3 正論博士ヘルムート=ブラル

 煙突から流れ出す煙が夕日で赤く染まっていく。遠くで鐘が鳴っている。

 図書館も閉館し、フェリックスを探していたヘンリックとマティアスも広場に現れた。合流した四人は静かに夕日を背に歩き出す。日が落ちかけた廊下は静まり返り、四つの足音だけが響いた。

 鍵を返しにリューガーのところへ向かうと、先客がいた。その顔を見てヘンリックがあからさまに顔をこわばらせる。ミアは緊張から背筋を伸ばす。


(これが、正論博士……)


 医科の教授、ヘルムート=ブラル。リューガーとは違って中肉中背で細面の紳士だ。ひそめられた眉のせいで、毎日不機嫌に見えるし、ひどく神経質そうにも見える。リューガーと並ぶと余計にだが、体温と血圧が低そうに見える。


(なんというか……トカゲを思い出すのよね……)


 頬を引きつらせつつ、ミアはリューガーに鍵を差し出した。


「あの、鍵をありがとうございました」


 隣でブラル教授は口元をゆがめて笑う。


「おや、閉架図書かい? 一体何を調べていたのかね」


 冷たい笑みに思わずミアはひるんだ。


「ああ、はい。今日は《天使の涙》の薬について――」


 ミアの発言をブラルは遮った。


「君たちの研究テーマは確か、『《悪魔の爪》は本当に感染するのか』ではなかったか? なぜ関係のない《天使の涙》について調べている?」


 ミアは瞠目した。

 タイトルこそそういうタイトルではあったが、内容を読めば、《悪魔の爪》と《天使の涙》との関連性は一目瞭然のはず。


「いえ、それは、」


 反論しようとすると、ブラルに先を越される。


「そもそも感染の有無がまだ証明されていないだろう。そういう論文は見ていないが」

「論文って……あれは軍部の陰謀だって、あれを読んだなら先生だって知っているだろう?」


 フェリックスが苛立った声を上げた。


「それをどう証明するつもりだ?」

「証明って……現におれは感染しなかった!」

「君が特殊だっただけかもしれない」

「あの場に私たちもいました!」


 ミアが口をはさむが、ブラルはふん、と鼻で笑った。


「データが全く足りないな」

「…………あの医師が証言してくれる」


 フェリックスが絞り出すように言う。

 あの医師、というのは、サナトリウムでミアたちの味方になってくれた老医師のことだろう。サナトリウムの患者を人質に取られて、半ば軟禁されていた正義感の強い人だった。

 慌ただしく別れたせいで名前さえも知らないままだが、きっと協力してくれるはず。

 凛とした立ち姿を思い出していると、ブラルは言った。


「そうかな。医師会で聞いたところ、彼女は別のサナトリウムに異動になったそうだが」


 ミアは目を見開いた。思わず会話に割り込む。


「別の? どこです」

「さあ、詳しくは知らない」


 ミアはひやりとした。軍部があの先生をそのままにしておくとはとても思えなかった。それに、ふと湧き上がった不穏な予測に鳥肌が立つ。


(待って。じゃあ、先生は――レッツ先生は。秘密を明らかにしようとして、そして……)


 ミアは育ての親であり、師匠であるレッツの死因が心臓の発作だと聞かされた。だがそれは原因不明の死因の代名詞だ。国の隠蔽を知らなかった当時は疑いもしなかったけれど。


(もしかしたら――だとしたら、絶対に許せない!)


 怒りで目の前が赤くなる。だが、フェリックスがミアの肩をそっと抱いて ささやく。


「ミア、落ち着け。彼女はおれがきっと捜し出す。手は出させない」


 温かく大きな手の感触に、我を忘れかけようとしていたことに気がつく。


(あぁ、もしそうだとしても。怒りを向けるのは今じゃないし、相手は、この人じゃない)


 落ち着こうと深呼吸をする。と同時に彼の手は役目を終えたとでも言うように離れていく。今のがまるで気のせいに思えるかのように。

 ブラルは追い詰めるように続けた。


「とにかく、君たちはあのテーマによって資金を得ているのだから、テーマを遂行する義務があるのだが。でないと援助は打ち切らざるを得ない」

「ですが」


 ブラルの言うことは正論だ。だが、もどかしさに叫びだしたい気分になる。どうしてわかってくれないのだと。


「ブラル教授。だとしても《天使の涙》からのアプローチが全く無駄だとは言い切れないでしょう」


 リューガーが助け舟を出すと、ブラルは「どうだかな? ――まぁ、ほどほどに期待しているよ」と冷たい笑みを浮かべて黙り込む四人を見つめた後、部屋を出て行った。


 *


「ヘンリック、正論博士っていう意味、わかった……わ」


 心がしょんぼりと沈んでいるのがわかる。

 テーマを変えるのならば、金は出さないとブラルは言ったのだ。そして研究費がなければ研究はできない。薬を作るのには莫大なお金がかかる。

 だが、証明も何も、感染しないことは明らかだ。《悪魔の爪》の患者が隔離されているのは、病気の原因について情報が漏れないようにするための軍部の隠蔽工作なのだから。それをフェリックスが体を張って証明してくれたし、あの医師は証言してくれた。隔離しているのは《悪魔の爪》が感染するからではなく、《悪魔の爪》の患者の免疫が弱いからだと、この耳でしっかり聞いた。

 ブラルはあの場にいなかったが、リューガーたちに聞いてその事実を知っているだろうに。なのに、証明しろ、とは。


「融通が利かない正論の男が一番たちが悪い」


 ヘンリックがぼそっとつぶやき、周囲に同意のため息が落ちる。そんな四人を見てリューガーが「彼は科学者である前に医者だからな」と言ってわずかに笑った。


「医者……ですかね」


 ヘンリックは納得いかないといった様子だった。ミアも同意する。医者であるならばもっと《悪魔の爪》の患者に対して、力を尽くしてくれると思うのだが。


「納得いかないか?」


 素直にうなずくと、リューガーは「彼は誤解されやすいからな」と苦笑いをする。


「だが正論は、その名の通り間違っていない。君たちは、あの隠蔽された事件を知らない多くの人間を納得させなければならない。今のままでは、ただ学生が騒いでいると言われるだけだ」


 ミアは思わず頬を膨らませる。


「先生もブラル先生の味方ですか?」

「立場的には。だが心情的には君たちの味方だ。心の中で力一杯応援している。だが、私たちも論拠がない限り──論文にしない限り、軍部と正面切っては戦えない。だからこそ君たちに期待している」

「それ、つまり、手伝ってくれないってことですよね……」


 一年の時の手厳しさを思い出す。企画書を何回リジェクトされたことか。


「あきらめるのか?」


 げんなりしていると、リューガーは意外そうに眉を上げる。


「そんなわけありません」


 あきらめるなどという言葉はミアの辞書には載っていない。反射的に答えると、なんだか力が湧いてきた。

 そうだ。簡単にあきらめてたまるものか。


(お母さんを、きっと外の世界に連れて行ってあげるんだから)


 リューガーはにやりと満足げに笑って「いいか。君たちがおのおのきちんと力を発揮すれば、きっと全部うまくいく」と言ってミアたちを送り出した。

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