3 刷り込みはカモマイルの香りで

 摘んでいたカモマイルをポケットにねじ込むと、ミアは少年を追った。だが、追いついた時には講堂は騒然としていた。


「離せ、離せよ!」


 暴れに暴れたあと取り押さえられた少年は警備員に連れて行かれている。大多数が外に避難した後に残るのは、逃げ遅れ、血を流す生徒。それを見たとたん、ミアは結局抱えたままになってしまった古ぼけたかばんのがま口を大きく開いた。ぱっかりと開いた口から現れたのは、医療道具一式。ミアが以前お世話になっていたレーミルト施療院のレッツ先生から受け継いだものだった。

 そして受け継いだのは道具だけではない。わけあって施療院で十年も手伝いをしてきたのだ。応急処置くらいは叩きこまれている。

 医科と薬科があるとはいえ、上級生は入学式にはいない。まともに手当ができる人間は医科の教師くらいだろう。だが――おそらくは治療道具を取りに行ったのだろうが――治療が始まる兆しはまだ見えなかった。それはそうだ。こんな事態が起こるなど、誰が予想できようか。

 かばんの中から赤いリボンを取り出す。ひろがる赤い髪を一つに縛ると、ミアは大声を張り上げた。


「落ち着いて! 怪我をした人をここに連れて来て!」


 連れてこられた人たちは幸い軽傷のようだった。ほっとしたミアは包帯とアルコールを取り出すと、各自に止血を指示し、「ここ、このアルコールを少しずつ、まんべんなくかけて」と、そばにいる人に消毒の手伝いを頼んだ。そして、他に怪我人がいないかを見回す。施療院で叩きこまれたのだ。

 重症の患者を見逃すな。間違うと手遅れになる。死ななくて良い人が死ぬと。

 ぐるり、見渡したミアはある人物のところで目を留めた。

 入口付近で制服を着た少年がうずくまっている。


「フェリックス――!? 誰か! 医者はいないか!」


 隣にいた大きな男が慌てふためいて医師を呼びに行く。

 なにか既視感を感じて、目を凝らす。ミアは目の前の怪我人の傷口を消毒し終わると、傍に居た人に包帯を渡し、「ここ、結んでおいて。できなかったらとりあえず押さえておいて」とあとを頼んで駆け寄った。


「あなた、大丈夫!?」 


 うずくまった少年を揺り起こしたミアは、現れた美貌に目を見開いた。だがそれも一瞬のこと。すぐに観察を開始する。眩しいくらいの金色の髪に隠れた白皙の肌は青ざめていた。少年はギュッと目をつぶり、ブルブルと震え、ぜいぜいと短く息を吸いつづけて、息苦しそうに胸を押さえている。


(過呼吸……?)


 息をいくら吸っても息苦しさを感じてしまうのだ。そして吸い過ぎて逆に呼吸困難に陥ってしまう。ミアがいた施療院でこの病にかかる患者は幼児や少女ばかりだったけれど、男の子がこうなるのは珍しい。


「ごめん、ちょっと待ってて」


 ミアは、軽傷の生徒にそう声をかける。過呼吸は命に関わるような病ではない。だけど、本人は死ぬのではないかという恐怖に押しつぶされそうになっているのだ。今、この場所で一番死を身近に感じているのは確実に彼だとミアは思った。

 少年を幼子にするように抱き寄せる。彼はきっとこの惨状で極度のストレスを感じてしまっている。不安を取り除くために効果的なのは、こうやって安心させてやることだとミアは知っていた。


(ああ、そうだ、いいものがあった!)


 ポケットからカモマイルを取り出すと、彼の手に握らせる。施療院にいた時の癖で、薬草を見かけるとつい摘んでしまう。煎じて鎮痛剤の材料にしようと思っていたのだけれど、リンゴに似た香りは不安を和らげる作用もあるのだ。優しく背を撫でて、


「大丈夫、大丈夫よ、落ち着いて。息を深く吐くの。吸わないで、ゆっくり吐くの」


 と囁いた。だが、


「死ぬ、みんな、死んでしまう。俺のせいで、クリスも――おれ、も――……苦し、い、息が、できない」


 そう言って少年は更に息を吸い込もうとする。

 タイを引きちぎる勢いで、苦しげに喉をかきむしる手を抑え、ミアは唇にそっと指を当てて遮る。こうしておくと鼻だけで呼吸するので、酸素を取り込む量が減るのだ。同時に、彼の恐怖を取り除くべく言い聞かせる。


