13 水薬と母の手紙
腕の中でうつらうつらと眠るミアを抱えて、フェリックスは寮へとたどり着いた。門を超えると、道は二つに分かれている。右が男子寮、左が女子寮。むさ苦しい香りのしてきそうな右を避けて、フェリックスは左の道を行く。
寮は閑散としていて、人気がない。冬休みを前に皆、家に帰っているのだろう。
のっそりと現れた寮母に部屋まで運ぶと訴えたが、男子禁制とミアは奪われてしまった。
「はい、狼君はここまでー!」
「いえ、部屋まで運ばせて下さい! か弱い女性に力仕事をさせるわけには――」
と食い下がろうとしたものの、途中で「要らないよ」と男手が必要のないのがひと目で分かる二の腕を見せられてしまい、引きさがざるを得なかった。
警戒する寮母に睨まれて、一旦、自分の部屋に薬を取りに戻ったフェリックスだったが、すぐに女子寮前に舞い戻った。
任せておけばいいのだろうけれど、ここには彼女を見張る目がない。寮母も始終見張っておくほど暇ではないはずだし、フェリックスが観察する限り、彼女にはまだ世話をしてくれるほど仲の良い同性の友人はいなそうだった。むしろ病状を悪化させそうな人間に心あたりがあるくらいで。
(一人にすれば、無茶をするに決まってる)
しばらく女子寮の前をウロウロとしたフェリックスは、ふと健やかに育つ大木に目をつけ、よじ登りはじめる。
◇
どさり、という雪の落ちる音に、ミアがふと目をあけると、フェリックスが心配そうな顔をしてミアを覗き込んでいた。ぎょっとして起き上がろうとすると、「病人は寝てなさい」と額を指で軽く押され、ベッドに押し戻される。
(え、え、ここ――)
前後不覚に陥ったミアは目だけを動かして現状を確認する。
太陽を喰らう月の紋章の入った天井、焼けた壁紙、古いけれど、造りのしっかりした窓枠。そこにかけられた薄い、生成りのカーテン。内装は好きなものに替えて良いことになっているが、ミアは経済的理由もあって入室した時に揃えてあったものをそのまま使っている。だから、自分の部屋なのかどうかを確認できるものは少ない。
ミアは横になったままサイドテーブルの上に手を伸ばし、母からの手紙を探った。手がごわごわの紙に触れ、ミアはほっと胸をなでおろした。
どうやら寝落ちてしまった間に、ミアの部屋に運ばれていたようだった。急激な眠気は、医務室でもらった解熱剤のせいかもしれない。
だが、フェリックスは女子寮にどうやって入ったのだろう。寮は学院の敷地にあるため、生徒であることが証明できれば入寮は可能。だが、性別が違えば寮には絶対に入れないはずなのだ。そのあたり、とても気になるけれど、どうしても思い出せない。
「も、もう一人でも大丈夫だから、出て行ってくれない? ここ女子寮だよ。見つかったら大変」
さすがに異性と二人きりなど落ち着かない。彼の好意は、きっと刷り込みみたいなものだろうけれど、目に映る姿は十七歳の男の子。しかもかなり素敵な部類に入る男の子なのだ。
(りょ、寮母さーん! 仕事して!)
