4 それぞれの悩み

「ああ、君。ヴィーガントくん」


 皆と別れたところで後ろから声がかかった。ヘンリックは振り向く。そこにいたのは正論教授──ブラル教授だった。思わず顔をしかめそうになったが、ぐっとこらえ、無表情で向き合った。


「なにか」

「先日出してもらった進路希望調査票だけれど……考え直してもらえないかと思ってね」


 ヘンリックは結局こらえきれずに眉をひそめる。

 二年に上がってすぐ提出した簡単な調査票には、学院に残って研究をする研究医、大きな病院に勤める勤務医、町の施療院に務める開業医。三つの選択肢があった。

 これからのカリキュラムに関わってくるし、研究室の人数調整があるから希望をとったのだと思われた。

 ヘンリックは研究医と書いて出した。

 考え直せと言われる可能性はあったが、まさかこんなに早いとは思いもしなかったし、それに、この人に言われるとも思わなかった。


「なぜです?」


 静かに問い返すと、ブラルは言った。


「君が優秀な人材だとわかっている。だが、君の実家はあのグランツ施療院だ」

「それが、なにか」


 グランツ施療院というのは、イゼアの大都市──元はラディウスの王都であった土地だ──で最大の施療院だ。王立の病院に引けを取らないくらいに大きく、権威を持つところだった。

 父は優秀な外科医で、王族にまで顔が利く。知る人ぞ知る有名人だった。

 だから、実家の施療院を継ぐためにここに来ている──と関係者は皆思っている。ヘンリック以外の人間は。


「君の家は施療院だから、研究医ではなく、開業医、もしくは勤務医をおすすめしたいのだが。他所で修行をして、家を継ぐというのもよいと思うのでね」

「なぜあなたがそんなふうに進言してくださるのです?」


 ヘンリックは訝しむ。

 父に反対されるのは予想していた。だが、他人に言われることではないと思っていた。

 するとブラルは笑みを浮かべた。


「父上と私とは旧知の仲でね。知らなかったかな。この学院で同級生だったんだ」


 彼は穏やかに話を進めようとするが、ヘンリックは鋭く返した。


「つまり、僕は……父に監視されているということですか?」

「いや、私が勝手に気にしているだけだよ。あの土地には医者が必要だ」


 確かに笑顔なのに、どうしてこれほど冷ややかに感じるのだろうとヘンリックは思った。


「旧知の仲、ですか? それでしたら、ご存知だと思いますが、実は僕と父とは不仲でして」


 そういうとブラルは意外そうに片眉を上げる。


「なので、僕は、父が喜ばない道をあえて選ぶつもりなんですよ」


 ヘンリックそう言い置くと踵を返した。

 今、自分が浮かべているのはブラルと同じくらい冷ややかな笑みだろうか。



 *



 翌日のこと。ミアは薬科の教室で授業を受けていた。

 当然ではあるが、二年生の授業は一年生のときより難解になる。学問というのは積み重ねであり、今までの知識の蓄積の上に成り立っていく。

 一年生の時は躓かなかった教科で足止めを食らうと、大抵は理解不足だったりする。

 ミアは新しく手に入れた教材とにらめっこをしながらため息を吐いた。

 教壇ではリューガーがチョークで板書中だ。アインツがいなくなったせいで、授業が増えて大変だと影で愚痴をこぼしているのを知っている。新しい先生は新学期に間に合わなかった。アインツのことがあって審査が厳しくなっているせいだ。