「大丈夫、あなたのせいじゃないわ。みんな無事。誰も死なない。苦しいけれど、命に別状はないから大丈夫。すぐに楽になる」


 クリスが誰かもわからないけれど、ここにいる人間で重傷の人間はいない。

 髪をなでながら、何度も大丈夫と言っていると、やがて少年の顔から恐怖が去る。さらに胸の音に合わせて背を軽く叩くと、少年の呼吸が少しずつ元通りになる。本来の呼吸のテンポを思い出せばもう大丈夫だ。回復の兆しを確認すると、ほっと息を吐いて、ミアは彼から離れる。他の人にあとを託そうとしたが、少年の手がミアの手をぐいと掴んだ。そしてすがりつくような目で見つめる。


「行くな」


 ミアは思わず呆然と立ち尽くす。

 今にも泣きそうに弱々しかった眼差しは、己を取り戻したからなのか、男の子らしい鋭さを取り戻していた。太陽のように輝く金色の髪はまるで本物の金で作られているかのようだった。その下の灰青色の瞳にとらわれて、ミアは息を詰める。冬の湖面の冷たさと、そこに張った薄氷の儚さとを兼ね備える瞳。苦しさからか僅かに涙が滲んでいる。それはあまりにも不安定で、だからこそ美しすぎた。

 改めてよく見ると、凛々しい眉の下、切れ長の目、通った鼻筋、甘いカーブを描いた唇……と顔立ちも凄まじく整っている。


(う、わ……なに、この人……! すごい美人……!)


 目を離せないでいるミアに、患者から変身を遂げた美少年が言う。


「置いて行かないでくれ、頼む」


 手はまだ震えている。幼子が母親にすがるような必死な様子を見て、母性本能がミアの手に力を込めかけた。だが堪える。相手は幼児じゃない、ミアと同じく新入生――と思いかけて、ミアは彼の制服が着古されているのに気づいた。他の新入生の糊付けされたパリッとした制服とは全く違うよれた質感。


(え、じゃあ上級生なの? どうしてここに?)


 訝しげに目を細めるミアに、いつの間にか医師を連れ帰った先ほどの生徒が言った。


「校医を連れてきたからもう大丈夫だ。手が足りない。あんたはあっちの手当を頼む」


 視界に魔術科の赤いタイが入ったとたん、さっきからずっと感じていた既視感の正体に気がつく。はっとして見上げると、彼は先ほどの入学手続きの時にミアの隣にいた熊少年だった。


「わかった。お願いする」


 ミアは少年を男に任せて踵を返す。そして速やかに残りの負傷者の応急処置を終えたのだった。



 ◇



「……名前を聞くのを忘れてしまった」

「はぁ?」


 フェリックスが呆然と呟くと、心配そうに彼を覗き込んでいたマティアスの目に剣呑な光が浮かんだ。

 幸い発作は完全に治まっている。校医に聞いてももう大丈夫だとのこと。

 だというのに、胸がまだ苦しいのは一体なぜなのだろう。彼女が去ったとたん、胸に埋めきれない穴が開いてしまったような気さえする。隙間風が冷たく感じる。人肌の温かさと柔らかさを知ったからだろうか。


「どうやったら彼女と仲良くなれる?」


 そうすればこの寒さが和らぐような気がして、フェリックスは半ば必死でマティアスに尋ねた。


「……彼女ってさっきの彼女?」


 尋ねられて、頷く。少女を見やる。彼女は全員の応急処置を終えて、片付けをしているところだった。纏めていた赤毛を解くと、随分印象が変わる。きりりとした印象が髪とともに解けて、治療された人間でも、次に会った時にはわからないのではないだろうかと思えるほど雰囲気が違う。

 冷静に見れば、さほど特徴の無い、普通の少女だ。――多分。なのに、どうして目が離せないのだろうか。


「あの子と友達になりたいっていうんですか?」


「うん」と頷くフェリックスは、だが次の瞬間、何か腑に落ちなくて「……うん?」と首を傾げた。


(友達?)


 友人と呼べる存在がいたことのない彼は、この感情を友情とは断定できなかった。なのでひとまずマティアスに対しての感情と比べてみる。かなり違和感があった。


(じゃあなんだ、これは)


 自分の心の中を探っていると、なぜかちらちらと影が視界を遮る。どうやらマティアスが目の前でひらひらと手を振っているのだ。邪魔だな、そう思いながらも目を離すのが惜しくて、フェリックスは少女をじっと見つめた。


「なんか、めちゃくちゃめんどくさいことになりそうなんですけど……」


 マティアスのぼやきもどこか遠くで響いている気さえした。

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