10 雪とチョコレート

 火が着いたように裏庭を駆け、図書館に向かい、談話室のいつもの席に荷物を置くと、すぐに薬科の資料が置かれている本棚へと向かう。ずらりと並ぶ本の列から、《感染症》に関わる本を数冊選んで机にかじりついた。気味が悪いからだろうか。あまり読み手がいないらしい。本は、虫干しもされていないのかカビ臭い。ミアは顔をしかめながら、病素という文字を追っては付箋をつける。リューガー教授の言葉を思い出す。


(患者に接触せずに、患者のことを調べる?)


 接触せずには病素を手に入れることもできない。そもそも、どこに病素があるのかも見当がつかないし、もし手に入れたとしても管理できるほどの技術を、一年生のミアはまだ持っていない。早速行き詰まってしまったミアは大きくため息を吐いた。


(もっと頭が良かったらな……)


 ミアは自分の成績が悪くないとは思っていた。だが、それと頭が良いことは違うとも思っていた。ミアはどうしても頭でっかちになりがちで、視野が狭いのだ。目先のことしか見えず、全体を見ることができなくて空回りをしてしまう。そう考えていると、目の前の空いた席を目が追ってしまう。ミアの知る限りで一番頭の良い人物の幻が見えて目を瞬かせる。だけど、ミアは首を振って幻影を即座に消す。自分の中でテーマが固まらない今は、まだ頼れない。同じことを繰り返してしまう気がするから。頼れるとしたら――フェリックスとマティアスの二人だ。

 彼らは創薬に関する知識がまるでないけれど、アイディアというのは別次元から生まれてくることが多々あるものだった。


(うん、三人寄ればレオナルト王の知恵とか言うし!)


 レオナルトと言うのは過去のイゼアの王。ノイ・エーラという、魔力を閉じ込められる石を発明した。魔術師が減ってきて、魔法が自由に使えなくなった国を、画期的な発明で支えた偉人だ。レオナルトの技術は隣国ラディウスの侵略から国を守ったと、歴史で習うまでもなく、格言となるほどの話だった。

 凡人でも――とひとくくりに言ってしまうのは申し訳ないけれど――集まればレオナルトのようなひらめきを得られるという格言を励みに、「とにかく……二人に相談しよう」と呟いて顔を上げた時だった。


「頑張っているわね」


 アインツ先生だった。入学して数ヶ月でここまで計画書に情熱を燃やす生徒はとても珍しいらしく、ミアたちをずいぶん気にかけてくれていた。放課後の談話室に菓子を差し入れてくれたことは数えきれないほどにある。優しく気が利いて美人な先生は、学院で《薬科の天使》の異名を持っていた。


「やっぱり《悪魔の爪》にしか興味が無いのねえ。苦労性としか言いようが無いわ」


 ミアの手元の本を覗き込んでアインツ先生は呆れたような顔をした。


「新しいことをするには力がいるけれど、あんまり根を詰めないでね。倒れたら大変」


 先生は「これ、後で食べてね」と例のごとくこっそりとチョコレートをミアの筆入れの横に置いてくれた。顔を輝かせる。頭を使いすぎて、糖分が欲しかったのだ。


「ありがとうございます。頑張ります」


 ミアはお礼を言うと、休憩をするためにチョコレート手に外へと出た。図書館は飲食禁止だからだ。

 まだ日暮れ前なのに暗いと思ったら、外では雪が本降りになってきていた。上着の襟元を押さえ、一口、口に入れるとチョコレートは体温でなめらかに溶け始める。芳醇な香りと甘みが体に染み込み、疲れが取れると、気持ちが浮上する。

 だがその効果もむなしく、ミアはすぐに顔を曇らせることとなった。

 取り巻き二人を引き連れた、アンジェリカがこちらを睨み据えていたのだ。あの騒ぎ以来、嫌がらせや無視はピタリと止んでいたのだけれど、彼女だけはミアを空気のように扱っていた。なのに、今の彼女の眼差しは前と変わらず刺すように鋭い。

 今になってどうしたのだろう――ミアは怪訝に思った。


「フェリックスさまと随分仲が良さそうじゃない? 上手く取りいったみたいだけれど、母親の話をして同情してもらおうとするなんて、浅ましくて恥ずかしくない?」


 なんだか似合わない『さま』付けに、そんな場合じゃないのに苦笑いが出そうになる。奥歯を噛みしめて堪える。やっぱりわかりやすい人だなとミアは心の隅っこで思う。この出方は素直に嬉しかった。正面からやってきてくれれば反撃できるからだ。

 おまえは何も悪く無い。自分に非がないのならば、堂々と胸を張るべきだ。変に弱みを見せるとそこを突かれるぞ――それは子供たちの心無い言葉に傷ついていたミアにレッツ先生が何度も言ってくれた言葉だった。


