11 氷漬けの少女と赤いタイ
その日の夜、一人の生徒が薬草園で凍りついた状態で発見されたという知らせが学院内を駆け巡った。
薬草園でと聞いて嫌な予感がしていたフェリックスは、予感が的中してしまったことに青ざめた。ミアがその場所を気に入っていたことを知っていたのだ。
「例の嫌がらせはまだ続いてたのか?」
「ここのところ、奴ら、おとなしくしてたと思うがな」
中央校舎の医務室に入室すると同時に、入り口に立っていたマティアスに苛立ちをぶつける。そしてフェリックスは目を見開いた。抜けたはずのヘンリックが駆けつけていたのだ。彼は膝の上に置いた本を握りしめ、若葉色の目に剣呑な光を宿して、ミアをじっと見つめていた。
なんでいる!? 先を越された!? ――ものすごく悔しいとフェリックスは歯噛みする。
「やったのは魔術科の子なのだと思うのよ」
薬科の助手の先生――アインツ先生だったか――が付き添ってくれている。どうやら最初にミアを見つけたらしい。隣には、若い頼りなさ気な男性教師が立っている。どこかで見かけたけれど――と悩んでいるとマティアスが「魔術科の准教授、バール先生」と囁いた。
「私が明日の実験で使う薬草を摘みに行ったら、倒れていたの。氷みたいに身体が冷たかったから慌ててここに運んで、バール先生に解凍の処置をしてもらったわ。朝になる前に見つけられて良かった。じゃないと危なかった。凍死しててもおかしくない」
「アインツ君に叩き起こされてびっくりしたよ。氷結魔法がかけられていてね」
バール先生は気の毒そうにミアを見つめる。気が弱そうな彼の目はマティアスと同じく真っ赤だ。
「教科書に載ってた水属性の上級魔法だ。加減を間違ったら心臓まで凍らせて死ぬって書いてあったぞ」
「そのとおりだ。危険な魔法だよ」
バール先生が唸る。そして急に不快そうに顔をしかめた。
「アインツ君はうちの生徒というがね。魔術科は――というより、薬科の人間以外は、薬草園には立ち入りできないはずなんだがね」
「そこが謎なのよね……守衛のおじさんに聞いても、放課後はミア以外に入園した生徒は居ないって言っていたから。でも、他に魔術が使える人間なんて居ないでしょう」
「だがね、水属性の上級魔法を使える生徒など、少なくとも私は知らないんだが」
「密かに習得しているのかもしれないでしょう。教科書は入学時に上級魔法のものまで配布してあるのだし」
アインツ先生は難しい顔をしながらミアの額にかかった赤い前髪を払った。そして痛ましそうな顔で氷で冷やした布をのせる。よく見ると頬が真っ赤だ。どうやら発熱しているようだった。
「熱を出しているのですか」
「急激に熱を奪われたから、身体がびっくりしてるのね。反動で体を温めようとして熱が出ているの。つまりは風邪だから、大丈夫。本当に危ないのは体温が低くなる方なのよ。身体が死への抵抗をやめてしまうの」
風邪という説明にフェリックスはほっとする。
だとしても、一体誰の仕業なのだろうか。
(あの女か? アンジェリカ――アンジェリカ=ハイドフェルト)
フェリックスを狙って、ミアを威嚇していた少女の顔――いや、女の顔が浮かび上がる。彼女の家の冬至祭のパーティに誘われたが、ミアと一緒にいたかったから、理由をつけて断ったのだ。それがまずかったのだろうか。
少し前、ミアのかばんがなくなった事件――あれにも彼女は確実に関わっていたと思う。なぜなら、ミアのかばんは法科の談話室のゴミ箱に捨てられていたからだ。ミアが傷つくのが怖くて、告げる勇気はなかったから、落し物だと伝えたけれど。
ハイドフェルト家といえば、イゼアの辺境伯で交易で潤う南部ブリュッケシュタット領を治める名門中の名門だ。商業地の地所収入は相当なもので、莫大な財産も持つ。それがどうして農園を所持しているだけの男爵ごときを構うのかわからない。
(まさか、感づいているとか?)
