2 天使の涙へのアプローチ
そもそも、《天使の涙》の研究は学院内でのメイン研究テーマだ。それを避けて《悪魔の爪》の研究をしたいと言い出したから、ミアたちは異端扱いされてきた。
ヘンリックはうなずく。
「今更って思うかもしれないけど、《天使の涙》について調べるのが、今、僕らにできることの中で一番有意義なことだと思う。ただ、全く別のアプローチをするけどね。……マティアス、君は魔術科だけど、ノイ・エーラの使い方はわからないよな?」
マティアスはうなずく。
「そんなの習わないぞ」
ノイ・エーラというのは、賢王であったレオナルト王が発見・開発した、古くは魔力を石に込めて魔石を作るという方法のことだった。
だが、それが王亡き後に悪用され、人に直接魔力を注入し、人工の魔術師を作ることができるようになった。
『
アインツの叫びが耳に蘇り、ミアの息を詰まらせる。
マギラ・エーラ。その副産物として生まれたのが《天使の涙》と《悪魔の爪》という二つの病。《天使の涙》は体内の魔力が暴発して起こるもの。そして《悪魔の爪》は逆に体内の魔力量が極端に減ってしまい、免疫が落ちてしまうというものだ。
つまり、先ほどフェリックスが何気なく言ったように人に魔力を注入する方法──魔術師を作る方法がわかれば、《悪魔の爪》は治るのかもしれない。
八方塞がりに感じていたところわずかに道が見えた気がした。
(あ、でも)
興奮したミアだったが、ふと思い出したことがあり、フェリックスの方を見やった。
以前、この話題になったとき、彼は彼の幼なじみを亡くしたことを思い出して、ひどく苦しんでいた。そんなに簡単に心の傷が癒えるとは思わない。
だがフェリックスは何か他のことに気をとられているのか、遠くを見る目をしている。その顔には変化はない。
ほっとすると、マティアスと目が合う。彼もどこか安心した顔をしていたので、ミアと同じことを考えていたのではないだろうか。
(クリス……って言ったっけ。それって……男の子、かな。それとも……女の子?)
どんな人だったのだろう――考えかけたとたん、胸がぎゅっと縮み、その激しさにぎょっとした。
と、そのときヘンリックが問いかけた。
「じゃあ、どうやって調べる? そもそも《天使の涙》の患者はどこにいるんだろう?」
なぜだか動揺を読み取られたような気になって、ミアは慌てる。ごまかすようにヘンリックの問いに集中すると、ふと思いついた。
「あの入学式の時の男の子……」
《天使の涙》と聞いて思い出すのは、あの強烈な事件だ。
入学式で暴走した彼は、いったいどうなったのか。多分、あれから学内では一度も見かけていない。
「魔術科だろ?」
ヘンリックがマティアスに問いかけると、彼は小さく首を横に振った。
「彼は休学してる。確かまだ入院してるはず」
「どこに?」
「わかんねえ」
「同じ学科なのに?」
「誰も彼も触れちゃいけないって感じで話題にしねえんだよな。それにもうあれから一年だし、さすがにいつまでも覚えていられない。入学式であれじゃあ……友達もいないだろうし」
マティアスはさみしげに眉を寄せる。
言われてみればそうだ。友だちができる前にあんなことになってしまった。さすがにあのような騒ぎを起こしたあとだと、治癒しても学院には戻りにくいだろう。だとしても──。
「一年経っても退院できないものなの? 治療薬ってできてるんだよね?」
リューガーは薬ができたと確かに言っていた。アナクフィスという治療薬だ。それがこの学院で発明された唯一の薬だと聞いて驚いた覚えがある。
不可解で首をかしげると、ヘンリックが言った。
「そのへんが僕も謎なんだ。……実は《天使の涙》についても、あまり情報はないんだよな」
「そうなの? でも、治療薬を作ってるのに?」
卒業研究のテーマはほとんど《天使の涙》だと聞いている。だからてっきり《天使の涙》についての情報は学院内にあふれているのかと思っていた。
「ああ。だけど、組成とかは明らかにされていなくて見られる情報は限られている。それはそうだよな。だって、《天使の涙》の病素と《悪魔の爪》の病素は同じなんだから、軍の人間が誰もが見られるような状態にするわけがない。陰謀に気づく人間が必ず出てくる」
ミアは驚いた。
「え、じゃあ、卒業研究は? 論文を見られないとできないよね?」