「あのときあの場所にいて、わたしの話を聞いていてそう思うの? それなら、眼のお医者様と耳のお医者様を紹介するけど」


 哀れみを込めてそう言うと、反撃を予想していなかったのか、アンジェリカはカッと赤くなる。


(やってしまいなさい――とか来たらどうしよう)


 お決まりの展開を頭に思い浮かべて、ぶるりと武者震いをすると、ミアは腹に力を落とした。腕っ節には全く自信がない。だけど、アンジェリカも暴力問題を起こして退学になどなりたくないだろう。が、アンジェリカの後ろから現れた取り巻きの手元を見て、ミアは蒼白になる。

 そこには図書館に置いたままだったノート、それから没になった企画書の原稿があったのだった。


「彼、冬至祭のパーティ、来れないって言ったの。企画書があるからって。つまり、これがいけないのよね」


 アンジェリカはまず没原稿をびりびりと破る。それは一番効果的な攻撃だった。理解しての行動だというのは、アンジェリカの笑みでつり上がった口元を見れば十分にわかる。


「やめて! 返して!」


 叫びながらも、ミアは必死でノートにすがりつこうとする。ノートは、数々のひらめきと、今までに調べた諸々の情報と、原稿の下書きがあった。完成稿をつくるのに絶対必要なものが凝縮されているものだった。原稿は書き直せる。だけど、ノートは困る。それはミアが調べるのに費やした時間そのものだ。替えが効かないのだ。

 だがアンジェリカがミアの言うことを聞くはずもない。


「だいたいね、こういうのが通るとすごく迷惑なの」


 取り巻きからノートを受け取ったアンジェリカは、本命を知ったとばかりににこりと天使のような笑顔を浮かべた。可憐な笑顔。だが、ミアにはそれが餌を前にした肉食獣の顔に見えた。


「わたし、彼と同じゼミに行きたいの。そうして共同研究をしたいの。だけど、《悪魔の爪》なんて気味の悪いもの、研究したくないもの。――ああ、口にするだけで伝染りそう」


 そう言うと、後ろに控えていた三人目が前に出た。一人だけ赤いタイをしている女子が何かを呟いた。古い魔法の呪文だと気がついたのは、ノートが翼が生えたように空中に浮かび上がった後だった。

 ノートは、ふわふわと裏庭の空に舞い上がり、突如ぽん、と大きな音を立てて弾けた。

 ひらひら、白いものが降ってくる。灰だと気がついたミアは思わず雪の積もった地面にうずくまった。

 灰がミアの上に降り積もる。雪に混じって白く降り積もる。

 ミアの血の気は引いていた。しゃがみこんで灰の中から残骸を探す。だが、完全燃焼した紙の束は束ねていた金具以外、跡形もなくなっていた。


「何しているの!」


 音に気がついたのだろうか、アインツ先生が血相を変えて飛び出してくる。

 そして灰の中にうずくまるミアと、握りしめたノートの金具を見て、目を釣り上げた。


「あなた達――事情を聞くわ。ちょっと私の部屋に来なさい! ミアも、この子たちに謝らせるから一緒に来て」


 だが、ミアは「謝罪なんか、いいんです。続き、やらなきゃ」と、アインツ先生の隣をすり抜ける。企画書提出まであと三日。謝罪なんかより時間が切実に欲しいと思った。



 灰かぶりのミアはそのまま薄暗い薬草園に逃げ込んだ。泣いているところは誰にも――特にアンジェリカの味方をする人間には、見られたくなかった。

 いくら貴族だからといって、学院内では平等を謳っているはず。なのにあんな横暴が許されていいのか。こらえていた涙が溢れだす。


(悔しい、悔しい、悔しい――!)


 どれだけ泣いていただろうか。

 ふと耳にがさりと木々の葉ずれの音が響き、ミアは飛び上がった。

 既に日は沈み、雪も止んでいた。ガラス越しの頭上には月が昇っている。音がした方向をみると月明かりに照らされた人影が見えて、ミアはどきりとした。薬科の授業中でなければここには人がめったに居ないのだ。放課後などいくら真面目な人間でもここには来ない。

 ミアは違和感を感じて目を細めた。


(あれ?)


 暗くて顔は見えない。だが、ここに入れるのは薬科の人間だけ。それに花壇の間の細い通路にも戸惑うこと無く近づいてくる。その慣れた雰囲気から上級生だろうと思った。でも何かがおかしい。間違い探しのような絵の中で、ミアは答を見つけた。


(ああ、そうか、が違う)


 人影の全貌が白い月光に浮かび上がった次の瞬間だった。ぴり、と予感に全身の産毛が逆立つ。瞼の裏が赤に染められたまま、ミアはその場で固まってしまっていた。

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