ひやりとする。隠蔽工作はフェリックスが生まれた時からという入念さだ。理事長とマティアスしか知らない出自が簡単に見破られるとは思わないが。
(――ともかく)
脱線しかけた思考を元に戻す。ミアを凍らせたことにもし彼女が関わっているとすれば、いくら上流貴族でも許さない。フェリックスは顔を険しくした。その時、
「まずいな」
ヘンリックが同じく険しい顔をして呟く。
「企画書の締め切りは今週末だ」
一瞬構えたフェリックスはなんだそんなことか、とホッとする。
「ミア抜きでやればいいだろう」
「どうやって? 主幹部分が薬学だから、企画書は彼女が書かないとまず
いつしかリューガー教授は計画書の最大の壁と言われていた。脱落者は既に多数いるが、彼らは大抵が各ゼミの教授が考えたテーマに沿って卒業研究を行うことになる。今までに生徒が考えたテーマが通ったことはほとんどない。つまり、一年生が超えられるはずがない高い壁だった。
ヘンリックの弱気もしょうがない。そもそもフェリックスは会合に出ているだけ。一般的な医学薬学の知識が皆無なので、ほぼ二人に丸投げしているのだ。大きな口はとても叩けない。
「計画書の授業は来年もあるし、今回は諦めるしか無いかな」
《可》や《良》とか冗談じゃないし、とヘンリックがブツブツつぶやく。と、そのとき「諦めない、よ」とまるで聞こえていたかのようにミアが目を開けた。
フェリックスは噛みつくように尋ねた。
「ミア!? 大丈夫か!?」
「このくらい大丈夫」
「誰がやったか覚えているか? 魔術でやられたんだろ?」
「魔術……赤い……タイ? だった、と思う――けど、どうでもいい」
「どうでもいいって……」
「犯人を探している時間が、惜しいの。企画書、出さないと」
ミアは切羽詰まった顔でそう言うと、ベッドから起き上がる。だが目の焦点がまるであっていない。何も映していないようなうつろな目を見ていると、記憶が浮き上がって重なる。背筋を冷たいものが這い始める。
「寝てろよ。治るものが治らなくなる」
フェリックスはミアの二の腕を掴んで止める。だがミアは彼の手を振りきって立ち上がった。
「だめよ。わたし、このテーマに賭けてる。わたしと母には――これしかないの。わたし、図書館に行ってくる。調べ物の途中だったの」
ふらふらと医務室を出ていこうとするミアは、扉の前でめまいを起こしたのかうずくまった。
とたん浮かび上がった記憶の欠片。
『大丈夫か? クリス』
『ん、ちょっとめまいがしただけだよ』
あの時気づいてやっていれば――フェリックスは腹の底から湧き上がる熱い感情に突き動かされるようにしてミアを抱き上げた。
ミアは目を見開いた。だがフェリックスも同時に驚愕した。ミアは軽かった。どこにあの太陽みたいな熱量があるのだろうと思えるくらいに、軽かった。
「離し、て」
ミアが弱々しく抵抗する。フェリックスはむきになって言った。
「いいや、ミアは寝てろ。俺たちは一年だし、今回がだめでも、来年また出し直せばいい」
「いや。今回じゃないと、だめなの。間に合わなかったら、すべて駄目になる」
切迫した表情にフェリックスは怯む。母親の病気を早く治したいというのはわかるけれど、たとえミアが今企画書を出したとしてそれが実を結ぶのは最短でも五、六年後のこと。それに、今年駄目でも来年また志せば、卒業研究にはちゃんと間に合うのだ。こんな体調でやることではない。それでミアまで倒れたら、母親がどれだけ悲しむかと思うのだ。
だけど、今のミアには僅差でも重要らしい。だとしても、今にも力尽きそうな様子の腕の中の少女を見ると、とてもじゃないが企画書作成の続行を認めることは出来なかった。気づくとフェリックスは口に出していた。
「残りは俺がやる」
「なに言って――創薬のこととか、何も、知らないよね?」
「知らない。けど、まだ実際研究するわけじゃない。論文を書くわけでもない。リューガーを黙らせる企画書を出すだけだ。それなら三人で何とかできる、いや、なんとかするから。ミアは寝てろ。俺、見張ってるからな」
有無を言わせないとフェリックスは前髪が触れるほどの距離で説得した。ミアは迫力に圧されたのかぎょっとした顔をしたまま黙りこんだ。フェリックスはおとなしくなったミアをそのまま寮へと運んだ。
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