16 曇り顔の理由
「わたしって……まだまだ未熟、だなあ」
ミアが小さくつぶやく。父の言葉に思うところがあったのだろう。それはヘンリックも同じだった。父の一面だけを見て、過剰に反応していた。やり方には思うところはあるものの、狭いものの見方をしていたと今は思う。
「ミアだけじゃないよ。僕もだ。頭に血が上ってた」
そう言うと、ミアは少し笑った。
「多分、ヘンリックは、お父さんのことを尊敬してたから……だから余計に悔しかったんだよね」
「…………」
ミアが自分に向けてくる絶大な信頼が、少し苦手だとヘンリックは思う。
自分はそんな良い人間じゃない、そう思うのだ。
自分で自分を評価すると、誇れるのは頭脳だけ。もし自分が他の人間だったら、自分とは友達になりたくないと思う。
だから、苦手だけれど……不快かと言われると違った。慣れなくてくすぐったい。けれど彼女と話すと、少し自分が好きになる。褒められた部分については認めてやっていいかなと思える。そうすると心が晴れる心地がする。灰色の空に綺麗な青が覗くような。
今まで他の女子と話してもこんな気持ちになったことは一度もなかった。
(……だから、ブローチを贈ったんだけど)
色気のある申し出ではなかったし、当然色気のある返事など期待していなかった。
ただ、ずっとこの子が隣にいてくれたら、ずっと自分の心は青空のように晴れたままかもしれないと思ったのだ。
それを恋などと呼んでいいかわからない。ただ、たぶんフェリックスが抱えるのと似た感情だろうとは思った。
(まぁ、あっさりふられたけど)
小さな痛みを堪えて、ルドルフが去り際に置いていったバインダーに目を落とした。
返事は期待していなかったが、欲しくないわけではない。それならば、前に進む必要があった。その思考がフェリックスと同じだと思うとなんだか情けない話だけれど。
(父さんは「おまえたちが求めているものだ」と言っていたけど……これ、もしかしたら《天使の涙》のカルテか?)
反発もあって頼りたくなくて、目的を告げずにカルテを見せてもらっていたが、なにしろ膨大な量だ。冬休み中調べても手がかりは見つからない気がしていた。
だが、父は昔のまま、ヘンリックの尊敬する父であった。だからこそ、期待してしまう。
父はヘンリックたちの目的を知っていた。それは父の目指すものと似通っていた。
ならば手助けをしてくれるかもしれないと思ったのだ。なにしろ父の患者なのだから、もし特長的な症状が出ていれば覚えているはずだ。
中身が気になって気が逸った。だがミアは彼以上に気にしている。
「これ、もしかして」
ソワソワとした空気に背中を押されるようにヘンリックはバインダーを開いた。
だが、すぐに眉が寄る。
それは予想外に、いくつかの薬草の資料だった。
「コモン・ルー、精神の狂気を解毒……、カルパス地方の伝承?」
「……薬草とそれに関する伝承みたいだけど、これ……すごい量だよ」
「父さんが個人的に集めたみたいだな。いつこんなものを集めてたんだろ」
見ると大陸中のあらゆる地方の薬草の情報が載っている。名前だけのものもあるし、伝聞だけが書き付けられたメモなどもあった。
(これは、一体なんだ?)
パラパラとめくっていると同じ色の付箋がいくつか見つかる。それを目印にめくると大量の書き付けが見つかった。
「……ヤロン、西アステラ地方。これは止血、抗炎症?」
次々に紙をめくる。ミアが隣から覗き込んで言葉を継いだ。
「こっちは、ソムフェラ、南インダル地方。免疫力強化と滋養強壮……? あ……!」
ヘンリックは父の意図が急に理解できた。父がこれをヘンリックとミアに見せたのは、一足飛びに課題を攻略するためのヒントを出そうとしたのではないだろうか?
(これ、もしかして)
見ているうちにヘンリックは否応にもある病の特徴を思い出した。にわかに興奮する。
「これ、……もしかして《悪魔の爪》に効く? 確か《悪魔の爪》は免疫力の低下がすべての症状の原因で……それが薬で抑えることができたら、サナトリウムの外に出られるようになるかも」
強く熱い感情が突き上がる。それが歓喜だということに気づき不思議な気分になりながらもヘンリックはミアを見た。彼女の喜ぶ顔が見たかったのだ。
(これなら、ミアの母親を助けられる……!?)
だが。
(え?)