「教授の許可があればいいだけだ。だけど……それが結構面倒くさい」
ヘンリックが珍しく疲れた顔をした。
「リューガー教授が出張中だったから、僕の指導教官――医科のブラル教授に頼んだんだけど、拒否された。『君たちには関係ない研究だろう』って」
ブラル教授と聞いて、彼の別の呼び名をミアは思い出した。たしか──。
「正論博士、ブラル」
口に出すと同時に首を傾げる。その呼び名からは悪い印象はあまりない。
だがヘンリックはため息を吐いた。
「あいつは、リューガーとは別の意味で手強いんだ。……まぁ、いずれわかると思うよ」
*
四人は鍵をリューガーに貸してもらい、図書館へと向かった。《天使の涙》について調べるためだ。
このカビ臭い空気はいつぶりだろうか。
本棚がひしめき合う狭い通路は人一人が歩くのが精一杯の幅で、マティアスが時折肩を棚にぶつけている。
(うわぁ……ものすごく窮屈そう)
制服も下手するとはちきれそうだ。
あれで腕力を使わない魔術師だというのだからなにかおかしい。笑いそうになるのでミアは極力マティアスを視界に入れないように心がけた。
閉架書庫を開けてもらった四人は、静まりかえった書庫で論文を探す。
「《天使の涙》の研究論文は、閉架書庫にあるんだけど……そもそもここでしか見れないのがおかしいと言えばおかしいんだよな」
ヘンリックの呟きに、フェリックスがハッとする。
「そういえば……普通、新薬を開発したら特許をとるはず」
「特許?」
その辺に疎いミアが尋ねると、一応法科に在籍しているフェリックスがわずかに嬉しそうにうなずいた。
「特許は発明者を守る。発明を独占し、薬による利益を独占できる」
「天使の涙の患者がそれほどいないから旨味がない、と考えることもできるけど……」
ヘンリックが眉間に皺を寄せた。
(じゃあ……どうして)
考えているうちに論文のある区画に辿り着く。ついてきた係員は尊大に言う。
「持ち出しは禁止なので、ここで見るように」
彼はミアたちから目を離さない。見張っている、そう感じた。
以前もここを利用したことはあるけれど、その時より厳重な気がする。
(前は、カルテを見たんだよね)
《悪魔の爪》の患者のカルテだった。あれは見られても問題ないと思っていたのかもしれない。きっかけとなった情報は黒塗りされて見ることができなくなっていたから。
「普段は学生が必要なときに申請して閲覧する形をとっているそうだ。貴重だから紛失されてはいけないからっていう名目だけれど、どちらかというと、情報が外部に漏れないようにするためだろうな。特許のこともあるけれど、きっと《天使の涙》の情報を見せたくないだれかが、そんな規則を作ったんじゃないのかな」
それはだれだろう……ヘンリックは呟くと難しい顔をした。
ミアもつられて考え込んだ。
《天使の涙》と《悪魔の爪》は表裏一体の病だ。《天使の涙》を調べるうちに、二つの病の関係と、軍部の非人道的な陰謀に気づいた人間がいてもおかしくない。
そしてそのことに気づいてしまった人間がいたとしたら……。
アインツのことを思い出して、ミアは鬱屈した気分になる。
学生は監視されていた。そして監視されていたのは教授もなのかもしれない。そう思うと背筋がぞっとする。まだアインツ先生の替わりの先生はやってきていないけれど、大丈夫だろうか。それに、アインツ先生以外にもまだ潜伏している軍部の人間がいてもおかしくない。
(ここの係員だって、わからないよね……)
そんな事を考えながら棚の中から論文を探していく。見たいのは《天使の涙》の薬が発表されたときの論文だ。
年代順に並べてあるので、開発された年を目印にすればいい。すぐに見つかるものだと思っていた。――だが。
見つけたファイルを開くと、
「え……?」
「うそ」
中身は白紙だった。文字だけが、何か特殊な力で消されたかのように見えた。
四人で周囲を手分けして探る。だが《天使の涙》の薬――アナクフィスについての学術論文のファイルはやはりこれしか存在しない。
係員の一人に尋ねると、彼は「そんな訳はない」と言ってファイルを開く。だが白紙のそれを見ると、青い顔をして外に出ていく。
「どういうこと?」
厳重に警備されているはずの場所で、かなり重要な部類の論文が消えてしまっている。
(私たちに見せたくなかった?)