叫びたくなるけれど、もしこのこと――男子を寮に連れ込んでいることがばれたら、ミアもただじゃすまない。退学になってもおかしくない。それだけは避けたいとミアは悲鳴を飲み込んだ。
「出て行かないよ。だってミア、目を離したら、続きやっちゃうだろう」
そう言って彼はミアの筆記机でガリガリと何かを書き始める。ちらと覗き込むと、どうやら企画書作成を行っているらしい――が、いかんせん、内容がミアのやりたいこととずれているように思えた。
「お願い、わたし、時間がないの。見逃してくれない?」
懇願すると、フェリックスは悲しげにミアを見た。
「俺は、さ。ミアの夢を応援したいよ。だけど今、君が起きることは許さない。頼ってよ。ミアは一人で抱え込みすぎてる」
フェリックスはミアの前にかがみこんで、真正面からじっとミアを見つめた。
怒られるのを覚悟していたミアは、優しい言葉をかけられて、心がふっと緩むのがわかる。
「話して? どうしてミアはそんなに必死になってる? まだ君は――俺もだけど――一年生でさ、子供なんだ。そういう難しいことは大人に任せておいて、自分のできることをやればいいと俺は思う。この国には優秀な研究者がたくさんいるんだ。難病だから、まだ薬が開発されないけれど、研究はやってる。だってあれだけ皆が怖がる、恐ろしい病なんだから」
フェリックスは励ましをくれるけれど、ミアは小さく首を横に振った。きっと国民の大多数の認識はそうだと思う。病があれば、治療薬は開発されるものだと思い込んでいる。だけど、それは砂糖菓子みたいに儚い幻想だった。
「……開発は、されないよ」
ミアはぽつんと言葉を落とす。口にしたとたん、信じたくないと思っていた仮定が確信に変わるのがわかった。
「え?」
フェリックスが眉をひそめるのに構わず、ミアは続けた。干からびたがらがら声が出たけれど、構わなかった。
「《悪魔の爪》が発症したのは《天使の涙》が発症したのと同じ時期って、この間のレポートの時に調べたよね。だけど《天使の涙》の薬は開発されて随分経つ。同じ月日をかけてるのなら、どうして《悪魔の爪》の薬だけ出来ないのか不思議だった。わたし、母がサナトリウムに入ってから十年、付属の施療院で修行しながら待ったのよ? いつ薬ができてもいいように待ってたのよ? でも《天使の涙》の薬はどんどん改良されているのに、《悪魔の爪》の薬は一つもできていない。そしてね、ここに入って知ったけど、過去に一度も卒業研究のテーマになっていないの。それって、作る気がないからだと思わない?」
「それは――」
フェリックスはなにか言いかけたが、反論が浮かばなかったらしい。
「お母さんはこのままじゃ、サナトリウムで一生を終える。リューガー教授が言ってたの。薬を作るにはとてつもないお金と時間がかかるって。それでわかった。《天使の涙》の罹患者も、《悪魔の爪》の罹患者も患者の総数はほとんど変わらない。けれど《悪魔の爪》にかかっている人はね、いくらでも替えのいる庶民なの。そして《天使の涙》に罹るのは、国の宝である魔術師なの」
「ミア」
フェリックスがそれ以上は言うなとでも言うように遮るけれど、ミアは止まらなかった。
「だから、わたしが――当事者が開発するしか、手がないのよ」
フェリックスがミアの手を握りしめた。
「だけど――そうだとしても来年がある!」
「だめよ。今年じゃないと、だめなの。補助金は二年に一度だもん。今年お金が下りなければ、研究はできない」
リューガー教授の言葉で身に沁みていた。ミアには今年しか無いのだ。
笑ったはずだったのに、「泣くな」とフェリックスはミアを抱きしめた。そうしてミアの髪に頬を埋め、大きな手で、優しく、優しく頭をなでる。その仕草にミアは胸が詰まる。ずっと昔、母がそうしてくれたのを思い出したのだ。
とくん、とくんとフェリックスの胸の音が聞こえる。とろとろとこわばった心が溶けていく。ミアが心地よさに流されるようにして、体の力を抜いたときだった。
「俺が、きっとなんとかする。薬は絶対作れるよ」