ヘンリックは瞬いた。
ミアは彼の予想に反して、曇った表情を浮かべていたのだ。
*
顔を知られていないのは、こういう場では便利だとフェリックスは思う。病気のせいで公務などをこなせなかったせいだが、今は病気のおかげでと言いたい気分だった。
「結構な面々みたいだな」
人垣ができている場所をちらりと見てフェリックスはひっそりと呟いた。
軍部の制服を着た青年たちが取り囲む中心には見知った顔があった。
(マクドネル陸軍少将に、ランキン大尉)
昨夜、ミアへの手紙を書きながらフェリックスは決めた。自分にできる精一杯のことをしようと。
ヘンリックが強力なライバルとして躍り出たため焦っていたのだ。
ミアと一緒に施療院での仕事ができないのならば、自分の
彼は今、王家主宰のパーティー会場に入り込んでいた。たまたま参加することにしていた夜会だったが、こんな目的で潜入するとは思いもしなかった。
ちなみにマティアスはウサギがいるからと護衛を放棄した。場所が場所だけに必要がないのもあるが、単に彼はこういう場所が苦手なので、言い訳に使ったのだろう。
「エミル王子は一体何をする気なんだか、ねえ」
「その呼び名はやめてくださいと何度言えば」
「なんだね? 別に君のことではないが?」
隣には協力者でありパーティの主催者でもあるランドルフ=マイヤー=ローエンシュタイン。フェリックスの叔父にして王の末弟の彼は、王立学院理事長にしてこのグランツの領地を与えられている。
普段は王都に滞在しているが、学院が休みの時はいつもここで過ごしているのだ。
グランツは今は王家の直轄地だが、ラディウスの文化は色濃く残るため、父の兄弟からは倦厭されていた。だが、マイヤーは昔から何かとラディウスの文化を好んだ。
彼が言うには、この地に残るおとぎばなしを代表するラディウスの文学が好きらしい。見かけによらずロマンティストなのだ。
そういった文化が残るのはラディウス最後の女王が、降伏の条件として信仰と文化の保護を願ったからだという。そしてラディウス王家に忠誠を誓っていた諸侯も女王に倣ってイゼアに降伏した。
信仰の保護は許されなかったが、文化と人は残り、頭だけを挿げ替えた国は火種を抱えたまま。何度か暴動も発生したため、この土地では軍部が力を持ち続けている。
そしてその軍部と昨日会合を行なっていたのは――
会場を見回したフェリックスは目標を見つけたものの、すぐに眉をひそめた。
「あれは……?」
リプセット卿の隣にいる男に見覚えがあった。太い眉に鷲のような鋭い目、ガッシリとした顎が特徴的だ。名は知らないがやはりパレードで見かけたので、魔軍関係だと思われた。
だが魔軍大将マクドネルや少将ランキンは今は遠巻きにしている。それがなんだか不自然だった。
「レンフィールド卿だよ。魔軍大臣だ」
「魔軍大臣……」
その地位の人間ならば、フェリックスの知りたいことをたくさん知っていると思った。例えば――どうやって、魔術師を作っているのか。
『マギラ・エーラ』とは一体なんなのか。
(直接聞いても絶対教えてくれないだろうし、警戒されるだけか……)
ふと、レンフィールドという名がひっかかる。南部の肥沃で広大な領地を持つ爵位名。
どこかで聞いたと思って頭の中を探る。だがなかなか情報が結びつかない。照会するエリアが違うらしい。ヒントが欲しい。フェリックスの持つ仮の姿――カイザーリングのように家名が同じ爵位名だとわかりやすいのだが。
「叔父上、レンフィールド卿はどこの政党だっけ」
尋ねるとマイヤーは首を振った。
「下手に政治に首は突っ込まないのが賢い生き方だ。兄上は知っている。兄上が動く」
マイヤーがつぶやく。彼はそうしてのらりくらりと生きてきたのだろう、そう窺える発言だった。
教えてもらえないならば、自分で考えるしかない。
大臣として入閣しているということは、首相と同じ政党であるはず。
(ええと……今の首相がシルド党だから、おそらくシルド党、か。じゃあどうしてあの人と馴れ合っている?)
