14 《悪魔の爪》は本当に感染するのか?
フェリックスが(図らずも)毒味をして置いて行った薬を、ミアは悩んだ末に結局飲んだ。あそこまで言われて飲まないのは可愛くないと思ったし、治りたい一心だったのだ。薬は甘くて苦い不思議な味だったが、とてもよく効いた。翌日にはミアの熱は完全に下がり、見事復帰を果たしたのだ。それはすごく嬉しいことだったが、薬の瓶を見るたびにミアはフェリックスを意識して赤面するはめになる。
(あああ、なんだか、普通に顔見れない気がする。どんな顔をして会えばいいの)
まとめたら来ると言ったにもかかわらず、朝になってもフェリックスはやって来なかった。気まずい思いをしながらいつもの談話室に向かったミアだったが、その気まずさはすぐに吹き飛ぶことになる。
「ああ、ミア――」
三人は徹夜でもしたのだろうか。夜が明けたことにも気づいていない様子でレポート用紙にかじりついていた。フェリックスはミアを見るなり、ぱっと顔を輝かせる。
「熱下がったの?」
「う、ん。薬が効いたみたい」
「だろう?」
「薬?」とヘンリックが問い、フェリックスが答える。
「うん、俺の主治医がくれたやつ」
「あー、高すぎて一般に流通してないやつね」
ヘンリックが物知り顔で言い、ミアはなるほどと思う。薬効は高いけれど、希少すぎてすべての施療院に置かれていない薬というのは確かにあるのだ。そういった薬は都市の施療院にしか置かれていなくて、貴族など限られた人にしか流通しない。
(一体いくらしたんだろ……)
考えたくない。万が一返せと言われたらどうしよう……フェリックスから目を逸らしたミアは机の上に置かれたレポートを見て目を見開いた。
フェリックス達三人がミア不在の間に考えたテーマが書かれていたのだ。
《悪魔の爪》は本当に感染するのか?
その端的な文章に、ミアは感嘆のため息を漏らす。具体的、かつ、興味深い。《悪魔の爪》の病素などと言われてもピンと来ないし、どう調べていいのか見当もつかないけれど、これなら何を調べればいいのかという道筋が見える。ゴールも見える。
「すごい。これ、いいと思う!」
興奮気味に賛成し、テーマについての考察と概要を急いで追加した。そして、冬至祭前日、ギリギリで提出した企画書は、なんとリューガー教授という壁をあっさり乗り越えたのだ。
『上手く絞ってきたな。とても簡潔な良いテーマだ。私も興味がある。計画書も期待している』
というびっくりするくらい優しい言葉と、《優》《良》《可》《不可》の中で、最良の成績を表す《優》の文字が企画書の右上には書かれていた。これで前期の課題はクリアして、単位も一つ取得できたことになる。
「やっと、一歩進めた……」
ミアが思わず涙ぐむと、フェリックスが慌てたように「だから、えっと、人前で泣くのはだめだ」とハンカチで乱暴に顔を拭った。
「ちょっと、やめ――痛い! なんでそんな乱暴にするわけ」
するとフェリックスは真面目な顔で言い切った。
「その顔は人に見せるものじゃない」
女の子に対して言う言葉!? そりゃあ、自分でもひどいと思うけれど! ――とさすがにミアが目を釣り上げると、フェリックスは慌てた。
「いや、そういう意味じゃなくって――ええと、あの、……――たくなるっていうか」
もごもごと言うフェリックスの言葉を、
「二人とも、遊んでる暇はないよ」
ヘンリックがやや苛立った様子で遮り、フェリックスはむうっと口をとがらせて黙りこんだ。
マティアスが苦笑いをしながらフェリックスの肩を叩くと、ヘンリックに尋ねた。
「次の手順は?」
「四月までに仕上げにはいる。時間がない。手分けしていかないと駄目だろうな」
冬至祭が終わればすぐに年明け、一月だ。ミアは思わず口を挟んだ。
「え、ってことは三ヶ月で? 夏至祭前までにって言ってたよね?」
「まあそうなんだけど、どうせ出すならこれも狙うべきだろう? それなら冬休みで浮かれてる場合じゃない」
ヘンリックは卒業研究のガイダンス資料を出した。
そこにあった『研究費補助金には別途申請が必要。五月までに指定の申込用紙で申請すること』の文字に目が丸くなる。
「え、これって申請別なの? 五月!?」
狙うつもりでいたが、手続きのことが頭からすっかり抜けていた。てっきり計画書の締め切りに間に合えば良いのかと思っていたミアは蒼白になった。