 今日の授業内容は「《ラディウス熱》について」。リューガーの背中を見つめながら、ミアは小さくつぶやいた。


「私たちの力、か」


 昨日リューガーが言った言葉がずっと引っかかっている。

 ミアの持てる力など微々たるもの。かじっただけだったと思い知って、薬学を学んでいたという矜持は、もろくも崩れ去った。

 薬は今ある効能を知っているだけで、新薬をどう作ればいいのかも全くわからない。

 新薬の製造過程というのは、ミアが思っていたより難しい。

 まず薬の種を見つけるところからはじめなければいけない。病気の原因を探し当て、体の中のどの機能をどうサポートしてやればいいのかを考えるのだ。

 薬というのはあくまで人間が持っている治癒能力を助けるものだからだ。

 風邪薬だって、風邪の根本原因を駆除するものではない。症状を抑えるだけで、あとは体内の免疫力頼りなのだ。


「《ラディウス熱》についてだが。クスター、知っていることを答えてくれ」


 クスターと呼ばれたクラスメイトが慌てて立ち上がる。そして、ちらちらと教科書に目を落としながら答えた。


「え、えっと、ラディウス熱というのは冬に流行る風邪のようなものですが、風邪との違いは凄まじい感染力を持っていることです」


 クスターは答え終わるとホッとした表情で椅子に腰掛ける。だが座りそこねて椅子を倒し学友がくすくすと小さな笑い声を上げた。

 彼はあまり落ち着きがない。授業中に突然叫び声を上げて怒られたりしているのを何度か見かけた。ミアは個人的に自分より変わり者なのではと思っていた。

 リューガーがやれやれといった様子でため息を吐いた。


「《ラディウス熱》は全世界で驚異となっている感染症だ。十年前にも世界中で大流行して多くの人が亡くなった」


 ミアは頭の中で補足する。

 その病は、老人や子供など体力のない人間の命を嵐のように奪っていく。ラディウス熱という名がつけられているのは、過去にイゼアの王族が一斉に亡くなったのが、その病のせいだからだ。まだ戦の傷跡が残る時期だったこともあり、彼の国からの呪いではないかというイゼア国民の恐れがそう名付けさせた。

 科学的ではないけれど、気持ちはわからなくはない。


「薬は開発されているか?」


 別の学友が指されて「いえ、治療法はまだ対処療法のみです」とあたふたと答える。威圧感にはミアも未だに慣れないが、クラスの大半がそのようだった。なにしろ、顔が怖い。


「そうだ。未だ特効薬が開発されていないため、流行を食い止めるための法律まである」


 流行の兆しがあると、集会が禁止され、マスクの着用が義務付けられる。破ったら罰則だ。感染を防ぐ──それが大多数の命を守る上で一番効果が高いから。

 リューガーがそんなふうに板書をし、ミアはノートを取った。


「イゼアだけでなく、世界中の人が薬を待望しているし、研究開発も国内外で日々熱心にされている。だが──バウマン、開発にかかる時間はどのくらいだ」


 ぼんやりしていたミアは跳ねるように立ち上がると答える。


「開発を始めてから短くても十年かかってやっと実用にこぎつけられます」

「ああ、だから流行してからでは全く間に合わない。だからこその予防と対処療法だ」


 対処療法の方法が箇条書きで書かれたが、ミアは途中でノートを取るのをやめる。


(施療院で行っていたのと同じ方法……)


 ここに来れば高い水準の医療が学べると思っていたのに、わずかに落胆する。

 停滞を感じてミアがそっとため息を吐いたとき、リューガーがふっとこちらを見て笑った。


「医学の遅れは法でフォローする。人を病から守るものは医学薬学だけではない。だが、いつまでもフォローされぱなしってわけにはいかないと思わないか?」


 その目には僅かだが、期待が混じっていた。


(落胆して、そのまま諦めるのか?)


 そう問いかけられている気がして、ミアは背筋を伸ばして顔を上げる。へこたれている場合ではないのだ。



 *



「おれたちの力、なあ」


 マティアスは校庭の芝生の上で同級生の背中を見つめながら小声でつぶやいた。

 リューガーに言われた言葉が胸に小骨のように刺さったままなのだ。

 自分の力と言われてもピンとこないのは、去年マティアスはほとんどチームのお荷物のままだったからだ。

 ほっとため息をつくと、前に連なる頭をみやった。金銀銅。明るい色の髪が多い。つむじの位置まで見下ろせる。

 マティアスは学年で一番背が高い。いや、学院内で一番背が高いのだった。

 背が高いため、整列する際はいつも人の頭や背中を見つめて過ごす。顔を見られないことに慣れている。そしてそれは彼の心をかなり楽にする。

 人見知りはその体に似合わないとフェリックスにはよく笑われる。昔から知らない人間と話すのが苦手だったが、ここのところ特にその傾向が強くなっている気がする。

 おそらくあの三人と過ごす時間が、それだけ楽だからだろう。

 彼らはマティアスを特別視しない。皆、彼が普通の容姿をしているかのように接してくれる。目が赤いことなど、背が高いのと同じくらい普通の個性として見てくれる。


(わかってるんだ。おれの力なんて結局は――)