不勉強なフェリックスだが、さすがに首相と政党くらいは把握していた。
シルド党というのは現在の与党で王権を保つことに肯定的な保守政党だ。党首のガルバーは父のお気に入りで、幼い時分にはフェリックスもずいぶんと可愛がってもらった。
考え込んだフェリックスにマイヤーが呆れたような声を出した。
「ところでいいのか? ここで顔を見られると面倒もあるかもしれないよ?」
「なにが?」
頭が切り替わらず首を傾げた時だった。
「あら、あなた……フェリックス……さま?」
聞き覚えのある声にフェリックスはギョッとした。
恐る恐る振り向くと、見覚えのある女子生徒がすみれ色のきらびやかなドレスを纏って立っていた。
「……君は……!」
女子にあまり興味のないフェリックスでもすぐに名前が出てくるのは強烈な印象があったからだ。すぐさま顔が引きつった。
(そうだった!)
主催が主催だけに学院の関係者も当然いるのだった。特に貴族の多い法科の人間は。
(――アンジェリカ、か!)
彼女は去年、フェリックスが王子だと疑って接触を図っていた。だが、その疑いもジーンのおかげでうまく逸らしたはず。もうフェリックスなど眼中にないはずだった。
だがこの場にいることで、彼女の中で再び疑いが芽吹いたような気がした。爵位を継がない男爵家の三男はこの場では少しだけ浮いてしまうのだ。
(フェリックスさま、か)
戻ってしまった『さま』付けに嫌な予感がした。どうごまかそうかと考えるフェリックスだったが、アンジェリカの隣にいる男性を見て彼は息を呑んだ。
それはさきほど気にしていたレンフィールド卿。魔軍大臣。
さらにその後ろには先ほどランキン大尉と一緒にいた青年。穏やかで細面な美青年はどこかアンジェリカに顔立ちが似ていた。
フェリックスは初めて目の前にいる少女の家名を気にした。
(アンジェリカ=ハイドフェルト。ハイドフェルト家といえば……)
彼の家の持つ爵位を思い浮かべてハッとする。さきほどなかなか照会できなかった爵位名がハイドフェルトと結びついた。
同時にアンジェリカはフェリックスにちらりと視線を流した後、誇らしげに後ろの二人を紹介した。
「理事長、父と兄です」
アンジェリカの父、レンフィールド卿は会釈をするとフェリックスを見た。
「そちらは?」
「フェリックス=カイザーリングです」
「あぁ、カイザーリング家の。理事長とはどういう……」
疑惑の視線を跳ね返すようにフェリックスは笑う。
「実は学院一の落ちこぼれでして、恥ずかしながらお説教をいただいていたのですよ」
無難に切り抜けてその場を去ろうとしたが、ふとこちらを窺うアンジェリカを見て閃いた。
(ああ、本人は無理でも……だが、それをやるとおれはおそらくいろいろなものを失う……)
それでも迷ったのは一瞬だった。
「せっかくの機会ですから、レディ・レンフィールド、散歩でもいかがですか? 学院ではあまりゆっくりとお話はできませんから」
ミアのために鏡の前で練習した笑顔で紳士のように誘うと――それは当のミアにはまったく効力を持たなかったが――アンジェリカは一瞬目を見開いたあと、顔を赤くしてしおらしげにうなずいた。
*
その日の夕方、ミアは改めてヘンリックに祭りに誘われた。
友人としてなら断る理由はどこにもない。そう思ってミアは了承した。
ただ二人きりというのは気まずいので、フェリックスとマティアスも誘った。だが、フェリックスはなにか用事があるそうで出かけていたので、マティアスだけがついてきた。
マティアスはひどく気まずそうにヘンリックを見ていたが、彼がいつも通り飄々としているのを知るとひどく安心した顔をした。
落ち着いてよく見ると、露天にはカエル以外のものもたくさん売っている。あちらこちらから甘い匂いも漂い、ミアはうきうきと店を覗き込んだ。そしてどきりとする。
「…………カエルケーキ???」
どうやらこの祭りはカエルからは離れられないらしく、ケーキもカエルの形をしている。その点については諦めるしかなさそうだった。
カエルのケーキから目を逸らすと、ミアは話題を振った。
「このお祭りって何日くらい続くの?」
「冬至から一週間くらい」
ヘンリックが淡々と答える。
「長いよね」
「まあ、みんな暇なんだろ。王都で働いてる奴らがいっせいに帰ってくるけど、あんまり娯楽がない」
「そう、かなあ」
ヘンリックはどこか心配そうにミアを見た。調剤室での発見以来、彼の顔からはずっと憂いが消えない。
『どうしたんだ?』