「君って、肝心なところで本当に抜けが多いな。危ない」ヘンリックが呆れた様子で言う。「補助金には獲得するためのコンペがあるんだ。競合させて優秀なテーマに賞が出る。審査が授業のとは別にあるんだよ。しかも上級生も補助金欲しさに出すし、相当頑張らないとだめだけど」
「《優》を取れば出るわけじゃないんだ……」
企画書が通ったことで浮かれていたミアは気を引き締める。本当にスタートに立ったばかりなのだ。
「感染性の有無の根拠は、ミアの母親の手紙だけだろう? 他にアプローチ方法は?」
問われてミアは考えこむ。とにかく情報が少なすぎるのだ。
「できれば患者さんや付属施療院の先生に話を聞きたいよね。一般人がサナトリウムに入れる方法があればいいんだけど」
レッツ先生が生きていたらな……とミアは呟くと、ヘンリックが不思議そうに目を瞬かせた。
「そういえば、法律で厳しく定められてるのに、君よく雇ってもらえたよね? 助手だったんだろ? 助手だとしても審査がありそうなものだけど」
ミアは天井に目を泳がせる。基本、感染を恐れる人が多いため、サナトリウムの施療院はいつでも人材不足だった。その上正規の助手の人があまり仕事をしていなくて――それどころか、ほとんど出勤していなくて、手が足りなかったのが、ミアが置いてもらえた理由だ。助手の人はミアと同時にクビになっていたが、それが当然だと思えるくらいに無能な人だった。
「う……ん、雇ってもらえたって言うより、先生が個人的に置いてくれてただけだから。周りに何もない田舎だったから、いろいろ緩かったのかも」
ヘンリックは納得いかなそうな顔のまま続けて呟いた。
「……君の師匠はどうして手紙を渡すなんて危ないことをしたんだろう。気になるな」
「わたしが可哀想だったから?」
「それだけじゃない気がするな。だって、ばれたら職を失う。人生が狂いかねない」
「ずっと消毒してたのかなって思ってたんだよね。でも紙の消毒って結構難しいよね? 煮沸すると紙が溶けるし、アルコールでもインクが滲むし。だからカルテも隔離病棟には入れないで、先生、メモをしてきて外で書きこんでたくらいだし――」
ミアが言った時だった。ヘンリックがはっと顔を上げる。
「……あぁ、そうだ。患者に接触は無理でも、せめて、カルテが手に入れば――」
すると専門的な会話に割り込めずに黙っていたフェリックスが弾けるように立ち上がった。
「――確か、指定疾患のカルテは国が管理するように法律で定められてる。その一部は研究資料として王立学院にも保管されてる! ――ここ! 図書館だ!」
「それ、ほんと?」
ミアは思わず椅子から立ち上がった。
「去年の法科のテストに出て不正解だったから、間違いない」
追試で落ちたらまずいから、俺、同じ間違いは繰り返さないんだ――と堂々と胸を張るフェリックスに、
「随分マニアックな問題だな」
そしてそれは誇れるようなことじゃないだろーが、と呆れ顔のマティアスが毒づくが、顔を輝かせたフェリックスは気にせずに談話室を飛び出していく。そんな彼を見て、ミアは目を丸くする。役に立ったのがそんなに嬉しかったのだろうか。
「ミアはどうする?」
ヘンリックに問われて、ミアは答える。
「わたしはとりあえず、フェリックスとカルテをあたってみる」
追いかけようとミアは思ったが、湧き上がったある考えに一瞬立ち止まる。カルテがここにあるということは、必要なくなったということ。つまり、カルテは《悪魔の爪》で亡くなった患者のものだろう。すぐさま母のこと、母の未来のことに結びついてぐっと胸が詰まる。
ヘンリックが「任せて大丈夫?」とミアの背中に問うが、ミアは「大丈夫」と根性で気丈に振る舞った。せっかくの糸口、手放してたまるものか。
「じゃあ僕は別行動をするよ。マティアス、君にちょっと手伝ってほしいことがある。まだ仮説にすぎないんだけどさ、気になることがあって」
「ああ? いいけど……なんで俺」
マティアスが頷きつつもぎくりとしたような顔をしている。
「忘れそうになるけど、君は魔術科だろう。魔力と《天使の涙》について調べるのを手伝って欲しい」
「《天使の涙》? 《悪魔の爪》とは関係なくない?」
ミアは不思議に思って尋ねる。
「うん、関係ないと思う。けど、発症時期が《ブリュッケシュタット抗争》のあとで、ほぼ同じってところがずっと引っかかってるんだ。だからその時期にあったことを徹底的に調べてみたい」
「歴史からのアプローチってこと?」
「まあ、そんなところ」
少し腑に落ちないけれど、これでフェリックスに続いてマティアスの役割も決まる。最初はどうなることかと思っていたけれど、案外噛み合っていくものだと感心すると同時に、むくむくと希望が湧いてくるのがわかった。