どういうこと? 顔を上げる。真剣なまなざしにミアの心臓がはねた。
「だから、頼むから、無茶はしないでくれ。もし君に何かあったら、俺は――」
彼がちらりとサイドテーブルに目を走らせる。そこには解熱剤があった。さっき医務室で飲んだのと同じものだろう。だが、フェリックスは薬から目線を外すと、胸元から小さな瓶を取り出す。
「飲んで。これを飲んだらすぐに治る」
僅かに紫がかった水薬。それは施療院でさんざん手伝いをしてきたミアでも見たことのない種類の薬だった。匂いを嗅ぐと、甘い。だが、苦味を隠している甘さだった。なんにせよ、施療院で使っていないような薬など、怪しくて飲めるわけがない。
「俺の主治医がくれた薬。よく効くから」
「なんていう薬? わからないと、飲めない。解熱剤との副作用も怖いし」
するとフェリックスは僅かに目を泳がせた。
「解熱薬との副作用はない。ただ、薬の名前はよく知らないんだ。でも――俺を信じて」
「だから、何を根拠に信じればいいっていうの。法科のあなたが、施療院にも置いていない謎の薬を持ってきて、成分もわからないのに飲ませようとする。あなた、逆だったら飲める?」
「ミアのくれるものなら何でも飲める」
堂々と胸を張るフェリックスを見て、聞いた自分が馬鹿だったとミアは思う。
「じゃあ、フェリックスが飲んで無事なら飲む。あ、解熱剤も一緒に飲んでね」
「信用されてないのか」
「今の説明で信じてもらおうというのは、ちょっと甘いと思う」
フェリックスはあからさまに嫌な顔をした。そしてぼそっと不満をこぼす。
「ミアは女の子のくせに理屈っぽい」
「フェリックスは男のくせに理屈が通用しない!」
それはミアの劣等感を直に煽る発言だった。頭が固くて可愛くないと言われているように思えて、そんなの自分でも知ってる! とカッとなって言い返した時だった。
「いいから――とにかく飲んで。飲まないなら無理にでも飲ませるよ」
急に迫力を増したフェリックスにびくりとする。いつも柔和な目に険があった。どこか遠くを見る目に思えて、ミアは自分の後ろに誰かがいるような錯覚を抱いた。後ろを振り返りかける。だが、
「俺は二度と、大事な人を死なせるわけにいかないんだ。死なせてたまるか」
目の前で薬を煽ったフェリックスを見て、次に何をされるのか、雷に打たれたかのように閃いた。もし勘違いだったとしても、そうして恥をかいたとしても。うっかり被害に遭うよりはましだと思った。
(あのね! それはいくらなんでも駄目だから!)
びたん! 思わず手に持っていた手紙ごと、手のひらをフェリックスの顔に押し付け、彼の行為を阻止する。
(お母さん、ごめん! どうか、貞操を守るのを手伝って!!)
祈るようにして、ミアはより一層強くフェリックスの顔に手紙を押し付ける。
「…………」
しばし黙って手紙にくちづけをしていたフェリックスは、やがて、ひどく落胆した様子でミアから離れ、よろよろと床にしゃがみこんだ。はらりと手紙が顔から剥がれた後のフェリックスは涙目だった。彼は口の中の薬を飲み込んで「……まずい……」と呻いた。
一難去ったとホッとしたミアは、フェリックスに向かいあうと、床に指をさす。おすわり――とでも言うように。意図はすぐに伝わったらしく、彼は叱られた犬のような顔で床に正座した。
「フェリックス=カイザーリング。いいですか」
極力静かな口調は、動揺の裏返しだった。
「極度に弱っていないかぎり、風邪ではまず死にません。そして風邪というのは接触感染します。あと、口移しというのは――特に男女間では――軽々しくしていいことではありません」
まるで先生のような口調は、自分が優位であると示すための虚勢だ。だってとても普段通りに接することは出来なかった。なついていた子犬が、突如、狼に変身したようだった。もしフェリックスがミアを異性としてあんな風にしたのだったら、どのように反応していいかわからない。
(っていうか、あれ? よく考えたら同性間でも駄目だよね! ああ、接触感染とか、口移しとかいう言葉が生々しい! うああああ!)