「──次は、マティアス」

「……! はい」


 名を呼ばれてはっとする。今は基礎魔術の時間なのだった。

 属性ごとに列を振り分けられ並び直すが、やはり一番後ろだ。たいていは順番も最後。

 右隣は火属性。左隣は土属性の生徒が列をなしている。そのさらに左が水属性だ。専門性が増す二年次からは属性ごとに師事する教授が違うのだという。

 そしてマティアスの担任はトラウト助教。


「あなたは風属性でしたか」


 男性教諭ではあるが、しわがれた声はどこか魔女のイメージだった。ゆっくりと瞬きをするためいつも眠そうだ。もう二十年も前から勤めていると聞く。風魔法のベテラン教師だというが、出世欲がないのか助教の地位というのが気になった。

 前にいた女生徒はマティアスが後ろに並ぼうとすると、ギョッとしたように前に詰める。

 やはり避けられている気がする。

 それもあって、クラスには一年経った今でも友人がいない。フェリックスたちとばかりつるんでいるからというのもあるけれど、前年度最後の事件──《悪魔の爪》感染の疑惑が完全に払われていないのもあるのだろう。

 つまりは病原菌扱いなのだが。


(理不尽だ)


 そう思うが気持ちがわからないでもない。《悪魔の爪》に対する恐怖は、ミアと関わらなければ皆と同じように抱いていただろうから。

 だがその畏怖の混じった視線はどうしてもマティアスの心の傷をえぐる。それは彼が異端であると突きつけてくる目と同じ色をしていた。

 鬱屈した思いが湧き上がる。思わずため息を吐くと、トラウトが高い声を上げた。


「マティアス=ヴァイス。どうしました、早く杖を構えなさい」


 言われてマティアスはハッとする。胸の内ポケットを探るが、見つからない。


(しまった、忘れた!)


 実のところ高い魔力を持つマティアスには杖が必要ない。杖は体内の魔力を一点に集中させて、効力を高めるために使う。だがマティアスはそうしなくても高い効力の魔法が使えてしまう。それだけ内在魔力が高いらしい。


「わ、すれました」


 冷や汗を流しながら答える。


「魔術実践の時間に杖を忘れる?」


 トラウトが呆れた声を出した。


「そんなにやる気がない? それとも杖など必要ないくらいの魔力があるとか、ですかね? それならちょっとお手本を見せてくれないですかねえ? なにしろ君のその目。に恵まれているのですからねえ」


 ニヤニヤと色の目が緩んだ。卑屈さのにじむ笑顔は、マティアスの嫌うものの一つ。

 前に並んだ生徒がいっせいに振り向く。好奇心のこもった視線に動揺する。


「ほら、陽炎の魔法なんてどうです。あなたなら簡単でしょう」


 トラウトは高度な魔法を口にした。確か上級生の教科書に載っている上級魔法だ。

 陽炎の魔法はものの姿を隠すという便利そうな魔法で、いつか練習しておこうと目論んでいた。だが一応下級生は使ってはならない規則となっているのだ。なんとなく見透かされているような気がして俯く。


「おれ――僕はまだまだ未熟ですから、そんなことはできませんし、杖もありませんし」


 そう言って殊勝に頭を下げると、トラウトは少し胸が空いたのか、マティアスへの攻撃を納めた。


(あぁ、新学期早々ついてないな)


 マティアスは口を曲げると、いつものように壁に徹しようとむっつりと黙り込んだ。

 