もしもミア一人でやっていたら、きっと今頃膨大な課題の前に絶望していたことだろう。
でもミアにはこうして仲間がいる。そのことがひたすらにありがたくて涙ぐむと、ヘンリックが「ひどい顔になってる。フェリックスが飛んで来るよ」と苦笑いをした。
資料は閉架の書庫にあるらしいと司書の先生に聞き、ミアはフェリックスとともにリューガー教授の部屋へと向かった。閉架は専門の教授が鍵を管理していて、許可がないと入れないそうなのだ。カルテの管理はやはり医科なのかと聞いたら、創薬の資料でもあるので、薬科の教授も鍵を持っているとのこと。となれば面識のあるリューガー教授のほうが話をしやすいと思ったのだった。
だが間が悪く、教授は不在。ミアは諦めきれずに隣の準備室へと向かう。そこには助手のアインツ先生がいるはずだった。
予想通りに在室していたので、事情を話して閉架の鍵が欲しいと告げたが、アインツ先生は困ったような顔をした。
「手伝ってあげたいのはやまやまなんだけど、こればっかりは規則だから」と断られる。
「わかりました、今度お借りしたいと伝言をお願いしてもいいでしょうか?」
「ええ、伝えておくわね――っていうか本当に熱心ねえ。明日は冬至祭なのに。冬休みは家に帰らないの?」
ミアには帰る家がない。施療院を出て半年住んでいた下宿も、既に他の人が借りている。「わたしは、寮に残るので」と言うと、アインツ先生はミアの境遇に思いを馳せたのだろう。申し訳無さそうに顔を曇らせて「そうだ」と話題を変えた。
「犯人、まだ見つからないのよ」
何のことだろうと考えかけたミアにアインツ先生は「あなたを凍らせた犯人よ」と不可解そうな顔をする。
「他に何か覚えていることがあれば、もっとしっかり調査できると思うのだけれど」
ミアは横に首を振る。あれからミアは思い出そうと試みたけれど、凍った直前ではっきり覚えていることは赤という色だけで、なぜか性別さえも思い出せなかったのだ。
一応魔術科のマティアスが言うには、記憶も同時に凍るから、不可逆反応を起こすのだということらしい。
熱を通した卵が一度固まると、元の柔らかさを取り戻さないのと同じか? とのヘンリックの質問に頷いていたから、おそらくはそういうことなのだろう。凍ったせいで記憶が形を変えてしまったのだ。
確かに思い出せば犯人は捕まるだろう。だけど、ミアとしては、犯人探しにかまけている時間が惜しかった。計画書がそのせいでだめになれば、それこそ妨害してきた人間の思う壺のような気がしてならないのだ。
(妨害してきた、人か)
ミアが一人の少女の面影を思い浮かべた時だった。
「一応ね、」
アインツ先生は言いにくそうに目を伏せる。
「あの子たちにも話を聞いたのだけれど、知らないって言いはるの。《悪魔の爪》の研究をやめろって脅されたのでしょう。こちらでも注意しておくつもりだけれど、心配だわ」
ミアは頷く。ちらとフェリックスを見る。正確には、彼の周りをうろつくな――が正しい気がする。
『――困るのよね』
きっと尻尾を出すことはないのだろうけれど、犯人はきっとそう言った彼女。ならば、彼女の思い通りにしてたまるかと思う。あんな理由で、夢が潰されるのだけは我慢ならない。やられっぱなしが悔しくないわけではない。だけど、やり返して失うもののほうが多いならば、やり返さない事も重要だと思った。
隣には、彼女の執着するフェリックス。盗み見ると、慣れたとはいえ、彼の顔はやはり整っていて、眼差しは湖のように美しいと思った。女の子が騒ぐのもしょうが無いかもしれない。
(渡すものですか)
なんとなくそんなことを考えたミアは、にじみ出た独占欲に自分で驚いた。
(いや、だって、大事な仲間だし、ね!)
そんな言い訳をしていると、そのフェリックスがさらっと言った。
「何があっても俺が守りますから、大丈夫です」
大胆な宣言にミアは心臓が止まるかと思う。冗談だろうかとぎょっとしてフェリックスを見上げると、彼は真剣な眼差しでこちらを見下ろしてきた。なんとなく冗談にするには申し訳ない雰囲気。だが、第三者がいる場面ではどう対応していいやらと悩む。アインツ先生が少し呆れた様子で「あーはいはい。がんばってね」と適当に相槌を打つと、ミアには「随分懐かれたものねえ」と耳打ちした。
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