自分で言っておいて羞恥で爆ぜてしまいそうになる。だが、ミアの混乱をよそにフェリックスは突如呆然と呟いた。
「接触、感染?」
そして、うつむいて息を詰めた。様子がおかしい。そう思って彼の視線の先をたどると、彼の膝の上には先ほどミアが押し付けた、母からの手紙があった。
「これ……ザーラ=バウマンって書いてあるよね? お母さんからの手紙?」
ミアは頷きつつ、手紙を取り返す。そして危機を救ってくれた母に感謝しながら、丁寧に皺を伸ばした。
『元気にしている? 先生に我儘言っていない?』
そう始まる手紙には、母のいる狭い世界のことは何も書かれていなかった。ミアは母がどうしているか知りたかったけれど、母はミアの事を尋ねてばかりだった。返事なんて、ミアからは届けられないのに。
『ミア、いつもあなたのことを思っています――』
そんな言葉で〆られた、大事な大事な手紙。
「うん。お守りなの」
「え、でも――」
不可解そうなフェリックスが、口に手を当てている。一体何を言いたいのかがミアにはわからなかった。フェリックスは逆に、ミアがどうしてわからないのかといった顔をしている。
「これってまだ比較的新しく見えるけど……いつもらったものなの?」
「母が入所してから毎月欠かさず送ってくれてたんだけど、それが最後の手紙なの。レッツ先生が――レーミルトの施療院の先生ね? ――が内緒で中継ぎをしてくれていたんだけど、先生が亡くなってからはもらえなくなって」
だから半年くらい前のものだ。
生みの親である母を取り上げられ、育ての親である先生を亡くし、一人になったミアはここにやってきたのだ。
「それは、変だ」
「え、なにが」
「だって、《悪魔の爪》の感染力は強くて、少しの接触で感染するんだろう? だから、施設に隔離されている。なのに、感染を促すようなことを、よりによって施療院の先生がやるのか?」
言われてミアは突如思い出した。記憶の片隅に沈み込んでいた、レッツ先生の言葉。先生はいつも内緒でミアに手紙を渡したあとに、こう言ったのだ。
『この手紙は安全だ。だが安全であることの意味を、大きくなったらじっくり考えるんだ』
消毒を施しているのだと思いこんでいた。だが、よく考えると、消毒などどうやって? アルコール消毒や煮沸消毒をすれば、手紙は原型を留めないだろう。
考えれば考えるほど、別の意味に取れるような気がした。
(お母さんからの手紙が、安全……?)
ミアは、降りてきた仮定を口にする。
「まさか――伝染らないってこと?」
固定観念が砕かれてぱらぱらと崩れ落ちていく音がした。
「わからない。短絡的に信じてしまうには危ないと思う。でも――調べてみる価値はある。伝染らないのなら隔離する意味がわからないから」
難しい顔をしたフェリックスが、いつもの脳天気な彼とは別人に見える。彼は眉間にしわを寄せたまま、窓に近寄ると、
「ちょっとマティアスとヘンリックに相談してくる。ミアはこれ飲んで寝てて。絶対だよ。企画書まとめたらまた来るから」
と言って、薬をサイドテーブルに置いて窓枠に足をかけた。
「え? ヘンリックって戻ってきたの!? ――また来るって――え、ちょっと待って――ここ二階よ!?」
矢継ぎ早に問うミアを無視して、フェリックスは窓枠からひらりと飛び降りる。
(うあああああ! 死亡事故!)
ミアが窓に飛びいて恐る恐る下を覗いた時には、寮の前の道を校舎に向かって駆けていく人影が見えていた。
「え、本当に、なんなの、あの人!?」
ミアはベッドに腰掛けると呆然と呟く。あまりに一度にいろんなことが起こりすぎて頭が情報を処理しきれなかった。代わりに、身体の方が一番最初に思い出したのは、紙越しに触れたときの柔らかい感触。そして、熱を孕んだ肉食獣のような瞳だった。
(いくら好意があったとしても、そこまでする? もしかして――単なる、好意じゃないってこと?)
とたん、ミアはぶわっと顔に血が集まるのがわかった。
「……本当に、なんなの、あの人」
ミアが、唇を奪われかけた文句をいう暇もなく去っていった。怒りを込めようとしてもう一度呟くけれど、その声は先ほどより勢いを欠いていた。
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