疑いが持ち上がる。もし妨害だとするとそれは一体誰だろう。
モヤモヤとしながらヘンリックを見やる。すると彼は「もしかしたらって思ってたけど、やっぱりか」と小さくため息を吐いた。
「どういうことだ?」
フェリックスが顔をしかめる。ヘンリックは肩を竦めた。
「見られたら困る人間は多そうだし、僕がアインツだったら絶対に残していかないと思うけど……でも、彼女が去ってずいぶん経つのに紛失に気づかなかったのか? だとすると仰々しい割に管理が杜撰だな」
ヘンリックは殺気立っている係員を一瞥しながら言う。
アインツが絡んでいるならば絶望的な気がした。あの人は、ミアたちが命を削るようにして書いた論文を簡単に破り捨てたのだ。
「じゃあ、どうするんだ」
フェリックスが苛立ちを隠せない様子で言った。
せっかく見つけたヒントが無駄になり、ミアは泣きたくなる。途方に暮れていると、ヘンリックは一番新しい棚から論文を取り出した。
「今できることをする。今だって天使の涙の研究は進められてるんだから」
ヘンリックは論文に目を通しはじめた。ミアもそれに倣う。そうだ。彼の言う通り、ミアには立ち止まっている暇はない。
泣き言を飲み込んで気持ちを切り替えて片っ端から論文を読む。フェリックスとマティアスも専門外だというのに、真剣な顔で論文と向き合っていた。
そんな中一人凄まじいスピードで目を動かしていたヘンリックがポツリと言った。
「そうか。そんな気がしてたけど……次は……もう予防医学の領域なのかも」
「予防医学?」
「ここを見て。最新の卒業論文だ」
皆がのぞき込むと、ヘンリックがとある一文を指さした。
「精神安定剤の投与の効能、麻酔薬の危険性……? それから、予防方法?」
ヘンリックはうなずく。
「これは対処療法だな、おそらくは」
ミアが想像していたものと違った。先程四人で話し合っていたような、魔力がなんなのかとか、それに関わる体の組織とか……もっと……もっと《天使の涙》の根本治療に関わる研究がされているものかと思っていたのだ。
「どういう、こと?」
ミアの声が震えた。
「病を根本治療するのではなく、対処療法に踏み切った。そして今後は病を生み出さないようにするための方法を考えるようなったってことだな。予防が本当に効いてるかはわからないけど、この頃患者数は減っている」
ヘンリックはさらに《天使の涙》の罹患者数の統計を指し示した。ある年を境にぐんと減っていた。
「軍での魔力の注入量が適正になってきたってことかな。一般人が受け入れられる魔力の許容量が割り出された。だからもはや、薬が必要なくなってくるのかもしれない。だからこそ、だれも無くなった論文に気を留めない」
「だけど……それは、つまり……」
言葉が出てくるのを嫌がるように喉に引っかかるのがわかる。
「今の患者は切り捨てられるって、いうこと? だから、入院したあの子は、でてこない?」
「…………」
ヘンリックは無言だったが、答えないことが答えになっている気がした。彼はこういうときに気休めは言わない。
フェリックスもマティアスも黙って悲痛な顔をしている。
彼らは今、ミアと同じくミアの母に思いを馳せているはずだった。
《天使の涙》の患者は優遇されていると思っていた。薬も開発されて。不公平だと思っていたけれど、もしかしたら事実はミアが思っているより遙かに残酷なのかもしれない。
《天使の涙》を発症してしまった魔術師は、あのように凶暴化してしまう。そんな人間が果たして、死と隣合わせの軍で使えるのだろうか――?