 *



 法科の教室では女子生徒が一人の男を囲んで座っている。女子の中心人物は隣を陣取っているが、それは、フェリックスのクラスメイトでもあるアンジェリカだった。

 以前フェリックスが密かに流した噂のせいで、ターゲットは別の男に移された。あれ以来フェリックスのことは視界にも入らないような態度である。


(変わり身の速さは、すごいよなあ)


 教室の一番うしろで感心しながらフェリックスは指の上でペンを回した。目の前には真っ白なノートがある。実のところ、板書を写したことがない。ほとんど見直さないからだ。

 そう言うとミアには怒られるが、授業を真面目に聞いていたら大抵は一度で頭に入ってしまう。真面目に聞くことさえできれば、満点が取れる。逆にノートを取ることに集中すると話が頭に入らない。なのでノートは不要なのだ。

 ふわぁ、とあくびをするとフェリックスはあたりを見回した。

 法科の授業は煩雑だ。まだまだ基礎法学を主に学んでいるのだけれども、進路によって取得する講義も変わってくる。法科にいる人間の進路もまた多岐にわたる。学院内で一番バラエティに富んでいるのではないだろうか。

 法に関わるものならどんな職にもつく。 裁判官になる者。弁護士になる者。もちろん法を制定する議員をはじめ、政治に関わる者はたいていが法科出身者だ。


(それから……)


 腑に落ちない気持ちで再びアンジェリカを見つめた。彼らの伴侶となる者も法科出身者が多いのが現状である。もちろん優秀な女性も多いのだけれど、たまに何をしに来たのだろうと思えるような行動をとる者も少なくなかった。

 上流階級のサロンの縮小版のようなものを見かけるたびに、フェリックスは不快な気分になる。それは彼女たちに対してではなく、自分もまたその縮図に組み込まれていることを痛感しているからだった。

 本来ならばアンジェリカにつきまとわれているのは自分だから。

 苦笑いを浮かべてみていると、中心でほほえんでいた男と目があった。

 それは父の友人の息子であるジーク。肉付きの良い大きな体から予想できるおおらかな性格をしている。学長経由での頼み事を深い事情を聞くことをせずに「女の子は大好きだから」と言って喜んで引き受けてくれたのだ。

 頼みというのは、学院内にいるという王子の役を引き受けてくれないかというものだった。もちろん公にする必要はなく、密やかに流れる噂を否定せず、肯定せずにいてくれればよいというものだ。嘘を吐かずにのらりくらりと躱しているというのは結構なストレスだと思うのだが、ジークはそういうことが得意なのだった。

 そして社交的で話がうまい。最初は好みではないけれど……と渋々といった様子でつきまとっていた女子たちは、今では彼の話術に夢中である。そのままうまくいってくれればよいけれど、とフェリックスは無責任に考えた。

 将来が頭の中をよぎるとフェリックスは憂鬱にならざるを得ない。こうやって一時的に逃げていても、自分は王子であることからは逃れられない。王族の恋愛は自由ではないのだ。たとえ、フェリックスの心がすでに決まっていたとしても。

 わかっている。成就するにはあまりにも難しい恋だとわかっているのだけれど、どうしても夢を見ずにはいられないのだ。あまりにもまぶしくて、あがいてしまうのだ。


(あー……)


 鬱屈しかけたとき、ふととある顔が目に留まった。


(あの顔は見たことがある)


 ただし、それは学友としてではない。フェリックスは彼らの親の顔を知っていることが多いのだ。

 父に叩き込まれた貴族名鑑の中を検索する。父はフェリックスが学院に在籍中に色々と観察させたかったのだ。王族がこうして学院に身分を隠して在籍するのは、将来の王家のために使える人材を見つけるため。ただのフェリックス=カイザーリングとしてならば、見えるものも違うから。

 そして見つけるのは友人に限らない。


(あぁ、そうか)


 リューガーに力と言われて、自分ができることはなんだろうと考えていたけれど一つあった。叶えられない望みならば、せめてこの切り札はミアのために使うべきではないか。


(だとすると、おれはいつまでもあの場所にいてはいけないかもしれない)


 窓の外を眺める。薄曇りの空の上、無邪気に番う二羽の鳥を見て、フェリックスは静かに深いため息を吐いた。

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