彼の目はそう問うていた。
あのとき、ミアは、興奮した彼と正反対の反応をしてしまった自覚があった。
すぐに前進を喜ぶべきだと自分に言いきかせて、笑顔を浮かべたつもりだったが……どうやら誤魔化せてはいないようだ。だからこうして祭りに誘ったりと気を遣ってくれている気がする。
話が続かず黙り込むと、マティアスが、
「ところで、成果はあったのか? ここに来たのって、確か《天使の涙》の患者がいなかったかを調べに来たんだろ。もたもたしてると冬休みも終わるぞ?」
と口を挟んだ。大きな体に似合わず気弱な彼は、こういったきまずい沈黙が苦手なのだ。
その言葉でミアは余計に心が重くなるのを感じた。
あの後ルドルフには腹を割って尋ねたが、そういった患者には覚えがないそうだ。となると、カルテが見つかる可能性はかなり低いように思えた。
だが憂いを跳ね除けるように笑う。
「《天使の涙》のカルテは見つかってないんだけどね、ヘンリックのお父さんがヒントをくれたの。《悪魔の爪》の薬の材料になりそうな薬草をたくさん教えてもらって!」
「すごいじゃねえか!」
「でしょう?」
ヘンリックが不審そうに見つめている。ミアは顔が引きつりそうになりながらも必死で笑った。
だが、ミアの努力は泡と消えた。やがてヘンリックは小さくため息をついた。
「対処療法が気に入らないか」
心の底に沈めた憂いに触れられてぎくりとした。図星だった。
「ミア。これは大きな進歩だ」
「わかって、るよ」
声が力を持たない。それが申し訳なくてなんだか泣きたくなった。ヘンリックにもルドルフにも感謝してる。だけど、ミアの望みとは少し――いやかなり違うのだ。
ルドルフの薬草を参考にして《悪魔の爪》の薬を作ったとして、きっと患者はずっと薬を飲み続けることになるだろう。病の影に怯えて生きていかねばならないのだろう。
だからこそ根本治療ではなければ、という思いがどうしてもあった。
仕方ないのかもしれない。そう自分を説得しようとする、だけど、完治という目標が頭をちらついて離れない。
「薬で症状が抑えられるのなら、それは健康とどう違う?」
ヘンリックはどこか怒っているようにも見えた。理解できずにもどかしい、そんな表情だ。
ミアの頑なさはよく彼を怒らせる。
わかっているのだ、自分でも頑固だと。
――視野の狭さもよくわかっているのだ。自分に嫌気がさすほどに。
「なにが目的なのかを見失っちゃいけない。目標は『ミアがミアの母さんと外で暮らすこと』じゃないのか?」
「そうよ」
ミアはまっすぐにヘンリックを見た。わかっている、そういう気持ちを精一杯込めた。
「じゃあ、休みが明けたらすることは決まった、って考えていいんだな?」
マティアスがミアの肩をぽん、と叩いた。
それが『大丈夫か?』に聞こえてミアはまた泣きたくなった。心がうなずききれない。そんな自分が不甲斐なくてしょうがなかった。
(あぁ、なんか……フェリックスに会いたいな)
無性に思った。弱っているときに浮かぶのは、どうしてもフェリックスの笑顔だ。それはきっと彼がミアが一番辛い時にいつもそばにいてくれたからだろう。
なのに今、どうしてここに彼がいないのだろう。
そんなことを考えたときだった。
ミアの視界に金色の髪がちらついた。
(え?)
幻覚だろうかと一瞬思ったミアは赤くなる。だとすると色々と手遅れな気がしたのだ。
焦って瞬いたミアは、目を凝らす。幻覚が消えないことにほっとする。
よくみるとそれはどこぞの屋敷の庭園のようだった。鉄の柵の向こう側ではガーデンパーティが繰り広げられていて、華やかな別世界だった。その中で確かにフェリックスが歩いている。
思わずミアは彼に見惚れた。
漆黒のイヴニングコートを着たフェリックスは、元々の身分が滲み出るような麗しさだった。
(あぁ、やっぱり王子様なんだ)
じっと見ていると急に彼が遠くなったような心地がした。フェリックスが遠くに行ってしまうような、そんな嫌な予感が湧き上がり、ミアは声を上げる。
「フェ――」
直後、ミアは目を見開いた。
呼び掛けようとした声は途中で消えた。
すみれ色の丈の長いドレスが目に入る。絹だろうか。光沢の美しさに一瞬見惚れる。だがすぐにミアは青ざめた。
それを纏っていたのは見覚えのある少女。――頬を染めたアンジェリカが彼の腕に抱きついていたのだ。
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