もしかしたら、軍は使い捨てるつもりなのかもしれない。《悪魔の爪》の患者だけでなく、《天使の涙》の患者さえも。
ぞわりと背中が粟立ったときだった。
「《不良品》は捨てるってことか。昔からこの国――イゼアはずっとそうだ。ラディウスを滅ぼした『力』しか認めない」
フェリックスがつぶやくと踵を返す。
「あっ、おい! フェリックス!」
マティアスが叫び、ミアはとっさに駆け出した。彼の発作が怖かったのだ。
*
ぜいぜいと息が上がっていくのがわかる。息苦しさが急激に増加し、発作が起こりかけている。だが、フェリックスは足を止めることができなかった。
だが彼はやがて膝をつき、顔を上げる。
そこは学院の中央に位置する広場。円形になっていて、なだらかな壁にはずらりと肖像が並ぶが、そのうちの一枚にフェリックスの目は釘付けになった。銀色の髪に灰の瞳。怜悧な美貌を持つ、イゼアの偉大な王。
「レオナルト王」
それはノイ・エーラの発明を行った過去の王。王という立場にありながら学問によって国を救った英雄だ。だからこそ学術の最高機関である、このイゼア王立学院のシンボル的な扱いをされている。
だが彼にはおとぎばなしのような逸話があった。イゼアの子供はたいてい読み聞かせてもらっている優しいおとぎばなし。
隣の大国ラディウスの姫君に恋をして、彼女に相手にしてもらうために貧しい国を豊かにしようとしたという。そのための手段がノイ・エーラだったのだ。
だが、そんな可愛らしいおとぎばなしには続きがあった。
ノイ・エーラはイゼアを豊かにしすぎた。強くしすぎた。力は膨れあがり、やがてラディウスを滅ぼした。愛する妻の祖国を。
レオナルト王は、その結末を予想していただろうか。予想した上で、それでも彼女が欲しかったのだろうか。
その残酷な血が自分にも流れている。
ミアの母を苦しめるものは、ノイ・エーラという忌むべき技術だけではない。
その力を武力として使ったのは――この身に流れるイゼア王家の血。それが、フェリックスは厭わしくてたまらなかった。
「――いなければよかったんだ」
床に膝をつく。全身から汗が吹き出し、息ができなくなった。
何度も経験しているし対処の仕方も言い聞かせられているのに、いつもどうすればいいのかわからずパニックなる。
あの温かい手がほしい。耳に優しいあの声で、大丈夫だと言ってほしい。
目の前が暗くなったとき、背に温かい手が触れた。
「フェリックス。大丈夫だよ。息を吸わないで。私を見て、ゆっくり話をするの」
小さなその手があなたが必要だ、と言っているように思えてフェリックスは泣きたくなった。
彼女の言うとおりに顔を上げる。涙で滲んだ視界に広がるのは、心配そうな──フェリックスを気遣う優しい眼差し。
真っ直ぐに見つめられ、フェリックスは懺悔をしたくなる。
(君のお母さんがああなったのは、軍部を抑えきれていない王家のせいだ──おれのせいだ)
賢い彼女ならばそれを知ってるだろうに。末端に属しているのに全く役に立たない自分のことも。
(だというのに)
ふがいない自分にも彼女はこんなにも温かい。
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