 『汐莉は私が望む“物語”を実現させまいとしている』って」

「霧絵のノートに小鳥遊さんを悪く言った箇所はひとつもないよ。霧絵本人から聞かされたこともない。僕がそのことに気付いたきっかけは、小箱のノートに書かれていた“彼女が望んでいてくれる限り、少女の秘密は永遠になる”という言葉からだよ。二つめの条件に確証を得たのもこの一文からさ。

 そしてもうひとつの重要なヒントは、小鳥遊さんが以前言いかけたことにあったんだ」

「私の?」

「小鳥遊さん、いつだったかファミレスで会ったとき、君はこう言っていた。『王様の耳はロバの耳に題をとった“物語”があって、これが私たち二人の──』と。

 王様の耳はロバの耳。童話では秘密はみんなにバレてしまったけれど、秘密をずっと閉じ込めておくことが出来れば、秘密は永遠に秘密のままだという点で、小箱に隠された“物語”とよく似ている。君は慌てて口をつぐんだけれど、そのあとにどんな言葉が続くかは大体想像がつくよ。

 正直、最初から訝しく思っていた訳じゃない。小箱の“物語”の最後の一文を読むまでは、まったく怪しいとは考えなかった。そしてこれもあとになって思い返したことだけれど、僕が霧絵を捜すために君へ電話をかけたとき、君は霧絵が父親に連れられてあの空地をよく訪れていたことを知っていた。ファミレスで会ったとき、ミルイは父親や家族のことを話さなかったと言っていたにもかかわらずね。そこで確信したんだ。小鳥遊さんは嘘をついている、と」

「……そこまでバレてしまったのなら、もう隠すことは出来ないね。うん、そうだよ。全部草壁君の言ったとおり」

 小鳥遊さんは、ぱち、ぱち、ぱち、と、なおざりな拍手をしながら続けた。

「私はね、草壁君。物語の主人公みたいになりたかったの。ほら、よく小説なんかであるじゃない? ごく平凡で退屈な日常を送っていた主人公が、何かのきっかけでドラマチックな出来事を経験し、成長してゆくっていう物語が。

 私にとってはミルイとの出会いがまさにそれだった。前にも少し言ったけれど、あんなに非現実的な存在感を持った人がいるなんて、思いもしなかった。まるで物語からヒロインが抜け出して現実に顕現したみたいで、だからこそ私もそんな風になりたかった。

 だけど付き合い始めてすぐに、私には無理だと悟ったわ。どんなに物語の中に入り込みたいと願っても不可能なように、私とミルイじゃ、生きてる世界が違うもの。

 それでもミルイとの出会いは運命なんだと思いたかった。からっぽな私の日々が、生活が、人生が、きっと意味のあることなんだって信じたかったから」

 何もかもをさらけ出すように、小鳥遊さんの独白は続く。そこには何かを諦めてたどり着いた、乾いた明るさがあった。ちょうど今の僕と同じように。

「……でも、それももう終わりね。ミルイはあなたを選んだし、私は自分から関係性を壊してしまった。まあ、嫌われてしまったらしょうがないけれどね」

「それは違うよ。霧絵は小鳥遊さんのことを嫌ったことなんてない」

「いいの。気休めは言わないで。嫌ってなければ面と向かって相手に絶交宣言なんてしないでしょ」

 小鳥遊さんは、嘆息とも深呼吸ともいえない息使いで言い切ってしまう。

 想いのすれ違いに気付かないままの小鳥遊さんに、僕は一瞬ためらったものの、やはり霧絵ミルイの気持ちを伝えることにした。小鳥遊さんに伝えられないまま消えてしまった、彼女の不器用な誠意を。

「──小鳥遊さん、霧絵は言っていたよ。小鳥遊さんのことを無意識にに見てしまう自分がいるって。両親が離婚してひとりぼっちだった自分は、自分のことを決して裏切らず、思い通りになる人形のような子が欲しかっただけなんだ、とも言っていた。小鳥遊さんが自分に対してどれだけの親愛を示してくれているか知っておきながら、自分は彼女の気持ちを利用し、甘え、あげく見下している最低な人間だと。

 ……ずいぶん遅くなってしまったけれど、霧絵が君と絶縁した理由──彼女が言っていた“自分の問題”──っていうのは、このことだったんだよ」

 霧絵の本当の気持ちを唐突に告げられて、小鳥遊さんは戸惑いながらも僕の言葉を反芻はんすうしているようだったけれど、ややあって独り言のように小さく呟いた。

「私は、別にそれでかまわなかったのに。ミルイさえ隣に居てくれたら、それで……」

「霧絵は、小鳥遊さんのことを対等に見れない自分をいつも責めていた。自分が小鳥遊さんに不誠実に接していると。だからこそ“汐莉のことはもう友達としてみれない”って、正直に明かしたんだよ。真摯にね」

「だったら……! だったらどうして教えてくれなかったの!? どうしてミルイは私に伝えてくれなかったの!? そんなの……! そんなの、言ってくれなきゃ分かんないよ!!」

 溢れる様々な感情を堪えきれず、小鳥遊さんは再び激しい心の内を露にして、僕に詰め寄る。彼女を慰めるための言葉を何ひとつ持ち合わせない僕は、自身の不甲斐なさを情けなく思いながらも、彼女に真実を伝えることにした。

「……小鳥遊さん、霧絵はいつも葛藤に苦しんでいたよ。

 現実は“物語”のようにうまくはいかない。けれど、“物語”で現実を変えたい。

 お母さんのことは大嫌い。しかし、お父さんと仲直りして元の家族に戻りたい。

 小鳥遊さんを見下してしまう自分を赦せない。それでも──小鳥遊さんはたったひとりの親友だと」

「嘘! 嘘よ!」

「嘘じゃないよ。霧絵の“物語”は、君が僕を襲うという形で現実になった。

 ねえ、小鳥遊さん、思い出してみて。二つめの条件を」

 霧絵ミルイと一緒に“物語”を体感する誰かが、彼女の“物語”が現実になって欲しいと願うこと。ただし、その人物は誰でもいいという訳ではなく、彼女が選んだ、彼女にとって特別な人間でなければならない。すなわち──。

「──霧絵にとって、君もまた、“運命の人”だったんだよ」

 どんなに突き放し、傷付け、裏切ってしまったとしても、霧絵ミルイにとって小鳥遊さんはかけがえのない大切な親友だったのだ。

「今日、小鳥遊さんを呼んだのは、このことを伝えたかったからなんだ」

 僕の言葉を聞いた小鳥遊さんは、心を内側に引っ張られたような苦しい顔付きで、大きく目を見開いた。荒い呼吸で強く胸を押さえながら、かき消えてしまいそうな声で「ずるいよ……」と俯いた顔を手で覆う。

 辺りからは運動をしている人たちの明るいかけ声が響き、太陽は影さえも照らすように降り注ぐ。生き生きと色付く新緑のぬくもりの中で、小鳥遊さんだけが泣いているその様は、ある意味でとても残酷な光景だった。

「小鳥遊さん──」

「触らないで!」

 今にもくずおれそうな彼女に伸ばした僕の手を、小鳥遊さんは強く払って、再び鋭い眼光を向けてくる。そこに先ほどまでの力強さはなく、様々な感情が渦巻く瞳に堪えかねたように、怒りとも、かなしみとも、安堵ともいえない静かな涙が一滴ひとしずく、頬を伝い落ちた。

「私は──っ!」

 その先を言うことなく、小鳥遊さんは走り去って行った。


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